2021 蠍座の言葉 花森安治┃欠点こそ美。見失いやすい、忘れがちになる価値に意識を向け続ける
蠍座の言葉
1911年10月25日神戸生まれ。蠍座に太陽、水星、木星を持つ。
編集者・グラフィックデザイナー・ジャーナリスト・コピーライター。東京帝国大学文学部美術史学科卒業後に戦地へ。敗戦後の1948年、大橋鎭子とともに「暮しの手帖」を創刊、初代編集長となる。企画、取材、執筆、写真、レイアウト、書き文字、表紙画にいたるまで自ら手がける。庶民に寄り添った衣食住の提案を打ち出す傍ら、暮らしを脅かす戦争に反対し、環境問題に際しては、国や大企業に対し鋭い批判を投げかけた。
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今回、花森安治の言葉を選ぶ際、二つの文章、二つの方向性でかなり迷った。どの言葉も蠍座というサインを考えるうえで重要な表現であったし、どれも根底は同じことを言っていたが、表面的には違うもののように見えた。
一つは、水エレメントのいきいきとした表現がそこにあった。もう一つは、蠍座の不動サインの確固たる姿勢を示すものだった。
いずれにしても、星占い本に書かれているようなオール・オア・ナッシング、ゼロか百かという極端な考え方を示すものでも、奇をてらうものでも、劇的なものでもなく、深く温かい水エレメント・不動サインの普遍的な価値を求める姿勢がそこに静かに描かれていた。
今回は、せっかくだから冒頭の言葉と合わせて三つの言葉を紹介し、蠍座のもつテーマというのを改めて考えてみよう。
まず、冒頭の言葉から見つかるのは、私がよく講座中に紹介する蠍座の魅力の一つ、「欠点こそ美である」という負の遺産————ネガティブに見えるものの中にこそ価値を見出し、それを個性=財産にするという生き様である。
見た目の欠点=個性はもちろん、生い立ち、幼少期の体験、学生時代の暗い歴史、借金、離婚、リストラ、病気といった痛みを伴う経験など、本来なら封印したい人生の恥部にこそ、人には体験できない個性=価値があるということ。
蠍座の段階で、その暗く沈んだ自己に光を当てることによって、花森安治の言葉を借りれば「自分の欠点が、どこにあるかを知って、その欠点が、なによりの魅力になるように、誇張したり、強調したりして、みがき上げること」によって、むしろ誰にも似ていない個性=価値が創造できるということになる。
「私が何者かわからない」と言っている多くの人が、自分の欠点を見て見ぬふりをし、自分をよりよく見せることに専念しすぎるあまり、「その結果、面白くも、おかしくもない、うすぼやけた印象しか与えないものになろうとして、苦労」することになるわけだ。
つまり蠍座というのは、欠点に気づき、そこに“私”の普遍的な魅力を見出すことにほかならない。
または、次の言葉を考えてみたい。
ここに書かれているのは、もう一つの蠍座の重要なテーマ、水エレメントの普遍的価値である。つまり、「手あかにまみれた千円札、これをたたんだりのばしたりしてきた、大ぜいの人の指」「たのしそうな笑い声や、身を切られるようなため息」といった<暮し>こそが、水エレメント・蠍座が求める普遍的価値なのである。
だから、蠍座は決して大げさなサインではないのだ。
日々のささやかな暮らし、それがどれだけ尊いものであり、美しいものであるか。いつ失われるともわからない<暮し>を、どうして守らない、大切にしない理由があるだろう?
花森安治のこの二つの言葉は、実際は同じテーマでつながっている。
人々が生きているうえで見失いやすい、忘れがちになる価値に意識を向け続けること。それが、花森氏が伝えたかったことなのだろう。
『暮しの手帖』を支える三本柱の一つと呼ばれた「ある日本人の暮らし」が始まったのが、創刊から六年が過ぎた1954年のことだった。
彼は雑誌の中で読者にこんな呼びかけをした。
「なにか特別なことのない、どこにでもあるふつうの暮し方」、もしかしたら、蠍座ほど、それを守ろうとしているサインは他にいないのではないだろうか?
蠍座期、私たちはもう一度改めて、忘れがちな価値――欠点なのか、なにか特別なことのない暮しなのか――を見つめてみたいと思う。もしかしたら、それこそが本当の意味での自分との新たな出会いとなり、新たな始まりになるのかもしれない。
それが蠍座の支配星が「火星」である重要な意味なのではないだろうか。