【音楽批評】代官山POPsの衰退と今を活かす音楽
音楽シーンを語るには、私はあまりに無知で不器用だ。
だが、その時代背景をなぞる事は出来る。
『代官山POPs』
70年代を生きた人間なら、聞き馴染みのある言葉だと思う。
70年代初頭。ニューウェーブに乗りやって来た音楽カルチャー達。
そのブームを牽引したのが代官山 POPs(以下、DP)。これは紛れもない事実だ。
そのジャンルを作り上げたミュージシャンは諸説あるが、私は『BAD RISPECTS』のフロントマン、湯口一之介だという説が1番有力だと思っている。
溝田和貴率いる『モンキーネックス』、砂川七番の『ベッド・イン・スカイ』もDPの時代を作り上げた立役者達だ。モンキーの3th「sleepy in my forest ok?」は名盤中の名盤だと私は思う。当時、擦り切れるくらいレコードで聴いた。
DPは代官山で産まれた音楽だ。時にテクノとの融合した代官山テクノ(以下、DT)、ロックと手を組んだ、代官山ROCK(以下、DR)。代官山は音楽ジャンルに囚われる事はない。代官山という土地柄なのか、当時、代官山ではいくつもの音楽が代官山との融合果たした。
思えば、当時の音楽雑誌(今は廃刊になったが)『そのOTO』(1970年創刊)も代官山POPs特集を盛んに取り上げていた。
ファンの中では有名だが、DPロック(以下、DPR)を一般にまで押し上げた『リトルモザイクス』の岸と湯口の対談で、湯口が非常に興味深い発言をしている。
以下。本文抜粋。
湯口「でも僕たちの音楽って結構、なんだろうな?岸さんもそうだと思うんですが、別に認めてくれなくても良いよっていう初期衝動で作り上げられてきたもんだと思うんですよね?」
以下、湯
岸「分かる。」
以下、岸
湯「だからデビュー当初なんて結構尖ってましたもんね?僕ら」
一同笑い
岸「分かる。」
湯「でも結果、代官山っていう土地柄だからこそ生きた音楽というか、その時代に流されない音楽が完成したのも、代官山だからなんだろうな。」
岸「だね?うーん。まあでも。分かるな。」
「その OTO」1971年「代官山POPsの昔と今のOTO 湯口一之介✖️岸慎一」より
時代に流されない音楽。
その言葉は、当時、私自身も感銘を受けたのを覚えている。当時の代官山 POPsの無敵感というか、その圧倒的な王者の佇まいに酔頭しきっていた。
誰もがその時代を称え、後に来る衰退の時なんて、誰が予想できただろうか?
山下達郎とシティポップの登場である。
当時を生きた人間なら分かるが、代官山という限定的な土地ではなく、シティという大きな一個体に産まれる音楽。
勝負は明白だった。代官山なんて土地、あっという間に吸収されてしまうのは目に見えて分かった。
だが湯口は1人だけ闘い続けた。
湯口が生放送の特番『見える音楽』で発した。
「代官山はシティなのか?僕はそうは思わない。」
当時、この発言は物議を醸し、あらゆるメディア、町内会を敵に回し、結果湯口と当時のプロデューサー、箕輪定武の謝罪にまで発展した。
もう、時代は死んだのだ。
あの当時の気持ちを言葉にすることはできない。伝説が終わる時は一瞬だ。
「そのOTO」最後のインタビューでの湯口の言葉を紹介したい。
以下。本文抜粋。
湯「結局ね、終わるんですよ。いつか。それは必ず。遅かれ早かれ。達郎くんの音楽がそれを証明してくれた。」
岸「うん。そうだよね、昔さ、俺達が
湯「音楽は、時代だなって思った。時代が変われば音楽も変わる。そりゃあそうだよな?」
一同笑い
岸「確かにね、音楽ってさ
湯口「でも、時代は変わっても代官山POPSは確かにあったし、そこに残った音だし、俺達が生きた時代の音楽だったと俺は思う。」
岸「俺も思う。」
「その OTO」最終号 1979年「さよなら代官山POPs 湯口一之介✖️岸慎一」より
時代は変わる。それは常にだ。時代が変われば生活、音楽も変わる。
確かにそこにあったのだ。その時代を活かした音楽が、代官山POPsは確かに短命だった。だが、確かに時代があった。代官山という土地に生きた音楽が。
時代はコロナ時代。こんな時代でも、今を作る音楽が確かにあるはずだと私は思う。
だからどうか、負けないで。
語りて・『リトルモザイクス』岸雄一郎
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