愛されて育った私はどんな人間だったのか

私がもし違う育てられ方をしていたらどんな人間になっていただろう。
時々そんな妄想をしてしまう。
暴力を振るわれたことがなくて、褒められ肯定されてきた私。
困ったらいつでも助けるから頑張りなさいと笑顔で背中を押されて踏み出す私。
いくら描いてみても全くイメージが沸かない。
私は幼児期にはもっと活発で社交的で物おじしない性格だった。
正直言ってあまり良い子ではなかった。
親に肯定や承認をされなかった反動ということにしてほしいのだが、かなりの問題児だった。
暴力で問題を解決しようとしたり、大柄な態度で友達をコントロールしようとした。
それは家で親にされてきたことと同じだから何が悪いのか、怒られても今一ピンときていなかった。
問題を起こすのはさておき、今の私とは違ってもっと強くて自由だったのだ。
性格が激変したのは11歳の時で、はっきり覚えている。
長くなるので今回は書かないが、一つ、親に、そして世界に失望する悲しい出来事があり、私は心を閉ざした。
常に何か喋っているタイプだったが、家でも学校でもほぼ喋らなくなった。
社交的な面は消え、新しい人と話すのが怖くなった。
気が強かったのに、意見を言えず黙ってずっと泣いているだけの人間になった。
180度変わってしまった。
親と精神的にも物理的にも距離ができて数年経った今は、その中間にいると思っている。
幼児期の本来持っていたであろう性格と、親に拒絶されて苦しんで身につけた性格のちょうど中間。
人と接するのは苦ではなく新しい人とも仲良くなれるが、大勢の中に飛び込むのは苦手だったり。
意見を求められたらはっきり言えるけど、ぐいぐい意思を通せるわけでもなかったり。
個性が薄いと言ってしまえばそうなのだろう。
でも今の私はちょうどいいと思えるのだ。
息子は私によく似ている。
特に幼少期の私にだ。
遺伝の影響が大きいことに驚く。
そしてそれは私にはとても美しく映った。
昔の自分は問題行動が目立っていたから自分の性質が全て悪であるかのように周囲から評価されていた。
しかし息子は違う。
たとえば私は落ち着きがないと言われて育ったが、同じように多動傾向のある息子を見て、好奇心旺盛だなと感じる。
癇癪の強さを見ても、自己主張しっかりできるタイプかなとか、将来は決めたことをやり通せるタイプかなとか思っている。
私はずっと喋っていてうるさいと親に言われてきたけど、常に休みなく宇宙語を話す息子を、語彙力高くなりそうだなと見ている。
もちろん私と似ているということは問題児になる可能性も秘めている。
そこは覚悟しなければならない。
ただ、なんとなく、息子はそうならない気がする。
親バカだろうか?
私だって最初から問題児として生まれてきたわけじゃなかったはずだ。
親の接し方や家庭環境の影響で捻れてしまうのだ。
だとしたら、私は我が子を愛して、受け止めて育てたい。
ポジティブに褒めて励まして育てたい。
その結果どんな風に子供が育つか見てみたいし、私の両親にも見せたい。
親に肯定されて育ったならどんな私になっただろう。
その答えが知りたいから、私は親と同じ育児にならないように注意を払い続ける。
以前私は母に、「もっと褒められたかった」と訴えたことがあった。
母は、
「褒められるところがあると思ってるのか?」と言った。
子供の褒めるところが見つけられないのは親の怠慢だと私は思っている。
一番そばで一番長く子供を見ている存在、それが親であり家族だ。
良いところも悪いところも見つけるのに十分な時間があるはずだ。
子供にとって親は最大の理解者でいてほしい存在だ。
色眼鏡なしに、世間体も気にせずに、ちゃんと子供を見てあげないから、褒めるところも見つけられないのだ。
私は我が子が生まれ持った原石を壊さないように、素質を潰さないように、伸ばしてあげたいなと思う。
自分の性質を良い方向に使えるように導いていける親でありたいと思う。
子が大人になった時、肯定されて育ったら私はどんな人間になっていただろう、の答えが少しだけでも見られたら嬉しい。

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nico
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