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文学とブランディングとFF7R

こんにちは、シンガポールで働く日本人、ニコールです。

Final Fantasy 7 Remakeをずっとずっとやりたいと思っていたのですが、そもそもPS4も持ってないし、シンガポールに住んでいると簡単に買えないし、三部作だそうで今じゃなくてもなーと足踏みしており、youtubeで見つけた動画パートのみを編集したものを拝見。(スクエニさんすいません)

で、標題であるところの「文学とブランディングとFF7R」という共通点について発想したので、ここにメモ。(以下、FF7Rのネタバレが含まれますので見たくない方は引き返してください~)

さて、FF7Rは20年前以上に発売されたFinal Fantasy 7という衝撃的&伝説的作品をリメイクしたもの。FFシリーズの中で人気が高いこともあり、本編の前後を描いたスピンオフなども出ています。
FF7R発売前の評判は「映像がきれい」「キャラの動きがリアル」などのビジュアル面に大きく偏っていました。原作プレイ当初小学生だった私も「ああ、FF7のあの世界観が今のビジュアルクオリティでプレイできるならやってみたい」という郷愁と、大人になってお金を持ったことによる「今なら思う存分買えるしやれる」という心をくすぐるには十分な前評判でした。

原作があるので、FF7は踏襲するべきストーリーがあり、原発のような魔晄炉を使って未来都市を牛耳る神羅カンパニーとの対決や、ヒロインであるエアリスの死(今までヒロインが死ぬってあり得なかった)、主人公の設定自体が実は偽物であるという叙述トリック(!)までプレイヤーはすでに知っています。だからどんなに美しい映像でそれをなぞっても、どこかでプレイヤーの心が離れる。しかも今回は三部作のようで、作品の合間の期間に購入意欲が下がるのは必至。さらに世界には多種多様なゲームやら娯楽(ネットフリックスとか)もあってますます競合環境的にもレッドオーシャン。。どんなに人気を誇ったタイトルだったとしても、気を抜けば、プレイヤーの心はすぐ他の媒体に奪われるわけです。

この問題をどう乗り越えるのか。スクエニってすごいですね、結論から申し上げますと、しっかり乗り越えてきてました(笑)。どうしたかというと、彼らはプレイヤーの心をつかみ直すため、「FF7」をブランディング(この場合リブランディング?)してきたわけです。

諸説あるけど、ブランディングによる最終目的は「顧客の第一想起=顧客の心をとらえて離さない」ことであり、有名なブランディング例はスターバックスやアップルですね。スタバはコーヒー屋さんではなく、居心地いい空間や「スタバをもって颯爽と歩くイケてる私」を買う場所であり、アップルも「持ってるだけでサマになる私」を求めてお金を払う、しかも一過性ではなく、繰り返しそのブランド製品を買い続けたり、求め続ける。顧客が常にそのブランドに触れ続けようとするこの「ぐるぐる」こそがブランディングがもたらす価値なわけです。

でもいつも同じだと人は飽きる。だから、ブランディングには「安心感」だけではなく「斬新さ」が常に求められていて、スタバが毎シーズン新作フラペチーノやら雑貨やらを売り出したり、アップルがiPhoneに3つ目カメラを搭載したりし続けるのは後者の斬新さのためですね。また、前者の「安心感」は「いつでもその商品や購入体験そのものを通じてその世界観に浸れる」という確証です。アップル製品の箱がやたらしっかりと作りこまれているのはそのためで、毎回儀式のようにあのしっとりとした質感の箱を開ける行為自体が「安心感」創出の仕掛けになっている。

その文脈で言うと、スクエニは今回、FF7(とその界隈のスピンオフからなる一連の物語)を「ファイナルファンタジーシリーズ」の1つの売れ筋ゲームタイトルではなく、1つのブランドとして捉え、群雄割拠の娯楽@家業界の中でFF7が立つ場所そのものをブランディングし直したというのが私の見解。

FF7の世界観をもう一度活用することで「安心感」はしっかりと与えながらも、「人間物語」軸に転換することで、ゲームという枠や既成概念を超えて、他のゲームや映画との差別化や新しいジャンルの開拓に本格的に踏み切った(=斬新さの担保)のではないかと感じました。

というのも、今回FF7Rを見ていて一番大きく違和感(いい意味で)を覚えたのは、各登場人物の背景や関係性、微妙な心の揺れや信条がこれでもかというほどに盛り込まれていること。ゲームとしてはtoo muchなボリュームでメインキャラから市井の人々まで細かく人物設定が決まっています。そのためゲームを進めていくと、「みんながそれぞれ自分の正義のために戦っているんだ、良いか悪いはなく、すべてはどの視点から見るか次第なんだ」という想いに変化していきます。ちょっとスターウォーズに近いものがありますが、それをさらに多様性を持たせている感じです。

例えば、サブキャラであるところのアバランチメンバー「ジェシー」や「ビックス」「ウェッジ」も感情移入できるレベルで背景が作りこまれています。ジェシーはプレートの上で育ったいわゆる中間層神羅社員の娘で、女優を目指していたが、父が魔晄炉内で働いていたために魔晄中毒になり、それ以来反神羅のアバランチに加入、という設定。彼女の実家を訪問し、寝たきりの父親の姿を目にするなどの疑似体験イベントまであり、さすがの無表情クラウドも「うぅ。。」となっています。

ほかにも、神羅カンパニーのせいで空に浮かぶ7番街が崩落し、下のスラムだけではなく、7番街自体も壊滅した後。主人公クラウドたちが神羅本社に乗り込むのですが、そこで出会う神羅カンパニーの社員(普通の企業なので一般社員も多いのです)たちが、連絡のつかない自分たちの家族を心配して取り乱している姿、都市計画部門の復興係の人々が復興に向けて深夜まで一生懸命会議している姿(自分たちの会社のせいで壊滅したのは知らずに)、など、様々な視点が「必ず通過するように」設定されているのです。

この本流のストーリー以外の部分も作りこみ、同時進行で展開する、というのに見覚えがあると思ったら、文学や映画の手法に近いんですよね。文学でも、物語の進行が主人公のみだと物語そのものの厚みがなくなるため、通常はメインだけではなく、サブでも人間物語が進行していて(それをどこまで表現するかは作者次第、匂わせるだけだったり、きっちり語る人もいます)、そことの絡み方で世界観が安定し、深みを作り出せるわけです。

ここまでくると、「これってバトル付きの映画なのでは?」というFF7が出た当初からあった揶揄を、FF7Rでは自ら実現しに行っている感じ。他の映像がちょっときれいなバトルゲームやRPGが追随できないレベルにまでやり切っているという点でも差別化が際立っています。(実際、今回FF7Rではバトルの難易度を自分で設定できるようになっているようで、ここの時点でもバトルにあまり重きを置いていない、人間物語軸が感じられます)

また映画でもゲームでもない中間地点に陣取って、「リメイク」と題されたFF7Rは終盤で原作からそれていくことが明示されています。つまり第二部以降、ストーリーは変わるわけで、見たことのないストーリーが出てくる、とあれば、それまでの期間プレイヤーは黙っちゃいません。
ばらまかれている今までのFF7関連ストーリーから仮説を練り上げてWEB上にアップする人たち、他のプレイヤーが見て理解したり「違う」って思ったり、世界観を確認しあったり。前後のスピンオフを見ていないプレイヤーは再度そっちを見に行く、見落とした箇所があれば、もう一度原作やFF7Rをプレイし直す、そのぐるぐるをたどる構造になっています。次回作が出るまでに自分の回答を練っておき、答え合わせをする構造にしているわけです。(実際にFF7R第一部自体も、今までのスピンオフを見てきた人たちのちょっとした答え合わせになっているようです)これも一つの「斬新さ」の担保。

今の時代のブランドの築き上げ方ですよね、まさに。一時代前はブランドというのは企業のもので、企業から発信される一貫性のあるメッセージや世界観の作りこみに共感するかどうかでほぼ決まっていたのですが、今はベースとなる世界観やメッセージはありつつも、ブランド自体の捉え方はユーザーに開かれています。ユーザーの中で再生産されるブランドへの捉え方(イメージ/こうであってほしいなどの想い)の集合体が一つの大きなブランドになるんだという様相。そのユーザーによる無尽蔵な増殖が「ぐるぐる」になり、ぐるぐるが結果的に「心をとらえて離さない」という状態を生む=ブランディング成功という形。となると、企業側から「自ブランドをこう思ってほしい」というのって意味をなさないのかな。ある程度ブランドが規模を持ち始めると、自分の制御できないブランドイメージに変わっていく=手離れしていくものなのかもしれないですね。まあ、インダストリーにもよるのかもしれないですが。(増殖性があるかどうかの濃淡は違いそう)

また、リブランディングという点では、時代に合わせて物語自体もアップデートが加えられています。例えば、主人公が行動を共にするアバランチは「テロ組織」です。魔晄炉爆破をもくろみ、実際にいくつかを爆破しています。その影響で多くの人が亡くなる、それは抵抗する神羅カンパニーの兵士だけではなく、善良な市民もです。テロに対する考え方や認知は9.11以降のこの20年で大きく変わったので、アバランチは今の世情からしたら受け入れにくい思想の持主。そのため、原作になかった「これって正義なのか?この方法しかないのか」という迷いがはっきりと描かれていて、ここでアバランチの行動を少し「客観化」する意図が盛り込まれていました。(制作サイドの、「わかってるよ、これってテロだよね、どんなにきれいなこと言ってもテロはだめ。でもこの人たちはやっちゃうの」という前提を匂わせている印象)

こういう時代に合わせた改変は007シリーズのジェームズボンドのキャラクター設定などでも実は行われているようで、原作が1950年代だったこともあり、2000年代に主人公の出自や好み、車に至るまで設定変更があったようです。こういう時代変化に合わせた設定変更や物語内のニュアンス変更は「世界観」に安全に浸りきるには実は重要な要素だったりして、小さな違和感が物語への没入を阻害してしまうのを防いでいるんでしょうね。

ということで長くなりましたが、FF7Rはブランディング的にいろいろと気づきのある作品でした!興味ある方にはぜひ見てほしい(こうしてこの記事自体がぐるぐるの一助になっているわけですね。笑)。

ではでは。


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