2022 牡牛座の言葉 澁澤龍彦 ┃自分でつくり出す快楽、実践のうちからつかみ取る快楽こそ、ほんとうの魅力がある
心理占星術家nicoが選んだ今月の言葉は...
牡牛座の言葉
今、もっとも好きな仕事の一つが、主宰している「生き方・働き方研究会」で自分の人生をつくり続けている人々のチャート分析だ。主に個人天体5天体などを読み込みながら、どのようなエネルギーがこの人物を、この人物たらしめているのかを考えるのが本当に楽しいし、感動する。そして、人というのは、こんなにも可能性に満ちているのかと驚く。
だから、この今月の言葉も、その人物らしさを抽出しながら読むのが楽しいのだけれど、今月は牡牛座に太陽、水星、金星を持っている澁澤龍彦。占星術をちょっと学んだ人なら、これを聞いただけで「わー牡牛座すごーい」みたいな感じになるだろう。また逆に、澁澤龍彦を知っている人なら、「やっぱり! いかにも牡牛座っぽい感じ」となるかもしれない。
この「牡牛座っぽい」とはどのようなものなのだろうか。マルキ・ド・サド、ジョルジュ・バタイユなどを翻訳していたわけだから、「快楽主義」や「エロティシズム」といった動物的な本能を解き放つような、そういった耽美的なところが牡牛っぽさと思えるところなのだろうか。
確かにそういうものを「牡牛座っぽい」というのかもしれない。身体の快楽を求め、その豊かさを享楽する。まさに金星を支配星に持ち、実感的な地エレメントである「楽」のサイン・牡牛座の特徴なのだろう。
しかし、多くの占星術にかかわっている人たちが誤解しているのは、太陽サインは、人がまだ当ててないところに光を当てること。そして、たとえ孤独な道のりであっても、自分自身で生み出し続ける必要があること。これが「太陽」というものの解釈になる。なので、もう一度、太陽サインというものの意味を考えたくて、あえて澁澤龍彦のこの言葉を提示してみることにした。
ちょうどこの本が出版された1965年ごろは、求道的で禁欲的な精神主義に彩られた人生論が復活、流行していたと言われている。そのさなかでサドの翻訳家としてわいせつ罪に問われるわけだが、だから、つまり澁澤龍彦の太陽は、社会を扇動しようという意図をもって、そのころ誰も当てようとしなかった暗闇に「快楽主義」という光をあて続けた。しかし、時代はここから澁澤龍彦がもっとも嫌った高度消費社会へと向かうことになったわけだ。
だが、これこそが太陽の活動だと思わざるを得ない。「みんながいいね!」と言われているものにわざわざ光を当てるということは、あえて唯一無二の太陽がするようなことではない。
それをやりたがるのは社会的報酬としての木星なのか土星なのか、成熟していない水星なのか金星なのか、とにかく太陽が目指すところは、みんなが気がつかずにいる、または見て見ぬふりをしているけれどもあえて目を向けないところに光を当て続けることこそ、太陽がもっとも価値を持つときなのではないだろうか。そして、それこそが太陽の目指す「個性」であり、それゆえに単に消費されることなく残り続ける「価値」なのだろう。
だから、彼は声を大にして「ひからびた、店ざらしの幸福」を否定した。自分の身体を使うこそ、本能を解き放つこと、自分のアイデアや工夫の力で生活を豊かにする「快楽」へと向かうこと。「かりに幸福が向こうからやってきたとしても、受け取った幸福などというものに、ろくなものはない」だから、自ら生み出せと叫び続けた。
まさに、自ら自分の「楽しさ」を生み出し続けること。彼の言葉で言う
を、与えられたものではなく自分で「つかみ取った」という実感が持てる「楽しさ」を積み重ね、そこに自分なりの光を当て続けることが大切なのだ。
牡牛座は2番目のサイン。わたしたちはこのいかにも身体が様々な気持ちよさを体感したがっている春の極みの時期に、自分なりの「快楽」を見つけ、そこに光を当ててみることをやってみてほしい。
わたしは、せっせと生き方働き方研究会で人の太陽の可能性の分析し、心と身体を楽しませたいと思う。
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1928年5月8日東京生まれ。牡牛座に太陽、水星、金星をもつ。
小説家、フランス文学者、評論家。マルキ・ド・サドの著書を日本に紹介するかたわら多くのエッセイを発表。小説にも独自の世界を開いた。
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