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悼む色は赤             「人を殺すより簡単【前編】」

 子供の頃から、誕生日が嫌いだった。誕生日になると陽のある内しか外へは出られない。陽がない時間に外へ出てはいけない。イノリはそれが嫌だったし、怖かった。日がぽっかりと暮れた誕生日。家の低い門扉の前に、女が立っているのだ。その女は街灯かと見紛う程に、異様に背が高い。顔の三分の二を占める大きな目も異様だった。女はイノリに向かって、間延びした声で言う。

「お母さんだよぉ お前は拾われた子だよぉ お母さんが迎えに来たよぉ」

 それは絶対に自分の母親ではない、とイノリには分かっている。母親は、自分の子供を見ながら涎を垂らすモノではない。



 イノリは就職に失敗した。大学を卒業して東京で就職した先がブラックだった。確かに大学の土木学科を卒業したが、彼は事務職を希望したのだ。だが現場を引き摺り回された。無茶な納期に理不尽な元請。胃に穴が開くのも仕方が無かった。三十手前で仕事を辞めて彼は地元に帰った。胃に開いた穴が塞がり、元気になったイノリは実家へと帰り、地元の解体業者の求人に応募した。圧倒的に事務職が足りない、と求人票の備考欄に書かれていたので応募することに決めた。給与は以前の現場管理職よりガクンと落ちるが、それでも構わなかった。実家暮らしだったし、貯金もある程度はあったからだ。今の時期も年度が切り替わる四月と都合が良かった。



 採用試験は面接だけで、面接官は死んだ顔の若い女性事務員と七十を越えた労務安全担当だけだった。
「オガミ・・・・・・あー、これで、イノリ、って読むの。猪に里で、へぇー、猪里さん、珍しいねぇ。横浜の人なの? 尾に上でオガミって読むの、横浜の地名でもあったよねぇ」
「おじいちゃん先進んで良いスか。すみません尾上さん。折角来て頂いたのに社長が不在で、こんな感じになってしまって」
 老眼鏡を上げたり下げたりしながらいつまでもイノリの履歴書を見ているのは労務安全担当で、彼を促す事務員は男のように低い声で、つっけんどんな喋り方をした。イノリは苦笑しながらも首を横に振る。社長は朝から解体現場を見に行っているということだった。
「尾上さんは事務職志望ということですが、お間違いないですか? 給料面で言えば正直あまり満足の行く金額とは言えないのですが」
「はい。どちらかというと、確実に休めて確実に退勤出来る仕事をしたかったんです。給料面については特に重きを置いていません」
「正直ですね。事務もかなり仕事量が多いですが、休暇と退勤時間については確約出来ます。それでは採用ということで」
「え?」
「え?」
 事務員があまりにも唐突に採用決定を下したので思わずイノリは耳を疑う。労務安全担当はまだ履歴書を読んでいた。
「さ、採用してもらえるんですか?」
 若い事務員は首を傾げた。バキバキと不穏な音がしていた。深刻な肩こりか、血行がかなり悪い。
「決定権は社長から貰っているので。大学を出ていて特に深刻な既往症などは無いし実務経験も二級土木持ってるなら文句無いですよ。算数が出来なければこれから覚えていきましょう。中卒程度なら即戦力です」
 真顔の事務員にイノリはたじろぎつつも頭を下げた。
「ありがとうございます。頑張って働きます」
「はい。よろしくお願いします。それでは書類を書いて頂きますので、下の事務所の方へどうぞ。勤務についてもそちらで説明させて頂きます。ホラおじいちゃん行きますよ」
「これでイノリって読むんだねぇ」
「いつまで見てんスか。そんなに名文ならコピーしてあげますから」
 従業員二人の応酬にイノリは顔を強張らせつつも事務所へと案内してもらい、書類の手続きを行った。


 そして初出勤の日。建設業の始業時間は早い。現場はもっと早い。その頃の癖なのか、イノリは早朝六時半に会社の前に来ていた。新しい職場は広い敷地に数台の重機を置いた三階建ての会社だ。出入り口の前はロータリーのように車での乗り入れが楽になるよう整備されている。
 イノリは作業服が支給されないことを祈りながら、スーツ姿で出社してきた。鍵は開いているだろうか、と玄関に近付いたところで彼の足が止まった。

 ガラスで出来た扉の脇に、女の子が膝を抱えて座り込んでいる。女の子は裸足だった。何故だか、スーッと背筋が冷たくなった。

「あ、これ、怖いやつだ」とイノリは直感した。
 女の子が顔を上げた。顔の変なところに目があった。普通、人間の顔は口が真横なってついていない。ぐしゃぐしゃに眉目と口を並べた福笑いだ。生きた人間の顔では無かった。

「あ み みみ みて みてみて みえて め みえて みえてる みえてる おまえ おまえ み みみ」

 女の子が音の羅列を発した。「逃げないといけない」とイノリは思った。足が動かなかった。

「み みえ みえて みえてる おまえ み みみみみみ み み み みみ みみ みみ しね 」

 いつの間にか女の子は立ち上がっていた。そして近付いてくる。初日にこんな酷い目に遭うのか俺は、とイノリが思った時だった。
「人ん家の敷地で何してんだゴルァアアアアアッ! ブチ殺されてぇかッ!」
 怒声がイノリの耳を劈いた。女の子は顔を声がした方へと向けたが、次の瞬間、飛んできたバールがその顔にめり込んで倒れた。驚いて尻餅をついたイノリに向かってドスドスと足音を立てて誰かが近付いてきた。
 見れば長身の、作業着を来た男がこちらに歩いてきていた。三十過ぎの、左の眉尻と目尻に掛けてに大きな切り傷がある男だった。イノリはてっきり男が自分の方へと向かってきているのだと思ったが、それは彼の勘違いだった。
 男はまっすぐ女の子へと歩みを進め、イノリには目もくれず、バールを拾い上げてから女の子の腹を思い切り蹴った。鉄板が仕込まれた半長靴タイプの安全靴。その爪先が女の子の腹にめり込んだ。「死ねオラッ!」という罵声と共に再度蹴りを食らったソレは、霞のように消えた。
 呆然とするイノリのことを、男は漸く見た。目つきの悪い、ピアスを開けた青い迷彩柄のインナーを着た社名入りの作業着姿の男。イノリが今日から働く解体業者の職員であることは確実だった。
「なんだテメェ。朝っぱらからこんなトコにいやがって」
 「酔っ払いの迷子かァ?」と見下ろしてくる男に、彼は上擦った声で自己紹介をした。
「キョッ、今日からお世話になります! 尾上猪里と申します!」
「あ? あ、あーッ! はいはい中途採用の! いや、悪いねホント。変なとこ見せちゃったな!」
 わはは、と男が差し出してきた手を取ってイノリは立ち上がった。男がまだ手にバールを握っていることは考えないようにした。
「ホントに悪かったよ。俺はセキショウだ。アンタの雇用主になるな」
「セ、セキショウ社長・・・・・・て、め、珍しいお名前ですね・・・・・・」
「赤い松って書くんだよ。寺の子供に生まれると変な名前付けられるもんだ」
 下の名前だけ名乗るんだ、と何処かズレた感想を抱くイノリを余所に赤松は快活に笑う。そして玄関に近付いて鍵を開けた。ドスドスと先へと進んでいく。イノリは慌てて赤松の背を追う。
 赤松はテキパキと社内を案内してくれた。「ロッカーはこれ使って良いから」「机はアクルの隣使って。その方が色々教えててもらい易いだろ」「この辺はコンビニが遠いから昼飯は来る途中で買うか弁当持ってきたほうが楽だな」「朝礼は朝八時半から。基本会社には俺と労安のクエさん、あとアクルぐらいしかいねーから」「一応会社支給の携帯渡しとく。番号は入ってるから後で見といて」「現場の奴のことは取りあえずアクルに聞いて」と説明をしてもらう内に時計の短針は八時を過ぎていた。そして事務服を着た女性がフロアに入ってきた。面接の日にあっさりとイノリに「合格」を言い渡したあの事務員だった。
「・・・・・・はようざいまーす・・・・・・・・・」
 朝が不得意なのか、死んだ顔で地を這うような声で彼女は挨拶してきた。イノリは「おはようございます」と頭を下げる。
「おうアクル。尾上さんスゲーぞ。俺より会社来るの早い」
「マジか。そんな早く来るとロクなことないから止めた方が良いですよ。玄関開いてねーし」
 イノリは漸く、つっけんどんな喋り方をする彼女の名前が「アクル」なのだと気付いた。それから後にフロアにやって来た労務安全担当、労安の老人が「クエ」という名前なのだろう。彼はイノリに気付いて微笑んだ。
「あ、こないだの人だね。おはようございます」
「おはようございます」
「うーん、ごめんね、名前なんだっけ?」
「・・・・・・・・・・・・尾上と言います・・・・・・」
「へぇー、横浜の人?」
「おじいちゃんその話前回もしましたよ。再放送やめてください」
 そんな会話をしていたところで、朝礼の時間になった。


 「アクル」というのは「阿久留」という字を書く名字で、彼女自身は名前を呼ばれるのが凄まじく厭うようだった。渡された名簿の名前を声に出して呼んだだけで怖気が走ったような顔でイノリを見てきた。労安の「クエ」は「久延」という字を書く。下の名前の「ヒコイチ」は「彦一」。「久延彦一さん」と名前を読むと老人は「病院みたいだねぇ」とまた笑った。社長の赤松は書類やら何やらに追われて上座にある大きな事務机に座ったままだ。アクルとイノリの机は窓が並ぶ南側に並んでいた。社員はそこそこの人数がいるので事務机四つずつ、島のようになって置かれていた。四十人分の机があった。業務用のコピー機があり、巨大なキャビネットが壁の一面を埋めており、打ち合わせスペースらしいパーテーションで区切られている一画には小さなテレビが置かれていた。
 年下のアクルだがイノリにとっては先輩社員だ。彼女に仕事を教えてもらうことは苦痛では無かった。アクルも彼のことを考えてか、簡潔で必要な分のこと以上は説明しなかった。お陰で変にストレスや軋轢を感じることが無かった。小馬鹿にされず罵倒されない業務説明は聞いていて楽だった。クエについては時折イノリに話し掛ける他は彼に振り分けられた書類仕事をして、たまに舟を漕いでいた。
 昼休みになるとクエはいそいそとコンビニ弁当を鞄から取り出し、アクルは事務椅子に座ったまま窓まで移動し、少しだけ窓を開けるとiQOSを吸いながら私用のスマートフォンを弄り始めた。この会社は個人自由主義らしい。前の会社であれば無理矢理連れて行かれて美味いのか不味いのかも分からないラーメンを食べながら先輩から仕事の愚痴を聞かされていた。それが無いと、イノリはどうしたら良いのか分からない。
コンビニ行こうかな、とイノリが立ち上がったところで打ち合わせスペースにいた赤松が手招きした。イノリが近くまでやって来ると赤松が重箱を机の上に並べていた。彩り豊かなおかずがぎゅうぎゅうに敷き詰められている。
「尾上さん、弁当持ってきてんのか?」
「いや、ないです。今からコンビニに行こうかなって」
「俺ん家の弁当、スゲー量多いから良かったら食えよ。あ、手作りとか平気か?」
 特に抵抗は無いし、確かに弁当の量は一個人分というより一家族分のような量だったので、イノリは分けて貰うことにした。重箱が四段で、その内一段がおにぎりで埋められているのは圧巻だった。割り箸は近くにあった誰かの机から出てきたものが渡された。何故そんなところから割り箸が出て来るのか、イノリは気にしないことにした。赤松はボリュームを抑えてテレビを点けた。
 弁当は赤松の妻の手作りだった。毎日この量になので、夕飯も食べきれないのだと彼は零していた。彼の向かいに座ったイノリは家庭の味に頬を緩ませながら重箱を突いた。金のピアスに顔の左側を厳つくする傷、刻まれた眉間の皺などのせいでかなりの強面になっているが、本当は善良な人なのかも知れない、とイノリは思った。だがそれはすぐに打ち砕かれた。

「尾上さん、『変なモン』が見えてるだろ?」

 赤松の言葉に何故だが背中から血の気が引いた。朝の奇妙な「女の子」のことが、泡のように記憶から蘇った。寒気がした。指摘されたくないことを指摘されたような気がした。自分の背中に、誰かが指をさしているような気がした。落ち着かない気分になる。恐怖が芽生える。朝のことではなくて、目の前の男に。
 赤松がイノリを見詰めている。表情を読んでいる。反応を伺っている。イノリは嘘など言えなかった。
「・・・・・・・・・・・・えっと、その、今日の、朝、以外は、あの、誕生日、以外、みえ、見ないです・・・・・・・・・・・・」
「誕生日ねぇ・・・・・・まあ、丁度いいや。昼休み終わったらちょっと俺と外回り行こうぜ」
「そ、外回りですか?」
「息抜きにな。現場手当出るぞ」
「あの、いや、でも、俺が行っても、しょうがないっていうか、意味ないっていうか・・・・・・」
「メチャクチャあるよ。其処にいてくれるだけで十分だ」
「いや、ま、待ってくださいよ、俺、あの、現場志望じゃなくて、あの、」
「大丈夫だって。作業するんじゃなくて現場を見るだけ。其処に立ってるだけで良いんだって。ホントホント。安心しろって」
 押し切られるような形で午後の予定が決まってしまった。昼の休憩時間が終わり、赤松はイノリの教育係であるアクルのところへ行く。iQOSのヒートスティックを五本吸いきった事務員が仕事に取り掛かろうとしていた。
「なあアクル、ちょっと外回り行ってくるわ。前に見積もり依頼あったとこ、なんだっけ、山ん中のラブホ」
「ああ、あの地主さんがギャン泣きで電話してきたとこスか。気ィ付けていってらっしゃーせー」
「尾上さん連れてくから」
 それを聞いてアクルの顔が険しくなった。
「ア゛ァ゛? なんで連れてくんです? 辞めるなんて言われたら困るんスけど。一般人連れて行かんでくださいよ」
 赤松の背後で聞いていたイノリは不安に押し潰されそうだった。アクルの反応がおかしい。「事務員枠で採用した人間を現場に連れて行って初日はお終い」という反応ではない。それがイノリの恐怖を助長させる。
 赤松は「心配すんな」とアクルとイノリを交互に見て笑う。歯を剥いて笑うそれは威嚇でしかなかった。
「辞めたいって言ったら二度とそんな舐めた口が利けないようにしてやるから」
 またブラックに入社してしまった、とイノリは泣き出しそうになるのを必死に堪えた。


 冴えない上に青ざめた三十路の男の顔がフロントガラスに反射して映っている。現場に出ている時の自分の顔だ、とイノリは思った。赤松が運転するプロボックス・サクシードの助手席でイノリは放心していた。気付けばもう二時間近く走っている。赤松は機嫌良さげに鼻唄を歌いながら法定速度以内で運転している。山道をひたすら進んでいる。
「・・・・・・すいません、社長・・・・・・まだ着きませんか・・・・・・?」
「あー、トンネル抜けた先だ。あと十五分。酔ったか?」
「アッ大丈夫デス・・・・・・」
 イノリは「この人、心配だけはしてくれるんだけどなぁ」と胸の内だけで思う。車に乗ってからずっと「家に帰りたい」と考えている。赤松の言った通り、トンネルが現れた。暗く明かりの乏しいトンネルだった。「怖いなぁ」と思いながらイノリは目を瞑る。
 トンネルを抜けると、耳鳴りがした。目を開ければ建物が見えた。三階建てだろうと目測する。風雨によってボロボロにされた外装や看板を見る限り、ラブホテルと思しき建物だ。木々が生い茂る山の中に廃墟が建っている、というのはなかなか忌避感を抱く風景だった。
 ラブホテルには駐車スペースだったのだろう、建物脇に広い空き地があり、其処に赤松は車を駐めて降りた。イノリも渋々降りる。赤松からは懐中電灯とデジカメを預けられた。
 山間であるせいか、中天を過ぎたといっても何故だか辺りが薄暗い。そして寒い。イノリが白い息を吐いているのを見て赤松は後部座席から予備のジャンパーを出して渡した。ついでにバールも取り出してきた。
「あの、社長。なんでバール持ってるんですか?」
 イノリの質問に赤松は「使うからだよ」と返す。バールを使うタイミングとして考えられるのが「人を殴る時」だったので、イノリは赤松に殺されるのでは、と半ば本気で思った。「じゃあ行くぞ」と赤松が先を行く。イノリは暗い気分で彼の後を追った。廃墟の出入り口には、恐らくガラスが嵌められていたであろうドアの骨組みしか残っていなかった。赤松は作業用の合皮手袋を嵌めた手でドアを開ける。
「こんちわー! 誰かいますかァー!?」
 暗い廃墟のフロントに赤松の声が響く。返事は無い。イノリはドアを過ぎた辺りからずっと恐怖心がのたうち回っていて、動悸が酷かった。平然と歩き回る赤松が恐ろしいし、建物の中も恐ろしい。何がそんなに怖いのかも分からない。余計にそれが怖い。赤松は進んでいく。イノリは大柄な彼を見失いたくなくて追い掛ける。
「三階に行く階段は崩落してて、二階は歩けそうなところが半分残ってるか残ってないかぐらいだ。足元、気を付けてな」
「はい」
 廃墟の中を見て回る道中で、赤松が建物の概略を説明してくれた。

 この廃墟はバブル時代に建てられたラブホテルだった。時代が過ぎて、採算が合わなくなり、潰れて廃墟になった。すると素行の悪い連中がたむろするようになる。最初はただの走り屋の溜まり場だったのが、徐々に悪い方向へと進んでいき、最後は半分ヤクザのような連中が事件を起こした。平成に入ってからの話だ。
 以来、ここは所謂「心霊スポット」になった。肝試しに若者がやって来るようになる。雑誌やテレビの取材が入る。この山を所有している地主としてはあまり嬉しいものではないが、取り壊すのもタダでは無いから放置していた。ただの若者の酔狂で、案外すぐに忘れ去られてしまうだろう、とも思ったのだ。
 時間が経つ中で、徐々におかしなことになっていった。建物の所有者でもある地主には報告がやって来る。「敷地内の建物に肝試しにやって来た若い連中が」で始まる報告だ。「不法侵入した」「転んで怪我をした」で終わっていた報告が、いつの間にか「病院に入った」「頭のほうが駄目になってしまった」「自殺してしまった」「死亡事故を起こした」「火を付けた」「死んだ」「人を殺した」で終わるようになっていた。これには地主も異様なものを感じて建物を取り壊すことにした。だが頼んでも業者に悉く断られるのだ。下見の段階で「すみません、ウチにはできません」と言ってくる。酷い時には建物に訪れた職員が怪我をしたり、病気になったりした。誰にも廃墟を取り壊すことが出来なかった。
 そして、藁にも縋る思いで赤松のところへ依頼した。

 事の顛末を聞いて、イノリは恐怖が一周回って冷静になった。要約するとこの廃墟は「入ったら酷い目に遭う建物」で、自分は今その建物の中をヤバイ社長と探検している。もう自分が死んでも仕方が無いような気がしてきた。
「社長、質問なんですが」
「おう」
「なんで『社長のところに頼めば助かる』みたいな展開になったんですか?」
 先導する赤松は得意そうにイノリを見返る。
「それはな、俺の実益を兼ねた娯楽のお陰だよ」
「娯楽?」
 疑問符を浮かべるイノリに彼は「朝、見ただろ?」と言う。その言葉に記憶を想起すれば思い当たるのは一つだけだ。「変な女の子」にバールを当ててすごい蹴っていた。あれが娯楽だと言っているなら、イノリには苦笑いを浮かべる事しか出来ない。
「それって、アレですか、あの、女の子」
「やっぱり尾上さんも見えてたよな、アレ」
 赤松がおもむろに軽くバールを振る。その工具はそうやって使うものではない、とイノリは思ったが言わなかった。
「ああいう、『変なモノ』をブチ殺すのが俺の娯楽なんだよ。靄になって消えんのを『死んだ』っつーのは正解かどうか怪しいけどな。で、『変なモノ』がいると仕事にならない時がある。そんな時は俺が出ていってブチ殺せばみーんな万々歳ってわけだ。俺はアイツ等をブン殴れるっていう才能があるから、それを活用してるんだ」
「アーすいませんちょっとよく分かんないです」
 あまりにも率直な感想がイノリの口から出た。赤松は「まあ趣味は人それぞれってことだ」とよく分からないオチを付け足す。
「で、尾上さんのことを連れてきたのは俺の娯楽のためだ。あの手の連中は、尾上さんみたいなのが好きなんだよ」
 とてつもなく不吉なことを言われた気がしてイノリは聞き直した。
「え? すいませんもう一回言ってもらって良いですか?」
「『変なモノ』は自分が見えて、かつビビってくれる人間のとこに寄ってくるってことだよ」
「ンアーーーーッ! もうやだ! 帰る! 帰りたい! お家に帰ります俺は!」
「ビビると発狂して変な雄叫び出るタイプだな。アクルとは真逆だな。アイツずっとキレてるから寄るモンも寄って来ねぇの。ギャハハ」
「なんスかギャハハて!? ぜんっぜん面白くないんですよこっちはァッ!? なんで!? ホント!? 何でこんな目に遭わなきゃいけないんですか俺はァッ!?」
「前世で僧侶でも殺したんじゃねぇの?」
「ナアアアァアアアアアアアッ! 転職失敗ッ! 全部クソッ!」
 イノリは頭を掻き毟って地団駄を踏む。その様を見て赤松は笑っている。いつの間にか彼等は二階のある一室にまで来ていた。これ以上先には進めない。赤松は「尾上さん尾上さん」と呼ぶ。イノリがその声に怒りを込めた視線を返せば「カメラ出せ」と指示された。車を降りる際に持たされたデジカメを取り出す。
「適当に写真撮ってくれ。一枚だけで良いぞ」
 赤松の指示を訝しみながらも、イノリは従う。現場写真というのであれば何枚も撮る必要があるが、「一枚だけで良い」と言われた。ならば、と床が崩落しているせいで進めない先を撮影した。ぽっかりと穴が開いて先に進めない廊下、そしてその先にある一部屋の扉をカメラに納めた。室内が暗いために自動でフラッシュが焚かれる。強い光が瞬いて廃墟の中を照らした。
 次はどうすれば良いのかと赤松を見れば「写ってるか確認」と言われた。「確認も何も無いだろうに」と撮影した写真を再生する。画面に写るのは何の変哲も無い廃墟の写真のはずだった。違和感がある。画面に表示されている風景の中で、何かがおかしい。
「ん?」
 イノリは目を懲らして見る。そして後悔した。

 行けない廊下の向こうにある部屋のドアが少し開いて、その隙間から誰かがこちらをじっと見ている。

「ギャアアアァァッ!!」
「お、心霊写真撮れたな。もう出て来るぞ」
 赤松の言葉に「え」と声が漏れたイノリは、彼を見た後、思わず廊下の先を見てしまった。

 行けない廊下の向こうにある部屋のドアが開いている。部屋の中に女が立っていてイノリを見ている。

 ひゅ、とイノリは呼吸が乱れた。女と目が合った。ボサボサの長い黒髪にドス黒い染みを付けた丈の短いドレス。黒目しかない目が、イノリを見ていた。真っ黒い穴のような目で、老婆のようにひび割れた顔で、彼を見ていた。女には下顎が無く、長い舌が胸骨の辺りまで垂れ下がっていた。

「いいいいつもおおおおおおお いいいいいいっしょおおおおおおにいいいいいいい いいいいったあああああああああかったああああああああああああああああ」

 女がイノリを見ながら頭を振り、何処から出しているのか分からない声を出す。彼は足が竦んだ。

「とおおおおおなあああありいいいいいいいいでええええええええええ わらってええええええええええったああああああかあああああったああああああああああああああああああああああ」

 すごく怖いやつだ、とイノリは思った。失神しそうだった。ふいに女が彼を指さした。干涸らびた指の先に爪は無かった。頭の遠いところで「なんだろう」と彼が思った次の瞬間。強い力でシャツの襟首を引かれた。
「ぎゃあ!」
 イノリが我に帰ると赤松に襟首を引かれて廊下の隅に転んでいた。自分が今まで立っていたところに天井が落ちていた。今日何度目になるかも分からない恐怖に血の気が引く。女の声が室内に響いていた。

「いいいいいいまあああああああでもおおおおおおおおおお おぼえているううううううううう ああああああああああなたああああああのことばあああああああああああああ」

 女の声が耳元の傍で響いていた。顔を背けると、目の前に顔があった。眼球のない目がイノリの目を凝視していた。潰れた鼻が触れそうなほどに近く、死出蟲達が這い回る気管からの息を吸い込んでしまうほどに近かった。彼は最早悲鳴さえ上げられなかった。

「とおおおおおおおおびらあああああああああああのおおおおおおおおおおお むこおおおおおおおおおおおおうううううにいいいいいいいいいいいい」

 響く女の声を遮ったのは赤松の罵声だった。
「うるせえぞこのクソアマ!」
 イノリの前髪を掠って振られたバールの、釘抜きの部分が女のこめかみを打ち抜いた。女の体が吹き飛ばされる。イノリは極至近距離で凶器を振り回されたことに心臓が高鳴っていた。赤松は肩をバールで軽く叩きながら体を起こそうとしている女へと近付いていく。
「テメェよぉ、そんなクソみてーな歌を人に爆音に聞かせてんじゃねぇよブスが。殺すぞ」
 ザアッ、と女の髪の毛が逆立つ。そしてまたイノリの時と同じように赤松を指した。彼は臆さず近付いていく。何も起きなかった。腰が抜けたまま立ち上がれないイノリには、女が戸惑っているように見えた。赤松が不敵に笑った。
「人のこと一丁前に呪ってんじゃねぇよ。効くかそんなモン」
 女は床を這いずって逃げようとした。だが赤松が追いついた。容赦なくバールが振り下ろされる。何度も。執拗に。
 高笑いをしながら女の背に凶器を振り下ろす赤松を、「マジでヤバイ人だ」とイノリは思った。


「いやー、これで無事ラブホ潰せるな!」
 スッキリした顔で赤松が車の運転席でシートベルトを装着している。対してイノリは「ソッスネ・・・・・・」と項垂れながらシートベルトを締める。
「ハハハハ、メチャクチャ面白かったな。いや、良かったマジで」
「良くないです何も良くないです」
「尾上さんに来てもらってホント助かったわ。俺一人だと全然寄って来ねーからさぁ」
「でしょうね」
 女の断末魔が耳にこびりついているイノリは何も楽しくない。兎に角早く家に帰りたかった。赤松は車を発進させる。
「あ、明日は尾上さんの歓迎会やるから。十八時から、近所の居酒屋で。酒とか大丈夫か?」
「・・・・・・え、ああ、ありがとうございま・・・・・・明日? 明日ですか?」

「なんか予定入ってんのか?」

 赤松に聞かれて、イノリは口籠もる。しかし不思議と素直に話してしまう。
「あの、明日は、俺の誕生日で・・・・・・」
 初日ではあるが赤松の為人をある程度理解出来たイノリは、隣の男が「そうか! じゃあ延期だな!」と言わないことが分かっていた。

「誕生日に『変なモノ』が見えるんだよな? それって、誕生日にだけ『来る』の間違いじゃないか?」

 赤松の言葉に「はいそうです」と、イノリは答えてしまう。にんまり、と赤松が歯を剥いて笑うのが横目で見えた。
「明日が俄然楽しみになってきたな!」
 分かり切っていた答えにイノリは渇いた笑いしか出てこない。もう疲れ切ってしまって、適当な話題を口走った。
「社長のアレって、なんであんなことしてるんですか? その、『変なモノ』を、退治するっていうか、えーっと」
 赤松は彼の問いに「ああ、あれな」と頷いて答えた。

「たまにスッゲー人間をブッ殺したい時があるから、そん時に我慢するためだよ」

 「人を殺すより簡単だし、どうしようもない時はアイツ等殺す感触思い出して我慢してんだ」と赤松がまた快活に笑うのを聞いて、イノリは「頭が本当におかしい人だ」と震撼した。






つづく

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