赤から青に変わる頃に
初ノート記事です。
一月末で大学最後の期末試験と引っ越しが終わり、少し時間が空いたので久しぶりに色々と本でも買って読んでみようという気になって下北沢の三省堂へ。
いつもの悪い癖で本屋で雑多に並ぶ本を眺めているとあれもこれも欲しくなってしまう。小一時間悩んだのちに、結局厳選した4冊を購入。
そのうちの一冊がカツセマサヒコの『明け方の若者たち』だった。
Twitterの妄想ツイートで有名な著者のことも何年か前にデビュー小説を出したことも知っていたが、なんとなくサブカル臭を強く感じて、「読んでることを周りに悟られるのが気恥ずかしい」という甚だ失礼なジャンルの中に分類されていて気にはなりつつも未読という状態だった。たぶん好きなバンドの名前を友達に教えるのが恥ずかしくて言えない中学生みたいな気分。
それでも文庫化&映画化がされたと店頭のポップで宣伝されていた本を買ってみようかなという気になったのは、たぶんそこがたまたま下北沢の三省堂だったことと、25歳でやっと大学卒業手前までこぎつけた時期に人生のマジックアワー(自分にとってはたぶん19から20の頃だった)を少しだけ思い出したくなったこと、それから「世界が彼女で満たされる」みたいな頭からつま先まで誰かを好きになる体験になぜだか触れてみたくなったから。
三省堂で仕入れた4冊のうち2番目にこの「明け方」を読んだ(ちなみに1冊目はこれ。これはこれで読み物として面白かった)。
そして「明け方」の余韻に引きずられすぎて他の本を読み進められなくなってしまった。時々、本当に引き込まれるような本を読むと、現実の生活の中に登場人物の影を探してしまったり、彼らと離れたくないから本を閉じたくないという感情に襲われたりする。
例えばケストナーの『飛ぶ教室』は大人になればなるほど、このピュアで繊細で優しいドイツの学生たちを自分の中にきちんと残して置きたいと思ってクリスマスの度になんども開いてしまう。そんなような本に時々出会う。
だから「明け方」を読んだ時のその感覚を残しつつ次に進むために気持ちを整理するのがこのNoteを書いている理由だ。
この話は何者かになりたいともがく若者と叶わぬ恋の二つが軸になっている。どちらも物語の終わりにキレイなピリオドが付くわけではない。それがまたリアルに感じられる。たぶんこの小説中に散りばめられた現実のかけらみたいなリアルさが彼らを実際の世界の中に探してしまう理由の一つなんだと思う。
前者については、「僕」はいかにも日本型の大手企業に運良く就職したはいいものの、その環境に飼い慣らされて、誰にも彼にもなれぬまま、なんとなくクリエイティブに憧れて、周りはベンチャー企業に転職したり、怪しい最先端ビジネスとやらに手を染めている、という風に描かれている。日本型の終身雇用制度の経年劣化と自己実現へのプレッシャーに晒されている今の20代後半から30代をよく表しているように思う。ただ、もっと若い世代はもっと柔軟に新しいものに適応しながら生きているし、「何者」かになりたいと悩むこと自体もう時代遅れな風潮さえ感じる(それはそれで自分は何者かで悩む少数派にとっては抑圧感があって辛いのだが)。もはや最初から夢や希望なんてかけらも感じていなくて、ごくごく現実的に生きているのがZ世代の特徴だと個人的には思っている。
「明け方」は小説という意味では特別に表現や文体が美しく優れているというわけでもない(そしてそれがまたリアルなのかもしれない)。それでもこれだけ心に残ってちくちくと刺さるのは、人の切なさや悲しさがどこからどんなふうに湧いてくるかをわかっている人が書いた物語だからだと思う。
そしてこの小説の中では、僕と彼女には「僕」と「彼女」という呼称しか与えられていない。だから読んでいる側は僕の視点で彼女を見続けて、恋し続けることになる。この本を読み終わった後に「彼女」の残していった匂いみたいなものを現実の自分の周りに探すという支離滅裂な行為に走ってしまうのも、「彼女」への没頭を最初から最後まで「僕」の視点で描き切っているからだ。本当に頭からつま先まで人を好きになるという経験を追体験させられる。
そんなことを考えながら読み終わって数日。「そういえば映画やってるじゃん」と思い出して立川のkino cinémaへ。
監督は松本花奈。観客は意外にも、エンドロールが終わった第一声で「私は絶対尚人と結婚するわぁ(謎の自信)」とコメントするような若い女の子がほとんどだった。きっと井上祐貴ファンなのかな。もっと前髪の長い自分くらいの年齢の男性が多いのかと勝手に思っていた。
映像で観るとまた新鮮な印象だった。映画の「彼女」は明らかに自分が小説で「僕」を通して見ていた「彼女」とは違った。でも黒島結菜が演じている彼女もまた十分に魅力的で、三人称の視点から描かれることで「僕」の頭の中のイメージでしかなかった「彼女」という存在に生きて悩む1人の人間としての命が吹き込まれたようだった。
思うに、小説での彼女は完全に「僕」よって理想化された人格だ。それはもちろん僕が彼女に心の底から恋をしているからこそだ。欠点さえも美しく光ってしまう。そして読者である僕達は「僕」の語りの視点から逃れることができない。ある意味では、物語の中で彼女という存在は完全に僕によって支配されている。
一方で、映画の中で生き生きと動く「彼女」はもっと人間的だ。自由な人格を与えられている。だから例えば既婚者なのに僕と付き合うこととか、欠点はより欠点として写るし、喫茶店で別れ話をする時に見せる苦々しい表情など、生身の人間が抱える不完全さがある。でも同時に与えられた生を悩みながらも精一杯生ききろうとしていて、内側から滲む充足感も感じられる。
小説の「彼女」に恋をし、映画の「彼女」には共感する。いずれにしてもどちらも魅力的だ。
カツセマサヒコが小説が子なら映画は甥っ子と言っていたのは、この辺の違いを踏まえてのことなのかもしれないなと思う。
同じストーリーを語るにしても映像と文章では方法が全く異なる。今回の映画版では、原作に忠実であろうとして、シーンをそのまま再現した結果、オーディエンスが感じるものが全く違うものになるということもあった。映像では一つのカットで伝えられることに文章では何ページも使っていたり、小説では一人称の視点からしか見せれない世界を読者に直接見せることもあれば、映画では、より少ない描写でそれぞれの人物の背景が透けて見えることもある。
ちなみにAmazonプライム・ビデオでは『ある夜、彼女は明け方を想う』というスピンオフが配信されていた。
これは実は小説には収録されなかった彼女視点の一章を映像化したものらしい。彼女が「僕」に出会うまで、なぜ「僕」に近づいたのか、そして彼女のその後が描かれている。こうした背景を知ると物語の受け手はより彼女に共感できる。だからこそ、この一節が小説には収録されずに、映像化はされたのだろう。
映像と文章でまるで違った「彼女」像が浮かんでくるのは面白い作品体験だった。