「湯飲み茶わん。」/ショートストーリー
結婚記念日がもうすぐだ。早くに結婚したので40年にもなる。何婚になるのかと検索したら「ルビー婚。」だった。この歳でルビーはさすがにプレゼントしてとは言えない。ルビーは若い女性のほうが似合うと私が思い込んでいるだけかもしれないが。
30年目の時、夫はなぜかダイヤモンドの指輪をプレゼントしてくれた。すでに50代ではあったが嬉しかった。控え目なデザインだったのでこれならつけても違和感がないとそれから私はその指輪をつけている。
私たちが結婚しようと思ったとき、婚約指輪を買う余裕がなかった。ふたりともまだ大学生だったからだ。双方の親は最初結婚には反対した。特にうちの両親は大反対した。
「まだ学生の分際で結婚するというのは賛成できない。」
「どうやって、うちの娘を養うというの。」
「夢は諦めるの。あんなに頑張ったのに。」
親の言葉はどれもまっとうだった。まっとう過ぎて私は反発してしまったのだ。結局、妊娠しているからという理由で私たちは結婚した。私はピアニストになる夢を諦めて学校を退学した。
結婚してしばらくは双方の実家からの援助が頼りだった。新婚生活は幼いころに夢見た甘いものではなく、心身ともにいつもぎりぎりの生活だった。私のほうは親の引いたレールを走るのに嫌気がさしていたのだと思う。親から離れてもやっていけるという意地もあったのだ。
あの時夫のほうはどうだったのだろう。夫はどちらかと言えばピアニストを目指す私とは反対に地味な存在だった。内向的で控え目だったけれど、そこが私には新鮮だった。ピアニストに言い寄る男は存外多かったのだがどの男も遊び好きで、私を歩くアクセサリーのひとつだと思っていることが見え見えだった。夫はその点、言い方は悪いが誠実だけが取り柄といってよかった。
そんな夫は私が妊娠したと知ると大いに焦ったようで、その言動はまるで手違いで犯罪を犯してしまった善人という体であった。
私はピアニストになるという夢は諦めてかわりにピアノを教えるという方向転換をした。子供が手を離れるとピアノ教室を始めた。その頃はどこのおうちも娘にピアノを習わせるというのが流行っていて、私たちの生活は夫の給料とピアノ教室の月謝で人並みになることができた。
あれから40年の歳月。私たちの子供たちも立派に成長して独立している。二人の子供のうち長男は手堅く公務員になり、長女は私の代わりにピアニストになって特別有名ではないけれど、それなりにコンサートを開いたりしている。今度の記念日には久しぶりに子供たちと孫たちみんなが集まるというのもいいかもしれない。
そう思って私は娘の新しい連絡先を探そうと夫の書斎に行くとその1枚の用紙は別に隠すわけでもなく、まるで見てくださいと言わんばかりにおいてあった。何だろうとみた私は愕然とするしかなかった。
それは「離婚届」だった。すでに夫の分は記載済みで押印もしてある。これはいったい何のいたずらなんだろう。
結婚しようとした時、夫の本心は違っていたのか。妊娠しなければ結婚しなかったのか。私とはどういうつもりでつき合っていたのか。今までの40年は夫にとって何だったのだろう。
途方に暮れた私は今日買ったばかりのお揃いの湯飲み茶わんにお茶をいれてみた。
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