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【纏め読み】おしまいの国:踊る人虎とヒヤシンス、或いはテセウスの祈り、若くは追悼の怪物たち

【纏め読み】

おしまいの国:
踊る人虎とヒヤシンス、或いはテセウスの祈り、若くは追悼の怪物たち

【補完版】


おしまいの国まで:憎悪と絶望の国から



 傷が癒えるたびに「あなた」は人の形を忘れていき、徐々に悍ましい獣になっていく。そうして「あなた」がかつて人間だった頃の残滓を失っていくのだと教えたら、「あなた」はどう思うのだろう。
 「あなた」は怒るだろうか。私を憎むだろうか。「あなた」は私がしたことを、私を、赦すだろうか。
 たとえ「あなた」が私を忘れていたとしても。

 生い茂る葉のせいで鬱蒼とした熱帯雨林は闇の密度が濃いように思える。中南米の夜の森。その中に小さく光が見えた。暗視ゴーグルを外して仕舞う。光を目指していけば細く棚引く煙が見えた。焚火をしている。茂みの中に小さな空間がぽっかりと空いている。その火を囲んで、武装ゲリラの男が三人、腰を下ろしていた。全員栄養状態が悪そうに見える。
 余計な思考を停めて、私は静かに彼等へと近付いていく。そして私は彼等のうちの一人が腰掛けていた倒木を跨ぎ、同じように座った。ぎょっとしたゲリラ達の視線が私へと向けられる。小銃の銃口も同じように向けられる。私は取り乱すこともなく、話し始める。
「こんばんは。英語は通じるだろうか? この辺りの言葉も一通り学んできたが、挨拶程度しか出来ないんだ」
 焚火の前に座ると着ている迷彩柄のポンチョは蒸し暑さを増させるが、私はフードさえ取らない。この後に起こることの被害を最小限にするために。
「女? なんでこんなところにいるんだ・・・・・・?」
 英語が分かるらしい、私の正面に座る一人のゲリラは思ったよりも理性的だった。私の身元を知りたがっている。恐らくリーダー格か、三人の中で一番年長者なのだろう。
 ゲリラ三人をそう観察した私は努めてゆっくりと、頭の中で凪いだ湖面を思い浮かべながら話した。
「私は科学者で、そのついでに医者をしています。今はボランティアでこの地域を回って村を訪ねています。何かお困りのことはありませんか? 物資や、医療の面で」
 私の質問に三人は顔を見合わせ、そして改めて銃口を私に向けた。リーダー格の男が言った。
「それは変だ。俺達の村は街から一番近いところにある。だがそんな話は聞いていない」
 再認識。彼等は想定していたよりもずっと聡い。私は失礼なことをした。
「大変失礼した。銃で撃たれるかと思って嘘を吐いてしまった。正直に話そう。私は今、試験の最中なんだ。科学者として、そして『恋人』として」
 私の言葉を聞いて年長のゲリラは「不可解」という表情を浮かべる。簡潔に言い過ぎた。他の二人は英語が分からないのか首を傾げて指示を待っている。
「試験? 恋人?」
「実地運用試験だ。少し前、彼は作戦行動中に自爆テロに巻き込まれてね。そのリハビリ、というわけではないが」
「姉ちゃん、政府軍の人間か?」
「いや違う。私はとある軍需企業の研究員だ。戦争は別部署が担当している」
 私の回答は気に入らなかったようでゲリラの眉間に皺が寄る。辺りはとても静かだ。ジャングルなのだから動物が動き回る足音がしても良いはずなのに。虫の鳴く音さえ遠い。私は恋人が退屈で眠ってしまったのではないかと思い始めた。
 ゲリラは私が非戦闘員だと分かると警戒が少し解れた。銃を持っている、という優位にいるからだろう。他の二人にもそれが伝わったようで銃口が僅かに上を向いた。
「その恋人は姉ちゃんをこんなトコに置き去りにしてったのかよ?」
「いや、そういうわけではないと思うが・・・・・・不安になってきたな。彼、足が速いから先に行ってしまったかも知れない」
 私は「呼んでみよう」と彼の名前を口にした。そっと囁くように。日本語で。
「シータ、いる?」
 次の瞬間、私の隣にいたゲリラが目の前の茂みへと消えた。大きな黒い影と共に。どうやら彼は私の後ろにずっと控えていたようだ。確かに、私の後ろをついて歩くのが彼の昔の癖だった。
 残ったゲリラ二人は悲鳴も無く茂みの中に消えた一人の名前を叫んで立ち上がる。銃を構え直す。茂みの中を何かが歩き、また静かになる。
「なんだ、なんだ!? ヒョウか!?」
「静かにしろ! 聞こえない!」
 現地の言葉で喋りながら二人は狼狽えている。私はシータが事を終えるのを待つ。肉食獣の低い唸り声が聞こえる。若いゲリラが聞こえたほうへと振り返り、発砲しようとした。だが間に合わない。大きな影が茂みの中から飛び出した。若いゲリラは影に組み敷かれ、頭蓋を踏み砕かれた。影は地を這うように体を伏せて殺した相手を観察している。影は巨大な獣の形をしている。私がよく知る、「シータ」の形だ。
 シータは顔を上げて、最後に残ったゲリラを見た。リーダー格のゲリラは恐怖で目を見開いて体を硬直させていた。確かに彼の姿は見る人間全員の度肝を抜く。焚火の揺らぐ炎に照らされたシータは異形の姿をしている。人間と同じように戦闘迷彩が施されたケプラー繊維の野戦服の上着を着ている。顔には相手に食いつかないように、マスク型の閉口器を装着して顔の下半分を覆っている。上半身までなら普通の人間と同じだ。戦闘員のように見える。
 問題なのは、彼の腰から下がアムールトラであることだ。アムールトラの、人間で言えば肩口の辺りに彼の上半身が付いている。シータは正しく怪物の姿をしている。
「ば、化け物・・・・・・」
 リーダー格の薄汚いドブネズミ以下のゲリラにシータを侮辱される。彼は唸る。呼吸が激しい。シータが吠えようとしてもマスクが邪魔をする。ガチン、と金属がぶつかる音で正気に返ったらしいゲリラが銃を向ける。撃たれる前にシータは男に飛び掛かり、その頸椎をへし折った。アムールトラの体高が120㎝、シータの生前の身長は180㎝なので、現在の体高は2mほどになる。体重は400㎏近い。あの巨体でああも静かに動けるのが不思議だった。
 シータは息絶えたゲリラの体を四本の太いトラの足で押さえつけている。人間の腕二本でゲリラの頭を固定して食いつこうと顔を擦り付けている。マスクに阻まれて嚙み付くことが出来ない。酷く興奮しているらしい。平時なら自分でマスクを脱着出来る。十五分ほど前の初戦に比べれば返り血が殆ど無い。それでも肉食獣としての本能が刺激されるのだろう。仕留めた獲物を食べたくて仕方が無いのだ。
 やはり理性よりも本能や体に染みついた習慣が顕著に出やすいようだ。「先導しろ」と指示したはずが、いつの間にか背後を歩いている。この点は訓練が必要になる。
「シータ、シータ。そんなもの食べようとするな。腹が空いたならもっと良い食事を出す。帰ってからだが」
 呼ぶと彼はこちらを見て、「シント」と応えた。私の名前は「深統」だが、正しい読み方である「シントウ」とも最後を長音にした「シントー」とも呼ばずに植物の「ミント」と同じ発音で私の名前を呼ぶ。自爆テロで死亡する前と同じように。
 彼がこちらへと近付いてくる。やはり足音が殆どしない。褒めて欲しいと頭を垂れて私の前に立つ。
「首が痛くなるからもう少し屈んでくれ。腹這いになってくれると楽だ」
「これで良い? シント」
 トラの腹をすっかり地面に付けてシータは頭を突き出す。私は彼のマスクを外してやり、頭を撫でてやる。昔と変わらない、少し固い黒髪。
「顔に傷を付けるなよ。私はお前の顔が好きなんだ」
「顔だけなの? 傷つくなぁ」
 柔らかな物言いの仕方は前と変わらない。笑った顔も同じだ。死ぬ前と、何ら変わらない。私の恋人の顔だ。


 彼が死んだ時、私は所属企業本社にある研究室にいた。その研究室は私に与えられた研究室だった。生命工学の研究者であり、「死体の再利用」について幾つか論文を出していた私は軍需産業に就職した。
 人間は21世紀を迎えた辺りで退化したらしく、様々なところで戦争が増えた。宗教から移民から、水や食料を巡る争いまで。その辺りに興味が無いのであまり詳しくない。私にとっては、わけの分からない主義主張を並べ立てて会社を攻撃してくる輩のほうが迷惑だ。国同士で争うことについては興味が無い。むしろ仕事の需要が増え、技術革新が生まれ、私の所属する企業にとっては歓迎すべきことだ。人間は少し減っても勝手に繁殖するのだから構わないだろう。
 それよりも最近は国家間の争いの他に自警団のような連中が増えて困っている。彼等は思い思いの衣装に身を包み、軍需企業を攻撃する。馬鹿馬鹿しくて涙が出そうになる、というのが幹部以下部門長並びに私と研究員達の共通の見解だった。苦しんでいる人間を助けるというのであれば、私の代わりに恋人を殺した国を滅ぼしてくれたら良いのに。役立たず共め。あの連中を高速道路の材料にしてやればインフラの老朽化対策になるだろう。
 兎に角、資源が減少して、平和だった私の祖国も国連の要請によりかなりの頻度で自衛隊を派遣するようになった。長期間に渡る派遣の中で戦闘も増えた。絶対的に数の少ない兵隊を増やすには「死体」でも何でも使うべきだ、というのが学会と幕僚達の通説になっていった。そんな年代に私は生まれ、二十代半ばの今は研究室長という高給取りになった。ある時、現地の市場調査として海外派兵された自衛隊の元を訪れた。その時に知り合った隊員と恋人になった。
 そして彼は派兵先の中南米で自爆テロに巻き込まれて死んだ。犯人はぬいぐるみのように腹を割かれた、内臓を潰す勢いで鱈腹C4を詰め込まれた、乱雑なやり方で腹を再び縫い合わされた少女だった。彼はその少女に抱き着かれた部下を助けようとして、少女を引き剥がした時に死んだ。優しくて責任感の強い彼らしい死に様だ。後に残される私のことを何も考えていないのが欠点だが。
 恋人が死んだという連絡を電話で受けたことは記憶している。「三佐は素晴らしい方でした。残念です」と電話口の相手が言い、「そうか、作戦行動中の死亡による二階級特進で二尉から三佐になったのか」と思ったことを覚えている。電話を切ってからのことは覚えていない。次の記憶は一応持たされている拳銃を口に突っ込んで自分の脳幹を吹き飛ばそうとしているところだ。泣きながら私は会社から支給されていた自分の銃を銜えていたところを、警備員に殴られ制止され、拘束された。
 私の脳味噌はとても良く出来ていて、防犯カメラの映像を見るまで私は自分の記憶を消していることに気付かなかった。研究室で訃報の電話を受け、通話を終えた私は絶叫し、頭を掻き毟り、研究データが入ったファイルやパソコンを薙ぎ倒し、あらゆるモノに手当たり次第当たり、最後は乱雑に自分のデスクの引き出しを開けて拳銃自殺を試みていた。
 激しい感情を伴う記憶を自己防衛のために消している。賢いな、と映像を見せられた私は椅子に拘束されたまま感心した。私の目の前に座る上司は溜息を吐いた。上司が使うマホガニーの大きな執務机が羨ましい。昇進したら同じメーカーの机を買おう。
「落ち着いたかい? セラピーやってくれる企業医の先生呼ぼうか?」
「いいえ」
「伏屋君、そんな感情的になるところあったんだね」
「はい。私も驚きました」
「『全員殺してやる』『よくもあの人を殺したな』って、まさか君からそんな台詞を聞くとは思わなかったよ」
「はい。私もそんな台詞を口にするとは思いませんでした」
「でもさ、自分が死んだら君の彼氏殺したゲリラ共を殺せないよね?」
 年配の上司はしみじみとそんなことを言った。私は「確かにその通りだ」と思った。
「部門長、私はすっかり冷静になりました」
「北極点は平坦な氷の大地だが、その下の海はどれほど荒れ狂っているのか分からない。今の君もそうじゃないかな」
「いいえ部門長。私は至って平静です。とても落ち着いています」
「頭おかしくなったヤツって大体言うこと同じだよね~。感情爆発して理性死んでるの丸分かりなんだけど」 
「新しい兵器設計を思い付きましたのですぐに取り掛からせてください。是非。画期的な兵器です」
「え、どんなの?」
「完成したらお見せます」
「いや駄目だよ。問題あったら却下しなきゃいけないんだから。設計案出来たら見せて」
「完成をお楽しみに」
「だから駄目だっつってんでしょ」
 そんな遣り取りをして、私は解放された。
 私はすぐにあらゆる手段を用いて恋人の遺体を引き取った。彼の家族からは抗議の嵐。私はその全てをシャットアウトして、上司の文句も全て無視して、私の恋人の遺体を私の城である私の研究室へと迎え入れた。研究員を全員追い出して私と彼だけで作業をすることにした。私と彼は部屋の中に二人きり。遺体の鮮度を保つために室温を零下に設定した部屋の中。二人だけの世界は良いものだが、もう少し穏やかな形で体感したかった。
 私は、処置台の上に載る私の恋人を見下ろしている。私の専門は生命工学。遺伝子組み換えで疫病に強い穀物を生み出したり水質浄化作用のある貝類を生み出したりしている。そして死体の軍事利用を非公式的に研究している。私は恋人の死体を見下ろしている。恋人は臍から下を著しく損傷して失っている。私より背の高い恋人は未就学児程度の背丈になっている。
 私は恋人の顔を覗き込む。死に化粧は既に施されている。私の前髪が彼の顔に触れる距離を通り過ぎて、睫が触れる位置にまで近付ける。どれだけ顔を近付けても彼の吐息は聞こえない。瞼を上げることはない。短い睫が揺れることはない。もう人懐こい笑みを浮かべて私の名前を呼ぶことはない。私の肌に触れることはない。彼と食事を共にすることはない。彼はもう笑わない。彼が老いることはない。彼はもう私を愛していない。
 こんなにも近くにいるのに、限りなく「あなた」は遠い。
 そんなことを思って私は彼から離れた。早速取り掛かることにする。必要な材料をリストアップして研究員に準備するようメールする。彼の下半身を補う素体は何が良いだろうと考えると永遠に悩み続けると予測出来たので「寅年だからトラで良いか」と適当に選んだ。
 「ABC兵器」は画期的な戦略の新ジャンルであり、私の死体利用もその内に含まれる。まだ「どうすれば採算が取れるのか」を思案する段階なので改良が必要だ。今から私が造ろうとしている「キメラ」もコストの高さがネックとなっている。複数の材料を使って一つの個体を生み出す「キメラ」は低採算の典型とも言えるが、私の恋人が材料なのだ。幾らでも金を掛けたくなる。
 アムールトラの死体が手に入った。彼の体と繋ぎ合わせた。内臓は使い物にならないので培養した新鮮な臓器に換装した。接合の不具合を補うために他の生物の遺伝子も混ぜた。彼は食事をするのが好きだったから何を食べても平気なようにしてあげよう。彼が二度と死なないように頑丈な造りと再生能力を与えた。
 キメラの構築については、理論そのものは既に完成していた。七回の動物実験を経て後は実用段階へとどう進めていくかが問題だった。「死者の蘇生」という命題は半世紀以上前にクリアされているので困難な問題ではない。「脳の完全情報化」も、数年前に解決されている。量子コンピュータと人間の頑強な探究心は崇拝されるべきだ。
 私は彼を再構築しながら、ずっと誰かを殺すこと考えていた。彼を動物の死体と繋ぎ合わせている間、ずっと人を殺すことを考えていた。殺してやる、殺してやる。彼が赴任していた国が内紛状態で、政治的にも経済的にも難しい状況だったことは知っている。ゲリラとなって武力行使に走る民間人の内情を理解出来る。彼を殺した少女にも同情の余地があることを理解している。それはさておき殺してやる。彼等の父母が焼き尽くされますように。彼等の子供達が須く轢き殺されますように。彼等の頭上に焼夷弾が降り注ぎますように。如何に善良であろうと皆殺しにしてやる。国の体裁など保てないほど破壊してやる。民族ごと滅ぼしてやる。その名さえ歴史から削ってやる。
 私は彼が死んだと聞いてから自己の感情を切り離すようになっていた。全てが遠い事象として完結している。私は懐かしむような感覚さえ覚えながら恋人の体を繋ぎ直した。
 体のほうを繕い終えたら今度は中身を繕う必要がある。彼の体を栄養剤入りの培養液で満たした調整槽に放り込み、量子コンピュータで脳を読み込むと、ずらずらと画面にコードが表示される。コードは次々と現れてくる。人間の脳をデータ化すると画面が埋まる。全て彼の記憶だ。生まれた時から死ぬまでの記憶。コードには少しだけ私のことも書かれている。彼とは互いの仕事の関係であまり会うことが出来なかった。
 私との思い出はいつも二人で食事をしているものだった。彼はいつも私の食事の回数を気にしていたし、私は彼から常備食に関しての悲哀を聞いていたので良い物を食べさせてやりたかった。記憶を一つ見てはその日のことを思い出す。あのレストランは良かった。鴨のコンフィとカスレの店。美味しかった。とても。でももう行く相手がいない。私は脳のコードを削っていく。全てが私の恋人を構成していたコードだ。それを私は削っていく。私はこの世から恋人を消していく。淡々と。
 あなたとの食事はいつだって美味しかった。あなたと過ごす日はいつだってとても素晴らしい日だった。光はいつもよりずっと明るく、全ての境界は鮮明に見えて、あなたのことをより仔細に理解出来た。コードを読めばあなたも同じだったことが分かる。あなたの目には私がどんな風に映っていたのかが分かる。あなたは私が初めて好きになった人だった。あなたの硬い掌が好きだった。温かい手で私の手を握ってくれた。あなたは私の指先がいつも冷えていたから心配していた。恋は不思議なものだ。ただの無機質なコードを、こんなにも美しく見せてくれる。
 恋人の頭の中を私は弄る必要があった。彼の体はあまりにも変わり果てた。それを認識した時に齟齬が生まれてはいけないのだ。彼が発狂するのは忍びない。彼が自分の姿を鏡に写してそれが自分だと認識出来るように、違和感を削っていく必要がある。
 私は恋人が死んだと聞いてから七週間で彼を組み上げた。以前、彼に「誕生日のプレゼント」と渡され、研究室で水耕栽培していたヒヤシンスがデスクの上で枯れていた。新品の脳にコードを書き込んで、彼の頭蓋に納めた。調整槽から引き上げて処置台の上に乗せ、蘇生を行い、彼が無事に目を醒ます。
「私のことが分かる?」
 処置台の上に寝かせた彼に尋ねると、微睡んだまま「うん」と答えた。
「自分がどうなったのか、覚えてる?」
「うん、ん? んん、ここ、屯所じゃない?」
 「俺なんで君の研究室にいるの?」と彼は自分の額を押さえて瞼を擦る。
「体が重たい・・・・・・酒飲んでないんだけど・・・・・・」
「良かった。何処も痛いところは無いみたいだね。慣れたら体が楽になるよ」
「そうかなぁ」
「私の名前、分かる?」
「シント、ふしや、しんとう、伏屋深統・・・・・・」
「何度も呼ばなくて良い。間違ってないよ。自分の名前はどうだろう? 言える?」
「えー? えーっと、なんだっけ、えーっと、うーん・・・・・・まあいいや、別に」
 彼は、「まあいいや」と言った。「まあいいや」と言ったのだ。私の調整が反映された言動だ。彼は自身の違和感を感じていない。私は齟齬を産むコードを丁寧に削ぎ落としていった。結果として、死ぬ以前のことを輪郭程度にしか覚えていない、私のことも曖昧な影のような記憶でしかない、だがそれにさえ大して違和感を抱かない彼が出来た。それで良い。必要なのは「現在」だ。レストランに入れない姿なのに、レストランで食事をした記憶があるなんて軋みしか産まない。感情系のコードには触れていない。だから目の前の生き物は私を信じている。今後はそれだけあれば十分だ。恋人は死んで、私が切り刻んで、繋ぎ合わせて、この世から消え去った。
「そんなことよりシント、あのさ、変なこと言うみたいでちょっと嫌なんだけどさ・・・・・・」
「うん」
「俺って、本当に『俺』? なんかすごい、なんというか」
 彼はぺたぺたと自分の顔を触ったり腕や胴を確かめたりしている。トラの足にも触れる。それについては特に質問は無かった。
「すごい着ぐるみっぽい」
「まあ、お前は色々作り直したから。リハビリも必要だろう」
「そうかな・・・・・・でも、シントがそう言うってことは、そうなんだろうね」
 会話能力の確認も済んだところで彼を地下に設けられている室内試験場に入れて、部門長に漸く連絡した。部門長が私を叱ったのはほんの数分で、成果物を見せると言えば「え、見たい」と怒りを忘れた。私はエレベーターの前で部門長と合流し、「さあどうぞどうぞ」と招いた。ザトウクジラを入れることもある広い試験場をモニターするための隣室に向かった。
 試験場の一面とモニター室は耐衝撃仕様のマジックミラーを一枚隔てた造りになっている。上司に「どうぞご覧下さい」と彼を見せる。彼は試験場で退屈しているのか、うろうろと歩き回っている。人間の両手は握られて拳になり、地面につけて六足歩行している。上半身と下半身を背骨で繋げたから上体を起こす体勢は疲れるのだろう。
 部門長は彼の姿を見て「わぁ、怪獣だぁ」と言った。
「なんか腕長くない? 凄い自然にナックルウォークしてるけど」
「人間で言う『背筋を伸ばす』のは少し負担があるように思えたので最初の段階で腕を伸ばして筋肉量も若干増やしました。ゴリラとか混ぜてみた」
「なんでもかんでも混ぜちゃうんだからこの人は~。後で遺伝子情報開示して。精神的不具合は?」
「脳のコードを書き換えたので今のところ出ていません」
「なんでそう躊躇いなく脳味噌弄っちゃうかなぁ~。倫理死んでんの? 後でコードのログ読ませて」
 部門長が「目眩がする」と呟くのを聞きながら、私は研究員に実験開始を指示する。研究員が試験場に入る。研究員を見付けた彼は「こんにちは」と挨拶した。コミュニケーションに問題は無い。研究員が野球グローブを渡して「キャッチボールをしましょう」と誘い、少し距離を開けて軟球を投げる。彼はグローブできちんとボールを受け止め、投げ返す。問題は無い。かなり高めに投げても、彼がトラの足で跳躍すれば数メートル上空のボールを簡単に取ることが出来た。
 感嘆の溜息が部門長の口から漏れたのを聞いて私は勝利を確信した。
「すごいね」
「元々の素体能力と経験値があるので訓練はさほど必要無いでしょう。強いて言えば歩き方と力加減ですかね」
 彼が思い切り投げた亜音速の剛速球は受け止めようとした研究員の掌を砕いたらしく、研究員は泡を吹いて倒れた。
「そうだね。拳で歩くならグローブを誂えてあげなよ。名前は?」
 私は部門長にタブレットを渡す。彼に関する書類を纏めてあるので、フリックすれば大抵の書類を閲覧出来る。部門長は暫く画面を眺めて言った。
「うわ正式名称なっが。えっなんでこんな二千字とかあるの?」
「使った特許と遺伝子情報入れないと拙いじゃないですか」
「えっこんなに特許使ってんの!? めちゃくちゃコスト掛かってんじゃん!? それでアレ一個体だけ!?」
「部門長。ご安心ください。私の研究室予算の他にプール分があるので多少予算度外視でもトントンぐらいです」
「全然良くないよ・・・・・・量産化出来ないじゃん・・・・・・で、君はなんて呼んでるの?」
 その質問に私は漸く彼に名前を与えていないことを思い出した。私は少し思案して、名前を付けた。
「『シータ』」
「シータ? ああ、『θ』ね。実験回数としては八回目だから?」
「ええ。それに『死』の意味もあるので、丁度良いかと」
「趣味ワルい。生きてた時の名前で呼んであげれば良いのに」
「彼とシータは最早別の個体ですから」
「恋人、生き返らせたかったんじゃないの?」
「いいえ」
 掌が砕けた研究員は回収されて新しくまた研究員が入ってくる。今度はタイム計測と力比べだ。シータ、と名付けた彼が試験場を一瞬で駆け抜け、ジープと綱引きをする。子供のように笑う顔は恋人と同じだった。部門長はシータに興味津々らしく、自ら研究員に指示を出して反応を見ていた。
 私はシータを組み上げた時のことを考えていた。私は、私の恋人がもう生き返らないことを知っている。「死者の蘇生」では欠損が大き過ぎると上手く蘇生出来ず、蘇生したとしても人格や肉体に異常が生じる。体積が増える分も同様であることはキメラ作成の過程で発見している。過程が過程なので発表はしていない。脳の書き換えを行えば上半身だけであろうと体積が増えていようと生き返るが、それはオリジナルではない。彼をそんな不完全な姿で生き返らせたところでどうすると言うのだろう。私の研究室で芋虫のように這う彼を飼育したいわけではないのだ。私は、殺した相手が怪物となって襲いかかってきた時の、人々の恐怖に歪む顔が見たい。肉塊となった連中が見たい。悲鳴を聞きたい。地獄に叩き落としてやりたい。そんなことを考えていた。
 燥ぐ部門長はふと、沈黙していた私を見る。
「恋やら愛やらで賢い君の頭がおかしくなるところなんか、見たくなかったな」
「それを原動力に私はシータを造りましたが」
「馬鹿言っちゃいけないよ。私怨と衝動の結晶だよあんなの。真っ当な人間はああいうの思い付いたら駄目だよ」
 やれやれ、と部門長は首を振り、「君は元々頭おかしかったけどさ」と言う。
「運用についてはどういうプランにするの?」
「単独による野戦ですかね。密林などであればより効果を発揮出来るでしょう。夜であれば更に。殺傷能力よりは士気の低下と恐怖の喧伝に重きを置くコンセプトです。広範囲に枯れ葉剤を撒くよりずっと安上がりで、自然に優しく敵戦力の駆逐を狙うことが出来ます」
「まあアレじゃ要人警護とかは出来ないよね」
 「売り込みが難しいな」と言う部門長に私は更にプレゼンをする。
「遺族からの死体提供でゲリラを駆逐する『わくわく復讐プラン』として打ち出すのは如何でしょう? 最愛の家族を失った遺族にバカウケ」
「そんなことしたらウチの株大暴落するでしょうがこの馬鹿」
 長い長い息を吐いて。部門長はこめかみを掻いた。
「実地での試験、やって見ようか。悪環境下での運搬役とかガイド兼タンク役として彼を運用する感じで」
 その提案に私は頷く。確かにシータの身体能力であればどんな悪路だろうと長距離行軍であろうと耐えることが出来るはずだ。
「ありがとうございます部門長」
 私は礼を言う。シータは試験場を駆け回っていて、自分の今後など気にしていない。彼の有用性を証明するのは難しい。用途があまりにも乏し過ぎるからだ。部門長もそれを理解している。
「もしかしたら、次は無いかも知れないね。何処で実地やりたい? 選んで良いよ」
 私はすぐに私の恋人が死んだ国を口にした。部門長は抑揚に頷いた。
「なら、相手は現地の武装ゲリラだね」
「はい。彼の有用性を証明するには十分要項を満たしているでしょう。彼を優位たらしめるだろう密林があり、貧相な装備のゲリラが哨戒している。よく見るCNNのニュースです。夜のハイキングには丁度良い」
「格下相手に怪獣を嗾けるなんて邪悪だね君は。剣闘士にされた奴隷でも、もっとマシなのを相手をしていただろうに・・・・・・。相手がこんな狂人の『やったらめったら縫い合わせたオモチャ』だなんて。あ、相手が獣だから闘獣士か」
「罪人の処刑にも獣に食い殺させる方法がありましたよ。見世物としてはご期待に添えるでしょう」
「君だけが満足するホラーショーだ」
 部門長は概ね満足したらしく、タブレットを私に返す。実地での運用試験の詳細は後日詰めることになった。モニター室を出る時に、部門長は私に訊ねた。
「伏屋君、歴史上初めて行われた『剣闘』は、何故行われたのか知ってる?」
 私は「いいえ」と返した。あまり興味の無い類いの話だが、部門長はその手の歴史を研究することも仕事の範疇に収まっていた。即ち、人間の悪意と暴力性の歴史。それは私達が所属する企業にとってはとても重要な命題だった。
 部門長は私に弔辞でも述べるかのように教えた。
「『哀悼』だよ。愛する故人へ捧げるために人間は闘技会を開いた。死を悼む行為が始まりだよ」
 「結果を楽しみにしている」と部門長はモニター室から出て行った。私は試験場のシータを見る。シータはマジックミラーを興味深そうに眺めている。自分の姿しか映っていないはずだが、私と目が合って、彼は微笑んだ。彼は私の恋人ではない。再構築した彼の残滓はあっても、それを掻き集めたところで結局は複製でしかない。不毛で不格好な事実だ。
 私はかつての恋人と目の前にいる完成品を、完全に別個体として認識している。
 三ヶ月後。実地での試験が認められた。私が観測役兼被験者として同行することになった。「ずるいずるい」「俺達もシータと実験したい」「肉球! 肉球の癒やしが消える!」と喚く研究員共を無視し、「君が死んだらまあまあ会社の損害になるから気を付けてね」と言った部門長に礼を言って、私はシータと初めての旅行に赴いた。

 シータの呼ぶ声で私は回想を終える。シータは倒木に座ったままの私を心配している。
「シント、疲れちゃった? もう歩きたくない?」
「・・・・・・そうだな。流石に夜の密林は歩くと疲れるよ。でも大丈夫」
「普通の道なら十五キロくらいなんてこと無いけど、ジャングルだと全然違うからね」
 彼が体を私に擦り寄せてくる。力が強いので倒れそうになる。恋人はこんなにも甘えてくる人間だっただろうか。どうだったかな、と思いながら私は彼の頭を撫でる。
「シータ、手を見せてみろ」
 彼は私の言葉に従順に従う。目の前に持ち上げられた人間の手。厚手のグローブを嵌めている。私がグローブを脱がすと、彼の中手骨頭、拳を握った時に突き出る部分に血豆が出来ていた。血豆は既に潰れて血が滲んでいて、その下には鱗が生え始めていた。センザンコウとワニが混じった鱗だった。いずれ角張った彼の爪も鋭く生え換わる。
 彼には再生能力がある。プラナリアを混ぜたので腕が千切れても傷口を合わせておけば数時間で繋がる。欠損すれば代替再生が行われる。私の恋人に「人間」を混ぜることなど論外なので混ぜなかった。代わりに多くの生き物を混ぜた。だからシータは傷を負うと、再生し、その結果少しずつ人間の形を失っていく。最終的にどうなるのかは分からない。脳さえ損傷しなければ彼の人格に支障は無いし、駄目なら新しい脳をまた積んでやれば良い。
「グローブ、もっと厚手にしてやれば良かったな」
「別に俺は平気だけど」
「あんまり傷が増えるのは良く無い。頭に大怪我をしたら角でも生えてくるかもな」
「えっカッコイイ。めちゃくちゃ強そう」
「邪魔だし重いぞ多分」
 私はグローブを嵌めてやると立ち上がった。ポンチョの下に隠していたメッセンジャーバッグの中から地図とコンパス、懐中時計を取り出す。
「シータ、現在位置は何処だ?」
「この辺り。合流地点まであと二、三キロってところかな。ちなみに迎えが来るまでまだ二時間弱はある。ペース的に余裕だと思う」
「良し。無知な私を安心させる回答だな。出発して七時間も経過しているが、悪路と素人の歩きは壊滅的に相性が悪い」
 私は地図などの道具を仕舞い、再び暗視ゴーグルを手にする。嚙み付き防止のマスクを自分で付けたシータに火の始末を頼んで、死体は放置して出発した。歩く私の後ろをシータはついてくる。足音などさせずに、呼吸音も消してついてくる。私の恋人は私の後ろを歩くのが好きだった。「歩いてる後ろ姿がカッコ良くて好き」などと宣いて、私の後ろを歩いていた。今はシータの試験中なのでそれではいけない。
「シータ、先導しろ」
 命じれば彼は従い、前へ出る。素体との精神的結びつきはこうした場面で有効に作用する。太く長い尾を揺らして私の前を歩く。シータは人間の両手と、トラの四足で歩く。音など立てずに。地を這うように歩く。「虎の肉球は消音器」という短編が脳裏に浮かぶ。虫や動物は彼が異常なのだと気付いているのか、即座に逃げていく。だからあまり他の生き物の気配がしない。
 私達は特に何も話さない。私は必要以上に口を開くことが無いし、恋人も物静かな人間だった。濃い闇と静寂が満ちた森の中を私達は歩いて行く。
 一時間ほど歩き続け、もうすぐ合流地点目前というところで、シータが止まる。じっと、森の奥を見ている。
「ゲリラの野営か?」
 私は殆ど聞こえないような声量で訊ねる。シータの頭が僅かに上下したのが見えた。シータは私の指示を待っている。
「迂回は可能か?」
 否定が返ってくる。私には野営の灯りが見えない。彼には見えていて、大凡の位置関係も把握しているのだろう。
「襲撃して、混乱させ、その隙に通り抜けることは可能か?」
 少しの間を置いて、シータは私のすぐ傍にやって来た。体を纏わり付かせてくる。
「どうした?」
「反撃に遭うとシントが怪我するかも」
「銃を持っているのは何人だ? そんなに多いのか?」
「四人か、五人くらい。あとね、ゲリラの野営じゃないみたいだ。家族連れ。二十人いるかいないかくらい。村を捨てた人達かな」
 シータの懸念は戦闘員と非戦闘員の境界が曖昧な点だろう。銃を持った連中を始末すれば良い、という構成ではない。反撃がどの程度あるか、予測が出来ない。だから私の心配をしている。戦闘能力が皆無の私では包丁で刺されただけでも死ぬ。迂回するには人数が多過ぎるし、安全な迂回路を探すには時間が足りないかも知れない。
 私が働く企業では入社時にある誓約書にサインする必要がある。「自身の倫理観を保って業に当たることを誓う」という旨のものだ。私はすぐにサインした。倫理観という高尚なものなど私は持ち合わせていない。だから企業倫理に従うことにした。
「お前が思いつく中で、一番酷いやり方で、邪魔なあの連中を追い払え。シータ」
 シータは「分かった」と答えた。彼は身を翻してまた先導する。十数分も歩けば私にもキャンプの灯りが見えた。暗視ゴーグルを外して、暗闇の中を見詰める。もっと近付けば彼等の姿が見えた。
 火を囲んで団欒する家族。テントなどは無く、ボロボロの毛布で体を包んでいる。小さな子供もいる。銃を持った男がいる。彼等は身を守るためだけに銃を持っているのかも知れない。ゲリラに加わった男達が家族を迎えに来て、これから本隊と合流する気なのかも知れない。安住の地を求めているのかも知れない。私には関係無い。私は幸せそうなあの家族が恋人を殺したゲリラと同じ民族だと思うだけで同じだけ憎い。
「迅速にやれ。長引いても困る」
「良いよ、シント」
 シータは私の命令に従う。シータは私に絶対的な信頼を抱いている。理由の分からない愛情を抱いている。脳のコードにはそれが書かれている。私が書いたのではなく、元から書かれていた。恋人は私を愛していたし、シータは私を愛している。
 シータが音も無く跳躍し、暖かな光に満ちたキャンプへと躍り出た。突如現れた異形に、彼等は硬直した。低い獣の唸り声が響く。女が悲鳴を上げる。男達が銃を向ける。シータは銃を向ける男の一人に飛び掛かって頭を踏み潰し、踵を返してまた一人に飛び掛かる。銃弾を避けて、手近にいた女の首を掴んで盾にする。躊躇った男に女を投げ付ける。地面に倒れた二人を踏み潰す。逃げない女の首を捻じ切る。呆然としている子供を空へ高く放り投げる。男をトラの爪で八つ裂きにする。銃を取ろうとした子供を殺す。女を殺す。私はそれを無感動に眺めている。
 阿鼻叫喚、という単語を思い浮かべているうちに凄惨な場面は終わる。五分程度の戦闘だった。生き残りは散り散りになって森の闇へと逃げた。これで問題無く先に進める。
「シント、済んだよ」
「ご苦労。よく出来たな」
 私はシータの頭を撫でて、ゴール地点へと向かう。平坦な道が続いていた。先導するシータは緊張状態を保ったまま低い姿勢を進む。迎えが来る地点は開けた崖だ。もうすぐ到着する。歩き続けて、森が開けた。
 夜明けが近い。空は真っ黒で、星が輝いている。稜線が白んでくるのはもう少ししてからだ。私は衛星電話で部門長に報告と迎えのヘリの時間を早めるように要請する。私の要請はすぐに了承された。
『ところで伏屋君。戦闘とかした?』
「・・・・・・ええ。三回ほど。それがなにか?」
『なんかさぁ、いつものヒーローの皆さんが君のいる辺りに出動したっぽくてさ。特に爆発とかしてないはずなのに、あの探知精度なんなんだろうね。あ、連中が到着するより先に離脱出来ると思うから大丈夫だよ』
 企業を攻撃する厄介な自警団、もといヒーローが出て来るとは思わなかった。随分と暇らしい。未成年らしい構成員が多いのに、親は何をしているのだろうか。私と同じように呆れた溜息を漏らしながら、『じゃ、気を付けて帰ってきてね』と言って部門長は通話を切った。
 私はヘリが来るまでの間、シータの毛皮を撫でながら、私は静寂に包まれた密林を眺めていた。フロストの「雪の夕べに森のそばに立つ」を諳んじながら、自然に反した異形と共に大自然に包まれている。シータが喉を鳴らしている。それを聞いていると、遙か彼方から切り捨てたはずの人間性が去来してくる。
 私の頭の中には憎悪と絶望の国がある。それは幼い時からあるもので、生来持ち合わせた私の性質であり、決して消えることのないものであり、私の頭の中の大部分を占領している。恋人と出会ってからは段々その領土が減っていった。だが今では全てがその領土と化している。
「シータ」
「ん? なに、どうしたのシント」
「もし、お前が失敗して、私がどうしようも出来なかったら、一緒に死のう」
 私にはもう彼の有用性を証明することぐらいしか生きる理由が無かった。それが出来なければ死のうと思った。シントの有用性を示すことが出来なかった責任を取る必要があるし、恋人を損壊した償いをしなくてはいけない。
「えー、やだよ。二人で何処か遠くへ行こうよ。シントのこと抱えて走るし。なんならシントは寝てても平気だよ」
 マスクをしていてもシータの表情は分かる。笑う彼は「俺と一緒に行こうね」と両手で私の輪郭を確かめる。優しく、慈愛に満ち溢れた温かい手だった。私の好きだった恋人の掌だった。
 私は彼がこのまま私の頭を握り潰すよう祈った。





彼女の恋人が死んでから三年後。


おしまいの国の:アイデンティティよ消えないで!



私、一体どうしちゃったんだろう? 何をしてしまったんだろう?

深夜の路地で一人きり。街灯から落ちる丸い光の中に座り込んでいた。いつの間にか。どうして? 口の周りや服が濡れている。なんだろう?
 顔を拭おうとして持ち上げた掌に、べったりと血が付いていた。それと、布の切れ端。男物のシャツの襟。ショウタ君のシャツ。どうしてそんなものがあるのか分からない。
 急に噎せた。胃から何かが迫り上がってきた。我慢できずに吐こうとして、咳き込んで、何かが口から飛び出した。アスファルトの上に落ちた。髪の毛。眼鏡。ショウタ君がしていたスクエア型の黒縁眼鏡。なんで? どうして? 私の口から出て来るものじゃないでしょ、普通。
 私が蹲って泣いていると、痩せた白衣姿の女の人が近づいてきた。
「検体番号U-23番、気分はどうだ?」
 私は目の前の人を見上げて呆けてしまった。
「えっ? なに? 何のこと? あなた誰?」
「簡単に言うと、君を改造した技術者だ。少し前に盲腸の手術をしただろう? その時にこう、ちょちょいのちょいと弄った」
 この人、なに言ってるんだろう。
「これから君は我々と共に所謂『正義の味方』と戦ってもらう」
 この人、なに言ってるんだろう。
 私は正直に尋ねた。
「なに言ってるのか、全然わかんない、なに、えっ?」
「大丈夫、今から実戦で学んでいこう。OJTだ」
 私が言い返す前に、何かが空から猛烈なスピードで着地した。轟音と衝撃が私と技術者を襲った。「相変わらず無駄に行動が早いな」と彼女の舌打ちが聞こえる。
 土埃が晴れた。高校生くらいに見える、キラキラしたミニスカートのドレスを着た金髪の女の子が仁王立ちしていた。小さい頃見ていた「魔法少女」に似ていた。
「悪の科学者フシヤと部下のモンスター! 貴方達の思い通りにはさせないわ!」
 なんで、私が「部下のモンスター」になってるんだろう。意味が分からなくて泣きたくなった。
 魔法少女が私に向かって可愛らしい装飾がゴテゴテ付いたステッキを向ける。アニメとかで見たことがある。あれ、先っぽからビームとか出る構えだよね。正眼の構え的な。
「マジカルドリームウェーブ!」
 女の子は聞いているこっちが恥ずかしくなるような技名を叫んだ。そして光が瞬き、私と「フシヤ」と呼ばれた技術者に向かってビームが飛んできた。
「わあああああああああッ!」
 フシヤが悲鳴を上げる私を庇うようにして身を伏せて避ける。顔がアスファルトに擦れて痛かった。
「おい、ちょっとはやる気になってくれないか?」
 フシヤは溜息交じりにそんなことを言う。
「むっ無理ッ! 無理無理無理無理ッ! 意味分かんないもん!」
「煩いパニックを起こすな」
 魔法少女は「やあぁッ!」とステッキを振りかぶって迫ってくる。肉弾戦するんだ。可愛いままでいて欲しい。フシヤが私の背を叩く。
「肉塊になるまで殴られるぞ。迎撃しろ」
 無茶を言われて涙目になる私に、彼女は溜息を吐いた。それと同時に、視界の端に魔法少女のステッキが入り込んだ。私は咄嗟に腕で防ごうとした。頑張ってダイエットして高校の時よりも細くなった私の腕。風を切って迫るステッキを受け止めることなんか絶対出来ない。腕を上げた時に気付いた。
 ドカンという音と、強い衝撃があって、魔法少女のほうが弾き飛ばされた。フシヤが私を盾にして言う。
「よくやった。ひとまず寿命が伸びたぞ」
 魔法少女は受身をとって立ち上がり、更に距離を取る。困惑する私を睨みながらまたあのビームを撃つために構えた。
「まっまた撃たれる!」
 青くなる私に、フシヤが「安心しろ」と声を掛ける。
「お前の先輩がやって来た」
「えっ」
 魔法少女が叫ぶ。
「マジカルドリーm、」
 そこまで言い掛けた彼女の背を、巨大な影が咆哮も無く襲った。怪獣だった。虎の体に人間の上半身が生えている。魔法少女が悲鳴を上げる。怪獣はバタバタと虫みたいに暴れる少女を煩わしそうな顔をしながら虎の脚で踏み付け、硬そうなグローブを嵌めた人間の腕で殴り続けた。
 可愛い顔がぐちゃぐちゃになるまで殴られた魔法少女は気絶して、変身が解けて中学生の女の子に戻った。あの子の着ているセーラー服を知っている。歴史のある有名な私立中学のセーラー服。私も着たかったけど頭が悪くて家が貧乏な私には無理だった。
「おい、気分が良いところ悪いんだが」
 フシヤが声を掛けてくる。示されて気付けば怪獣がグルグル唸り、私を眺めていた。
「ひぇッ・・・・・・」
 怯える私の前に、怪獣が女の子を引き摺りながら近付いてくる。爛々と光る目が怖い。
「ご苦労、シータ。よく出来たな。偉いぞ」
 フシヤが怪獣を「シータ」と呼んだ。すると怪獣が柔らかく笑って「シント」と呼び返す。
「シント、怪我してない? 遅くなってごめんね、取り巻きが多くって」
 少女を雑に道路へ放り投げて怪獣はフシヤの前に座る。フシヤは「おおよしよし」と怪獣の頭を撫でる。短い黒い髪をぐしゃぐしゃにしつつ彼女は指示をする。
「シータ、あのクソ雑魚メスガキ連れて帰るから運んでくれ。そろそろ対策班にも新しい餌をやらなくては」
「良いよ」
「それとU-23号を紹介しておこう。お前の後輩だ。仲良くするように。ちなみに妙齢の女性なので可能な程度に優しくしてやりなさい」
「えー?」
 私の先輩らしい怪獣、シータが首を傾げるので私はムッとする。私よりずっとずっと化物相手にそんな態度を取られるなんて。
 「では帰るか」とシータの頭を撫でるのを止めたフシヤは満足げに言って、私に手を差し伸べた。私は一人で立ち上がった。
「じゃあ、私こっちなんで・・・・・・」
「いや、お前は一緒に来るんだ。そもそも帰れない」
 立ち去ろうとした私をフシヤが止めた。振り返る私に彼女は続ける。
「そんな体で、帰りの電車には乗れないだろうよ」
「・・・・・・・・・・・・なんで?」
 私、一体どうしちゃったんだろう? なにが起きたんだろう? 私に、一体、何が?


 フシヤ達を迎えに来たのは企業のロゴが入った装甲車だった。私も知っている有名な軍需企業のロゴだ。みんな知ってる。シータが乗ったせいか、装甲車はギシギシと音を立てていた。
 装甲車で運ばれていった先は大きなビル群のある一画だった。この区画全てが会社の敷地なのだと知って驚いた。魔法少女の女の子は道中で何度か目が醒めていたけどシータがその度に殴って気絶させていた。
 女の子は到着した途端に担架に括り付けられ、点滴を刺されて、車から下ろされ、目のところをそれぞれ丸く切り取られただけの覆面を被った白衣の男達に運ばれていった。
「さて、これで世界から喋る産業廃棄物が一つ消えることとなった」
 うんうん、とフシヤは頷いて車を出させる。
「あの子、どうなっちゃうんですか?」
「殺されかけたのに心配するとは、素敵な主観だな」
 フシヤが鼻で私を笑い、ただ一言「最後は死ねる」と答えた。その言い方があまりにも嫌なものだったので、それ以上聞けなかった。
 私達が車を下りたのは地下のとても広い空間に到着してからだった。フシヤが無線で指示を出している。どうしたら良いのか分からず、突っ立ったままの私をシータがしげしげと眺めているので居心地が悪かった。
「そうです、試験場にいます。ええ、ええ、検体は対策班に与えました。え? 親? 知りませんよそんなの」
 シータはそう言って無線を切った。それから数分でゴルフカートに乗った年配の男が現れた。ゴルフカートを運転しているのは魔法少女を運んでいった覆面職員と瓜二つの職員だった。
「コラー! 伏屋くーん!」
 ゴルフカート箱乗りするおじさん初めて見た。身を乗り出して怒るおじさんは、ゴルフカートを下りてフシヤに怒りながらもシータの毛皮を撫でた。シータはごろりと寝て腹を見せる。おじさんは執拗に毛皮を撫で続ける。
「あのねぇ伏屋くん。何回やって良いことと悪いことがあるって言ったら分かるの君は」
「シータを撫でる時は手をアルコール消毒してくださいと何度言ったら分かるんですか部門長」
 数十秒睨み合った二人だが、フシヤが先に口を開いた。
「『適正者検出選定後の改造計画』については承認が下りてるはずですが。そこにいるU-23号がグロテスクなのが問題ですか?」
「えっ私?」
「その計画は別に構わないよ」
「えっ」
 フシヤと部門長の会話に私は混乱する。二人の会話を噛み砕いて考えれば、二人の間には「私を改造して良い」という話になっていることになる。なんで?
 二人の会話は続く。
「あの検体ちょっと若くない? いや、あの連中はほぼ未成年ばっかだけど」
「生殖能力に問題は無いでしょう」
「それより親御さんのメンタルの心配してるんだよ僕は」
 やんややんやと言い合いをした後にフシヤ達は静かになった。部門長が急に私のほうを見た。
「それで、こっちのは?」
「嗚呼、紹介が遅れました。U-23号です」
「ジャミラじゃん。見た目カエルっぽいけど」
「部門長、元の素体は若い女性です」
「早く言ってよ。分かんなかった。ごめんね? ジャミラちゃん」
 今、この人達は私のことを話しているはずなのに、私は何も分からなかった。私は自分の体を見る。普通に二本足で立っている。ピンクのマシュマロパンプス、肌が透ける程度に薄いストッキング、淡いグレーのフレアスカート。普通に立っている、はず。
 両手を見る。ハンドクリームを塗りたくって手入れしていた白い手、デートの為だけに高いお金を出したネイル、ボーナスの時に買ったオリビア・バートンの腕時計、ZARAで買ったセット売りのブレスレット。指輪はしていない。ショウタ君に貰うまでしないって自分で決めたから。
 だからなんにもおかしいことなんかない。おかしくない。おかしくなんかない。おかしいことなんかない。おかしいことなんか、ない、はず。
 部門長が言う。「もしかして自己錯視まだ解除してないの?」と。フシヤが「そういえば」と返して、ガチャガチャと無線を弄る。甲高い音がして、頭の中でパンッと風船みたいなモノが弾けた気がした。
 覆面職員達が大きな姿見を運んできた。伊勢丹のショーウィンドウくらい大きな姿見。私の姿がちゃんと写るように立てられる。
 ぴかぴかに磨き上げられた鏡面に、肌色の巨大なヒキガエルが写っていた。手足が丸太のように太くて、鱗が生えていて、大人を丸呑み出来そうなほど大きな口から、だらんと舌が垂れていた。目元ばかりがお母さんに似ていた。
 私が「ひぃ」と言えば鏡の中のヒキガエルは「ゲコッ」と鳴いた。ゲコッ、ゲコッ、とヒキガエルは二回鳴く。私が「えっうそ」と言ったのと同時に。
「なんで、なんでぇ」
「ご覧の通りだが」
 フシヤは大したことじゃないとでも言いたげに肩を竦めて、ペラペラと喋り出した。
「お前の体に施した改造が発現するトリガーは『信じていたモノを失った時』に設定してあった。家族や恋人に裏切られた、神への信仰が無くなった、余命宣告をされた、仕事を失った、夢を諦めた、etc.etc.・・・・・・とにかく心が引き裂かれるような体験。それを受けてお前は怪物になるよう設計してあった」
「なんで、そんな風にしたの・・・・・・?」
「設定した閾値は精神的にかなり強い衝撃を受けた場合のものだ。閾値を越えれば変貌する。その際にどんな精神状態になるのかシミュレーションした結果、実験に適正のある個体はほぼ自殺か他殺かの二択だった。社会生活を踏み外すことになるのは明白だ。で、あるならば、救済措置としても怪物になったほうが良い。自殺はしないし、人を殺しても法の裁きを受けることは無い」
 フシヤの言っていることは全部おかしい。だって、それだと、私は「強いショックを受けたら自殺するか人を殺すようなヤツ」ってことになる。百歩譲って、私がそうだったとして、なんで、「怪獣になったほうが良い」ってことになるんだろう。
 私が理解出来ないのを見て彼女は分かり易く、はっきりと言い切った。
「お前は大義名分を手に入れたんだよ。『怪物になったのだから人を殺しても良い』という大義名分だ」
「僕達の仕事は『人間の尊厳をジャンプして踏み潰すこと』。これからも宜しくね、ジャミラちゃん」
 シータは床の上でごろりと寝たまま「良かったねー」と笑った。部門長もシータの毛皮に包まれた腹を撫でながら「良かったね」と同調する。良くない。何も良くない。こんなことになるんだったら死ねば良かった。
「わ、わたし、こんなことになるぐらいだったら・・・・・・」
「言い忘れていたが、お前の同意自体は取ってある。手術前に説明して、お前は了承したんだ。報酬に目が眩んだのだろうな」
「知らない! そんなの知らない!」
「覚えていないだけだ。記憶処理を行うことも事前説明で伝えた。自筆の誓約書を持って来させようか?」
 「きっとお前は信じないだろうが」とフシヤは言った。信じるわけが無かった。だって、だったらどうして私はこんなに混乱してるの。
「か、かえる、かえ、かえります・・・・・・元に戻して・・・・・・わ、わたしのこと、人間に戻して・・・・・・」
 自分の声が酷く震えているのが分かった。怖かった。逆らう私は、この人達に殺されるかもしれない。絶対殺される。膝が震えていた。殺される、殺される、絶対殺される。
 ただ、フシヤは淡々と「そうか」と言った。
「そうか、そうだな。その願いは妥当だろう」
 彼女は平然としていた。びっくりしていた私に「戻り方を説明しよう」とも言った。
「も、戻れるの?」
「当たり前だ、設計は私だぞ。馬鹿にするな。良いか、まず思い出せ。自分の姿を」
「い、今も考えてる」
「違う。それじゃない。初めてじゃ無いんだ、さっさと自分の体を思い出せ。手足は? 指の数は? 黒子は? 母親が一番殴った場所は何処だ?」
 お母さんが、一番殴った場所。私は、自分の頭を思い浮かべる。お母さん。私のお母さん。おかあさん。わたしの顔に、ひだりのかお、すごく平手打ちした。ぱん、ぱん、って叩いた。特に理由は無かった。お母さん、男運無かったもんね。お母さん、馬鹿だもんね。
 次に目を開けた時、シータや部門長が「おお~」と拍手していた。
「私、ちゃんと人間になってる?」
「なってるなってる」
「おっジャミラちゃん凄いじゃ~ん」
 シータと部門長はそう言っていた。シータも頷く。鏡を見るとショウタ君とデートに行く時に選んだ服を着た私が立っていた。本当に人間に戻ったのか不安だった。フシヤを見れば満足そうな顔をしていた。
「私、人間に戻った?」
 そう質問すると肯定が返ってきた。私が帰っても良いか聞くと、渋られながらも許可された。「職員に送らせよう」とも言われた。「帰れない」と言っていたフシヤは嘘を吐いていたのだろうか。
 覆面職員に案内されて部屋を出て行こうとした私に、彼女は声を掛けてきた。
「きっと、お前は此処に戻ってくる。迎えが必要になったら、公衆電話でも見付けて電話を掛けろ。番号は『##731』だ」
 電話することはないだろう、と私は思った。


 家に戻る車の中で、私はスマートフォンを見ていた。ショウタ君のことはニュースにはなっていなかった。
 私、ホントにショウタ君が好きだった。なんであんなことになっちゃったんだろう。本当に。ショウタ君、優しくてカッコ良かった。フシヤに言われた「大きなショック」の意味が分からなかった。ショック? 大きなショックって? あの日、私はショウタ君と喧嘩したのかな。どんな喧嘩をしたんだろう? ショウタ君が浮気してたこと? 私が浮気相手だったってこと? 本命の女が妊娠したから別れて欲しいって言われたこと? 心辺りなんて全然無い。
 私がお母さんと一緒に暮らしている家に着いた。古い木造の二階建て。お母さんの実家だった。私を下ろして、車は走り去っていった。
「おかあさーん、ただいまー」
 私は家の中へ入る。きっとお母さんが小言を言う。馬鹿だ馬鹿だと言ってくる。私は気が重くなる。でも家の中はしん、としていた。変だな、と思いながら私はお母さんを探す。古くて汚い家。私の大嫌いな家。友達なんて呼べない家。
「おかぁさぁん」
 何度呼んでもお母さんは現れない。変だな、変だな。私はずっと不思議に思いながら家の中を歩き回る。
 私、今日お母さんに会ったっけ?
「おかぁさぁん、どこぉ?」
 私は二階にある自分の部屋に行く。勝手にお母さんが入って私の服とか漁ってることがあるから、いるかなって思った。部屋のドアを開けると、その中は真っ赤だった。誰かの左手が落ちていた。手の甲に三つの黒子があった。お母さんの手だった。
「あ~・・・・・・おかぁさん、食べちゃったんだっけ」
 思い出しちゃった。先週、お母さんと喧嘩して、その時に、また叩かれて、食べちゃったんだっけ。
 なんでこんなに頭が冴えてるんだろうって、他人事みたいに私は思った。「帰れない」ってこういうことか、と妙に納得していた。私がぼうっとしていると、轟音がして辺りがばらばらに吹っ飛んだ。瓦礫と一緒に私も吹っ飛ぶ。
 地面に落ちて、それでも私は無事だった。何が起きたのだろう、と空を見る。変な格好の男の子が浮いていた。体のあちこちに鎧のパーツみたいなものが着いていた。
「見付けたぞ化物め! 人を襲う前に倒す!」
 なんだろ、何言ってるんだろあの子。なんで私がそんなこと言われないといけないんだろ。私、嫌いな人をちょっと食べちゃっただけなのに。違う。違う違う違う違う違う。何を考えてるのだろう私は。なんでこんなに変な考えに。
 男の子が私に向かって猛スピードで飛んでくる。私、また人間じゃなくなってるんだって分かった。私はもう、人間じゃないんだって思った。近付いてくる男の子の顔がよく見える。頭が良さそうで、お金に困ったことが無さそうで、お父さんとかお母さんに優しく育てられたって顔をしてる。
 この子も嫌いだなって、私は思った。ついさっきまで、私に残されたのはただ「私」という意識だけだった。今はきっともう何も残ってない。





 彼女の恋人が死んでから約二十五年後。


おしまいの国へ:死荷役



 馬鹿みたいに暑い。当然だ。荒野を歩いてるんだから。ちょっとした小学校中学年みたいな重さの荷物を背負って歩いてるんだから。馬鹿みたいに苦しい。仕方が無い。これが俺の仕事なんだから。
「ご主人様、お早く」
 背後から俺を急かす声が聞こえる。俺が渇いた大地にぼたぼたと汗を垂らしているのが見えないらしい。
「うるせぇな! 黙ってついてこいクソ野郎!」
 立ち止まって俺は振り返り怒鳴った。長袖のソフトシェルジャケットを着て、サファリハットを被ったソイツは汗も掻かないままで「はい」と言って黙った。全然暑さを感じていないらしい。小銃を手に、背中に弾薬やら野営道具やらを背負っていても平気らしい。羨ましい限りだ。
「クソ、クソ、クソッ!」
「急に怒り出さないでください。情緒不安定なんですか?」
「うるせぇ!」
 ついさっき顔を合わせたばかりだがムカつく。なんで俺がこんな荷物持ちと一緒にいるのかと言えば、組合から依頼された荷物が高価な品で、搬送ルートは陸路のみで、そのルートは加圧感知式の地雷原を通るため車が使えないからだ。だから「死荷役」を連れて進まなければならなかった。


 半月前。俺は長距離コンボイの運転から漸く解放された。それから二日三日休んで、「仕事すっか」と組合に顔を出した。受付に顔を出した俺は回ってきたその仕事の内容を聞いてうんざりした。書類を渡してきた事務の姉ちゃんは俺の気持ちなど「どうでも良い」と言いたげに俺を手で追い払った。仕方なく貨物集積所に荷物を受け取りに行けば、荷物と作業員と運び屋でごった返す其処に見知らぬ二人組がいた。二人は俺が受け取る予定の荷物の前に立っていた。
 なんだろう、と近付いて声を掛けると一人はブローカーだった。ブローカーという連中は薄気味悪い連中で、世界の何処で逢おうとも全員同じ顔をしている。吊るしのスーツを着た白い髪のアジア人。名前も無い。俺のような業者だけを相手にして商売をしている連中だ。テントやダッチオーブンに寝袋から、家畜や銃火器に至るまで。目に見えて手に取れるモノであれば何でも売っている。
 隣にいるもう一人のほうは分からない。戦闘服に小銃という、見た目からして傭兵のようだったが、随分と若く見えた。
 ブローカーは俺を見て、片手を上げていつ見ても同じ挨拶を返す。
「こんにちはお客様! 命日にするには良い日ですね!」
「どーも、なんか用かよ」
「はいお客様! 今回運搬して頂く荷物ですが、実は我々の商品でして」
 ブローカーが示したのは、俺の膝くらいまでの高さがある正方形の箱だった。金属製で、耐熱性と耐水性があることを示すペイントが施されていた。「天地無用」「ワレモノ」「取扱注意」のステッカーも貼られている。面倒な荷物だとひと目で分かる。
「手前で運べないのか? お前等何処にでもいるじゃないか」
 俺がそう言うと、ブローカーは分かり易く困った顔を作った。
「残念ながら我々は越境許可証を発行されていないので。搬送ルートをご確認頂いた通り、有害特定区域を通りますから。空輸であればどうにかなったのでしょうけど。それに、可能な限り取引先の会社様に我々の望むノウハウがあれば依頼させてもらうのが我が社の慣習ですので」
「そうかよ。で、中身は?」
「新型重力固定装置の部品です。試作品ですので、空路ですと異常が発生する可能性がありますし、海路では船が反政府組織に沈められるので」
 面倒な荷物が厄介な荷物に変わった。書類に記載されている地図を確認すれば、三ヶ月掛けて徒歩で運ぶ予定のルートは崩壊した都市と荒野と地雷原を通るものだった。片田舎の道は最悪だ。野盗やゲリラが出るからだ。届け先は海上に建てられた研究所となっているが、荷物の受け取りはその手前の港だった。現地のブローカーに渡せば良いらしい。
「ルートについては分かったよ。だが俺一人じゃこれは、」
「その点については我々から人手を提供致します。研究所側から機密の取扱いとして運搬者は一人のみと指定が来ているのですが、お得意様である組合の皆様に負担を掛けるのは忍びなく・・・・・・ですので、今回はこちらからサービスを!」
 ブローカーが漸く自分の連れを紹介する。真正面から見ても、やっぱりまだ若い男だった。
「こちらをお使いください。護衛兼荷物持ちとして我々が売り出している『フー・シリーズ』です」
 俺は「フー」と聞いてつい「げぇっ」と声を上げてしまった。組合でも使ってる奴がいるが、この「労働助力有機体」は普通の感性で言えば最低の存在だった。組合の中では専ら「死荷役」と呼んでいた。
 コイツ等は俺達と同じ言葉を話す。俺達と同じように歩いたり走ったりする。眠ることもある。見てくれも俺達と同じように見える。だが人間じゃない。人間由来で作られる家畜だ。
 俺はブローカーに言ってやった。
「『フー』ってあれだろ? 人間を食べるんだろ? そんなのと二人で三ヶ月も一緒にいられるかよ」
 ブローカーは馬鹿にするように鼻で笑った。
「この型番は体内のリソースで回復する設計なので、全身が人間以外に置き換わらないように定期的なヒトゲノムの摂取が必要なだけですよ。全く、嫌な都市伝説ですよね。迷惑してるんですよ我々も」
「でも戦地で人間食ってる動画が・・・・・・」
「あれは死体ですよ。生きてないじゃないですか。緊急時であれば許容範囲内の行為です」
 「やれやれ」とジェスチャー混じりに頭を振るブローカーを見て、俺は「コイツマジで話が通じねぇな」と思った。彼の後ろにいる死荷役も「やっぱりな」という顔をしている。「フー」は人間に服従するように出来ている。所有者が許さなければ口を利くことも出来ないし、機密情報も「忘れろ」と言えば忘れることが出来る。確かに、こういう仕事にはうってつけなのだろう。
「きちんと薬剤は日数分持たせてさせてあります。想定以上の消耗が無ければ貴方のことを囓ったりしませんよ」
「でもよ、」
「別に、どうしても同行させたくないというのであれば結構です。その場合貴方に与えられた仕事は間違いなく失敗するでしょう。野蛮な連中に襲われるのも良し、渇きと飢餓で死ぬのも良し。お好きになさってください」
 そう言われて、ぐっ、と言葉に詰まってしまった。依頼者側が「運び屋は一人だけにしろ」と言うなら組合は逆らえない。俺は従うしか無かった。絞り出すように「分かった」と言えば、ブローカーはいつもと同じ挨拶で締める。
「ではどうぞ、良い余生を!」
 最低な気分だった。


 俺は死荷役への簡易的な所有者登録を済ませて出発した。確かに便利だった。俺だったら担ぐのもやっとの量を背負っても平気だった。お陰で野営道具はいつもより沢山種類があるし、大型のソーラーバッテリーも積めたし、保存食料や水も余裕がある。銃も扱える。医療キットも心配が無い。不満があるとすればコイツ等は人権が無いため、人間がいなければ仕事が出来ないという点ぐらいだった。あとは名前が無い点。
 歩き出して、ずっと俺の後ろを付いてくる死荷役に一週間はビクビクしていた。だがあまりにも無口だったので俺は耐え切れずあれこれ話し掛けた。一人で、かつ危険が無ければ音楽を掛けたり映画を観たりするのだが、流石に死荷役とはいえ見張りをさせておいて楽しむのは難しい。俺にも「気まずさ」というものを感知する頭がある。アイツに「喋って宜しい」という許可を与えた。それで、アイツとの会話は死ぬほどつまらなかった。
 だから歩いていない時は俺のタブレットで映画を観せた。「ニュースは見ないのですか?」と聞かれて俺は「アレは自分で物を考えられない馬鹿が見るもんだ」と教えてやった。
 何本も映画を観せてやったお陰か、当初していたような「はい」「いいえ」「そうですね」「すごいですね」「興味があります」みたいな応答はしなくなり、あれこれ話すことが出来るようになった。


 今日も暑い日差しに照り付けられて、ひいひい言いながら俺は話し掛けた。
「こうさぁ、『MADMAX 怒りのデスロード』みたいにさぁ、車とかでブッ飛ばすべきなんだよこんな道はよォ」
「それだと、我々は暴徒と化して略奪と殺戮をしなくてはいけないのでは?」
「なんで主人公サイドじゃねぇんだよ」
 振り返れば死荷役は「不可解」という顔をしていた。成る程、コイツは俺のことを馬鹿にしているらしい。この野郎。
「ご主人様、お早く。あまり日数が無いのですから」
 死荷役が俺を急かす。俺はまた歩き出す。
「お前、好きな映画出来た?」
 日に二度ある休憩と就寝前に映画を観ているので、旅が始まってまだ一週間ちょっとだが、まあまあな本数を観ている。なんなら俺が寝た後も映画を観ている。「好きに観ろ」と言ったからか、ハマったからかは分からないが。死荷役がどんな映画を選ぶのかちょっと知りたかった。
「そうですね・・・・・・『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン Part2』で」
「なんで寄りにも寄ってラジー賞のティーンズラブムービー選ぶんだよ。名作スゲー観たじゃねぇか、『ランボー』シリーズとか」
「あれは、お腹が空くので集中出来なくて。特に『最後の戦場』」
「えぇ・・・・・・ゴアなやつじゃん・・・・・・」
 次点を聞いたら「PとJK」と帰ってきたので「なんでだよ」と言ってしまった。本当になんでなんだよ。

 搬送ルートの中間地点である残骸の寄せ集めに似た都市に着いたのは、出発してから一ヶ月半を過ぎた時だった。小さな町と違い、人も物も多くて飯も旨かった。いつまでも滞在していたいが行程が少し押していた。補給を済ませてしまえば二日もいられなかった。
 死荷役が「ご主人様、お早く」と急かすので俺は別れを惜しみつつ出発した。今のところ、死荷役はまだ銃を使っていない。この都市を出た先では、多分使うことになる。野盗やゲリラ共は潤った旅人を襲うことが多い。
 別に、運び屋も銃を持たないわけではない。ただ持っていると検査やら入管やらで面倒事のほうが多いし、そもそも金ばかり食う。サブスクで弾薬が利用出来れば持つ気になるかも知れない。それに短期間であれば安い金額で俺より銃の扱いが上手い人間を雇える。そう思って、俺はメリットが少ないという理由で持っていなかった。
 相変わらずの荒野だったが、暑さは日に日に和らいでいった。これなら少しペースを上げてもキツい思いはしない。足を止めることなく進み、その道中で中身の無い話をする。俺は案外、自分でも思っているより、死荷役のことを気に入りつつあった。
「やっぱ、途中まで車で来ればもっと早く済んだんじゃねぇのか」
「車をあの都市に置いていけと? 一日で無くなりますよ」
 俺が「そりゃそうだけど」とぼやけば「ご主人様、お早く」と彼の声が飛んでくる。俺は鷹揚に「へいへい」と返す。
「お前等って女の子の見た目の奴もいるんだろ? 可愛い子が俺の死荷役だったら良かったのになぁ。絶対今の倍の速さで進んでたわ」
「いるにはいますが、基本的には性的嗜好の対象外になるモノを割り当てるのが会社の義務ですから」
「なんでだよ」
「あー、その、そう、事故、事故が起きやすいのです。ですから予め主人の性的対象から外れるモノが選ばれます」
「事故って、あっ・・・・・・あー・・・・・・」
「それで所有者が死ぬという事例があまりにも多かったので。背後から撃たれて死亡するというか」
「いやでもよ、『死荷役』だぞ? ジャンルで言えば家畜だぞ? 興奮する奴なんかいるのかよ。気持ち悪りぃ変態だな」
「人間は穴があれば良いのでは? 以前、貨物の中にセルフケア用品がありましたね。確か筒状の、」
「おいやめろやめろよく考えたら人間の尊厳を危うくする話題だこれは! やめよう!」
 「頑張れ俺!」と奮起したところで、死荷役が俺を呼んだ。聞いたこともない声色で「ご主人様」と。切羽詰まった声だった。振り返ると、死荷役は俺に背を向けて銃を構えていた。俺は緊急事態であることを理解して周囲を見回す。丁度荷物と自身が隠れられそうな岩陰を見付けた。
「おい! あー、えっと、おい! おい荷物寄越せ! 邪魔だろ!」
 名前が無いから呼び辛い。彼に見付けた岩場を教えて、背負っていた荷物を其処に下ろさせる。俺も俺より重要な荷物を下ろし、テントで使っている迷彩布を掛けた。俺もその中に入る。迷彩布はバッテリーを使えば周囲の色に同化するようになっている。光学迷彩のスイッチを入れた次の瞬間、バイクの走行音が聞こえてきた。二台分聞こえた。それに遅れて車が走ってくる音。僅かに持ち上げた迷彩布の隙間から俺は伺う。
 死荷役は片膝をついて銃を構えていた。走行音が徐々に大きくなっていく。バイクと車が近付いて来ている。死荷役は動かない。アクセルを噴かす音が聞こえた。ならばもう、死荷役は相手に見付かっている。迫ってくる相手を死荷役は視認している。俺からは見えない。
 多勢に無勢だ。どうするのだろう。勝ち目はあるのか。そんなことが俺の頭の中で巡っていた。
 死荷役は落ち着いていた。そして鋭く息を止めて発砲した。タタン、タタン、タタン、と短く区切った銃声が聞こえた。銃声が余韻を残して消えて、それから一瞬して古く薄汚れたランドクルーザーが彼の脇を転がっていった。車はルーフを地面に叩き付けて止まる。フロントガラスと両方の前輪に穴が空いていた。
 車体にはスプレー塗装か何かでスローガンが書かれていた。「もしわれわれの敵がわれわれを咎めるなら、われわれのやることはすべて正しいのだ」。「正義の味方」を名乗る有名なゲリラのスローガンだ。見付かったら殺されると思った。
 驚いていた俺は銃声を聞いて悲鳴が口から出そうになる。二輌のバイクは車を喪ってもまだ走り続けているらしい。立ち上がった死荷役は少しずつ後ろへ下がりながらまた短く発砲を繰り返す。時折彼のものではない銃声がして地面が弾ける。死荷役は淡々と引き金を引く。重量のある物が倒れる音がして、一台のバイクが横滑りして俺の目の前を通り過ぎていった。乗っていた人間を乗せたまま。
 最後の一台が死荷役に突っ込んでいく。ぱぱぱぱぱ、と擦れ違い様に死荷役は撃たれた。がくん、と彼の体が崩れ落ちる。そのまま倒れるのかと思った。だが持ち堪えて、死体を確認しようとして引き返してきたバイクのほうへグルン、と向き直り、撃った。がしゃん、とバイクの運転手が落ちた。
 乗り手を喪っても走り続けるバイクが死荷役に向かっていき、そのまま彼を撥ねて倒れた。死荷役は地面に転がる。脳味噌みたいな何かをぶちまけて。被っていた彼の帽子が飛んだ。俺は言葉を喪う。
 これからどうしよう。今までと同じように荷物を運んでは行けない。捨てていくしかない。まだ観せていない映画がある。名作は星の数ほどあるのに。
 そんなことを思うほど、俺は気が動転していた。そんな心配は最初から必要無いのに。
 死荷役はむくりと起き上がった。だらりと折れた右腕を揺らしている。体のあちこちから血を流している。三十秒程度で服以外全て綺麗に直る。転がる車を運転席の窓から覗き込む。何かを確認し終えると、易々と引っ繰り返した。倒れているバイクの運転手に近付いていき、頭と胸に向かってぱんぱんと弾を撃ち込む。俺の隠れている岩陰の傍に転がるゲリラにも近寄って、ぱんぱんぱん。単純な作業のように。
 全てが片付くと、死荷役は俺の被っていた迷彩布を取り払った。再生に失敗したのか、左目が引っ繰り返って白目になっていた。
「おわ、ん、おま、お待たせしました、ご、ゴリラ、ちがう、ご主人様。えーっと、そんしつ、有りません。汁、強いて言えば服に穴が空きました」
 脳味噌を一回撒けたせいか、喋り方がふわふわしていた。
「あ、ああ・・・・・・なあ、左目、引っ繰り返ったまんまだぜ・・・・・・」
 俺が教えてやると、死荷役は「おあ」と言って、眼窩に指を突っ込んで元に戻した。
「少しメンテナンスの時間を頂きます。あと、鹵獲出来るものを探して来ます」
 死荷役はそう言って離れていった。俺は立ち上がり、迷彩布を仕舞う。手が震えていた。
 俺はついさっきまで忘れていた。「死荷役」という連中は、「フー」というモノは、一体どんなものだったのかを、俺は忘れていた。アイツ等が俺達と同じなのは見た目だけ。俺達は生きているが、アイツ等は元から死んでいる。だから死ぬような目に遭っても立ち上がる。忌避される一番の理由は、それが理由だった。俺達に似た、俺達とは圧倒的に違う、別の何か。気味が悪くならないはずが無かった。
 死荷役は死体の懐や装備を漁った。金目の物を取り出してはポケットから取り出したナップザックに放り込んでいく。弾や銃は彼が使っているものと合わないのか、拾ってもまた地面に放った。俺は岩陰に座って彼が仕事を終えるのを待った。死荷役は車からは携帯食料や水を見付けていた。漁り終えれば、今度は注射針の付いたアンプルを取り出して、車の運転席にいる死体に幾つか刺した。アンプルにゆるゆると血が溜まっていくのが見えた。
 一通りの作業を終えて、死荷役は懐からピルケースを取り出した。中に入っていた小さな白いカプセルを、その殆どを口の中に入れて飲み下す。それから地面に腰を下ろした。座った彼は銃のメンテナンスをし、再装填し、自分の服を修理し始める。速乾パテのようなものでシェルジャケットのヘコみを埋めたり、穿いたまま破けたズボンの穴を縫ったり。機械的に。
 暫く日陰からそれを眺めていた俺は、彼が飛んだ帽子のことを忘れているのに気付いた。立ち上がって、少し遠くに飛ばされて落ちた帽子を拾って来てやった。
「おい、帽子。忘れてるぞ」
「ありがとうございます」
 帽子も破けている箇所があったので死荷役は受け取り、縫っていく。俺は車の中にある死体を見ないようにしながら聞いた。
「あのアンプル、何してんだ?」
 俺の質問に彼は少し間を置いて答えた。器用に帽子を縫っていた手は止まっていた。
「今ので、薬剤のストックを使い切りました。ですので緊急時用に血液を採取しています」
 聞くんじゃ無かった。俺はそう言わなかったが、顔には出ていただろう。死荷役が俺の顔を見上げて何でも無いように言った。
「ええ、何を仰りたいのか、分かります。ええ、とても良く。どうぞお気遣い無く」
 俺の何が分かったのか教えて欲しい返答だった。俺は「バイクが使えそうか見てくるよ」と言って、彼から離れた。出来るだけ距離を開けようとした。
 結論。バイクは二台とも無事だった。ミラーが折れたり車体に傷が出来たり、死荷役の肉片がこびりついていたりしたが、無事だった。なので有り難くバイクを拝借していくことにした。彼に「バイクは乗れるのか?」と聞くと頷いた。訓練過程で移動手段になるものは船舶から飛行機に至るまで大体履修するらしい。お陰で遅れ気味だった旅が地雷原までは快適なツーリングになる。
 日が暮れる前に野営準備をしなくてはいけないので、先程手に入れたバイクは二時間も走らせずに終わった。渇いた大岩に囲まれたところに、いつものように屋根代わりとしてテントを張った。
 起こした火で温めた簡易食料を無言で食べた。死荷役に「補給地点で買ったベーコンの残りがありますが、焼きますか?」と聞かれたが断った。気を遣われたのだろう。いつもだったらベラベラ喋ってるはずの俺が、通夜の帰りみたいな顔でレトルトのチャイナボウルを食べてるんだから。
 死荷役も俺が話さなければ何も言わない。黙ってレーションを咀嚼していた。土の塊みたいなそれを口に詰め込んで飲み込んだ後に、彼は立ち上がって少し離れた暗がりに敷いた寝袋へと潜り込んだ。ぱきん、と音がして血の臭いがした。アイツが自分に必要なモノを取り込んでいるのだと、俺は察した。俺にはアイツの背中しか見えなかったけれど。
 死荷役はタブレットをせがまなかった。昨日もその前も、「貸してください」と言っていたのに。もう興味など無くしたように何も言わなかった。
 俺も食事を終えて、火の始末をして寝袋に潜り込んだ。眠ろうと思った。眠ろうとして俺は、自分がアイツの心配をしたことを思い出す。それから、アイツを蔑んだことを思い出す。
「・・・・・・死ぬのって、痛いんじゃないのか?」
 話し掛けずにはいられなかった。答えが返ってこなくても良かった。「痛くない」と言って欲しかった。俺の心配を意味の無い徒労にして欲しかった。
 暗闇から死荷役の声が聞こえた。天気でも答えるようだった。
「痛い、痛いですね。でも慣れましたから」
「慣れるモンなのか?」
 何も知らない俺は馬鹿みたいな聞き方しか出来ない。
「そうですね、事前に訓練で死を経験します。個体個体に拠りますが平均三百回前後の死を経験して、馴らします。その『慣れ』の部分をデータ化して、新しい脳に書き込むんです。不思議と、何度死んでも私達の寿命は殆ど変わらないんです」
 それまで「辛い」「苦しい」と思っていたことが突然「どうでも良いな」と感じるようになる。それを「慣れ」と死荷役は説明する。その感覚を新品の脳味噌に書き込んで詰め直すのだと言う。
 聞いたところで、俺には到底許せる話ではなくて、でもそれを拒んだところでコイツは人間になるわけじゃなかった。
「お前は・・・・・・何回死んだんだ?」
「私は、物覚えが悪かったので、七百四十二回目で漸く克服しました」
 一日に一度死ぬとして、二年と数日死ぬことになる。どんな罰なんだよ、そんな酷いこと。なんでそんな目に遭わなきゃいけないんだよ。
 俺が黙っていたせいか、彼は「安心してください」と付け足す。
「それに死亡時のショックを和らげるように脳の処置が施されています。死んだ時に自動で予めプログラミングされている走馬灯を再生して、セロトニンを分泌させ、それを鎮静作用のある物質に変換し、死を和らげます」
「走馬灯?」
「はい。幸福な記憶です。人為的に作られたものですが」
「どんな記憶なんだ?」
 一体どんなものが「死」なんていう強烈なショックを和らげるのか知りたかった。だが死荷役は教えてくれなかった。その声が揺らいでいた。
「・・・・・・ひとに、拠りにけりですね。案外、バリエーションが多いようです」
 「眠ります」と言った切り、何も聞こえなくなった。コイツでも話したくないことなんかあるんだな。俺はそう思い、瞼を閉じた。そのまま俺は彼に提案した。
「なあ、お前に名前を付けようと思うんだ。いつまでも名前が無いままじゃ不便だからさ」
 俺の声に、「なまえ」と呟くような囁くような声が返ってきた。
「そう、名前。明日とか、明後日とか、もっと後でも良いから、後でお前の考えた名前を付けよう」
 彼が自分で思い付かなければ俺が名前を付けてやろうと思った。星の名前でも聖人の名前でも、映画の主人公の名前でも。「死荷役」より良い名前がこの世には沢山ある。
 俺の提案を彼は受け入れ、そして自分の名前を口にした。
「では、『ロバ』と」
「なんでロバなんだ? 良いイメージ無いだろ?」
「粗食に耐え、頑健であり、労役に向いた生き物です。尊敬に値します」
 俺は同意為かねるものの「じゃあ良いよ、それで」と返した。好きな名前を付けて良いと言ったのだから反対する意味など無い。
 彼が自分に付けた名前を俺は呼んだ。
「おやすみ、ロバ。俺を助けてくれてありがとう。お前がいてくれて良かったよ、本当に」
「・・・・・・おやすみなさいませ」
 事務的な挨拶が返ってきた。俺は自分のしたことを考える。きっと他人から見れば馬鹿馬鹿しい行為なんだろうと思う。俺だって自分が楽になりたいだけにやったことなんだと分かってる。ちゃんと分かってる。でもこうでもしなきゃ俺はクズになる気がした。
 やっと睡魔がやって来た。夢は見なかった。


 荒野に取り残された無人の市街地に入る手前でバイクはガス欠になった。昔は港まで行く旅の補給地点だった此処を抜ければ、後は人間が通っても安心の加圧感知式地雷原。ただ、元補給地点の廃墟にはゲリラが住み着いていた。
 三時間程度で抜ける予定の市街地で半日も時間を取られた。それもこれも虫のように涌いてくるゲリラ共のせいだった。連携して襲ってくれば効率も良いだろうに、何故か個別に襲ってくる。しかも武器は棒きれ。
 馬鹿だ馬鹿だと思っていたがこれ程馬鹿だとは思わなかった。俺だったら絶望して自殺する。いや、馬鹿だからゲリラなんかになるんだろうな。
 ロバが物陰から飛び出してくる人間をばんばん撃っていく。その度に財布も漁る。腕時計も指輪も奪う。アンプルを使って採血していく。ロバはばんばん撃たれる。その度にアンプルの血を俺に見えないように飲む。俺は見ない振りをしてやる。
「なあ、ロバ」
「はい」
「お前、金集めてどうするんだ?」
 俺が訊ねると彼は「任務が終わり次第ご主人様にお渡しして、残りは自分の為に使います」と答えた。俺は「全部お前にやるよ」と返した。ロバは喜んでいた。顔が真顔なので声で判断するしか無かった。
 俺達は昼飯も食いっぱぐれて歩き続ける。時折現れる馬鹿を撃ち殺す。この調子だと、地雷原に着くのは夕方になりそうだった。

「アイツ等、なんでバラバラで襲ってくるんだ? 意味分かんねぇ」
 漸く落ち着けられそうな廃屋を見付けて休憩することにした。恐らくカフェかバーガーショップだったのだろう。廃墟には客席とカウンターが面影だけ残っていた。荷物を下ろした俺達はベンチシートに座って、眠らないように喋りながら飯を食った。二人とも疲れ切っていた。
 俺がゲリラに対する疑問を呈すると、ロバはカップヌードルを啜りながら答える。眠いのか頭がゆらゆらしていた。俺も睡魔のせいで手元が覚束なくて、パワーバーの包装紙が中々剥けなかった。
「彼等には、一貫した教義があります。四半世紀前に潰走状態となってなお活動を続けている『正義の味方』は、『悪には一人ないし仲間数名で立ち向かうべき』『ヒーローとは孤独なもの』という教義に乗っ取り、少人数で動くんです」
「キモ、頭おかしいな」
「過激な暴力団体なので、思考が非効率的なのでしょう」
 俺がその答えに笑えば、ロバはかくんかくんと頭を揺らした。多分あれは笑っているのだろう。頭を揺らすのを辞めて、思い出したように彼は付け足した。
「『我々』の会社が、敵対していた『正義の味方』を討伐した際に捕虜としていたゲリラを解放しました。捕虜には知能を低下し続け、子孫にそれが遺伝する疾患を与えてから」
「捕虜? 有志の被験者じゃないのか? 本人達がそんな証言してただろ」
 俺の記憶だと、普通の人間よりも耐性のある治験参加者がいてくれたお陰で様々な特効薬や技術が生まれたのだと、二時間の特番でやっていた気がする。俺がそう言えばロバは呆れたように溜息を吐く。
「脳の書き換えを行えば反乱分子を家畜にすることも出来ますよ。『私達の祖たる母であり偉父たる彼の御方』は彼等を憎悪していましたので、そのような処置を行ったと」
「頭おかしいな」
 パワーバーの二本目を食べて、俺は質問する。
「地雷原抜けたらどうする? 仕事終わりだろ?」
 彼は食事を終えてぼんやりと空中を眺めていた。それでも会話は成り立った。
「私は契約に従います。貴方が契約破棄の手続きをするのであればブローカーの元へ。雇用主が決まるまでは会社の倉庫で眠ります」
「俺が契約を続けたいって言ったら?」
「・・・・・・貴方の意思に従うことになりますが、まずは映画ですかね。『マイ・インターン』って面白いですか?」
「控えめに言ってクソ。アレよか『オーシャンズ8』十回観たほうが良い。アン・ハサウェイがアン・ハサウェイ史上最高のアン・ハサウェイだからな」
「成る程、観ます」
「どっちを?」
「『マイ・インターン』」
「お前とは一生映画の趣味が合わねぇ気がしてきた」
 俺達は笑って、後片付けをして廃墟を出た。街の外はもうすぐだった。さっさと出て行きたかった。
 少し歩いたところで、またゲリラ共の声が聞こえた。どうやら纏まった人数でこちらへ向かって来ているようだった。今までのように二人か三人、という感じでは無かった。街の外はもう目の前だ。だが追っ手はしつこい。地雷原にまで追って来れば共倒れは確実だろう。俺とロバは顔を見合わせる。
「どうする?」
「第一案は『このまま地雷原に向かう』ですが、恐らく追ってくるでしょう。車か、せめてバイクでも乗っていれば地雷で死ぬのですが、連中は徒歩なので。第二案は『迎撃』、此処で始末していきます。ただ相手の人数によっては難しいかと。私達は首を切り離されると再生が難しいので。最悪、ご主人様と貨物のみで地雷原を抜けて頂くことになるかと」
 如何しましょう、とロバは聞きながらコッキングレバーを引く。答えは決まっている。俺は廃墟の中で一番壁が分厚い棟を選んだ。
「荷物は此処に隠す。俺も隠れる。前にやったよな、上から迷彩布被ってる」
「それだと緊急時にご主人様が逃げられないのでは?」
「そん時はどうにかするよ。心配すんな、駄目なら駄目で死ぬだけだし」
 俺の言葉にロバは何か言いたそうな顔をしたが結局口を噤んだ。もう時間があまり無かった。俺達は荷物を隠した。俺も邪魔にならないように荷物に掛けた迷彩布の下に隠れる。スイッチを入れる。光学迷彩が起動する。
「私が声を掛けるまではそのままで。二度と私が声を出さなければ諦めてください」
 なんとも嫌な言い方をして、ロバは駆けていった。爆発物を使われると荷物も俺も巻き添えを食う。敵を俺から離す為に彼は走って離れていった。時折、わざと空砲を鳴らして居場所を知らせている。鬨の声が聞こえる。ゲリラ共だった。二十人以上いるようだった。此処を寝床にしている連中勢揃い、というところなのだろう。
 少し離れたところで銃撃戦が始まった。俺は戦闘が終わるまでじっと息を殺していた。

 三十分程経った。音が止んだ。何も聞こえなくなった。それから十五分経った。ロバは戻って来なかった。俺は躊躇い、それでも結局迷彩布の下から這い出した。荷物はそのままにして、辺りを伺いながら。最後に聞いたロバの足音が向かって行った方向を思い出しながら、俺は歩き出した。
 大通りにぶつかって、その通りを進んでいけば死体が転がっていた。ゲリラ共だった。貧相な見た目の襤褸を着た、男や女や子供。これだからゲリラは嫌いだ。死体を数えに来たわけではないのでさっさとロバを探す。
 ロバはいた。体中穴だらけになったまま、また死体の懐を漁っていた。俺に気付いて彼は振り返った。
「ご主人様」
「お前、終わったら声掛けるっつってたよな?」
「忘れてました」
「この野郎」
 ひとまず俺は安心する。「出発しよう」と言おうとした時、目の前でロバのこめかみから血が噴き出した。俺は倒れていくロバを見て言葉を喪う。咄嗟に周囲に目を向ければ死に損ないが銃をこちらへ向けていた。ロバを撃つので精一杯だったのだろう。そのまま死んだ。
 ロバは頭が撃ち抜かれていた。びくびくと手足が震えていた。運悪く、ロバにはまだ意識があった。死ぬまでの数秒が地獄の苦しみと化していた。
「ロバ!」
 俺は気付けばロバに飛びついて名前を呼んでいた。ばたばたと体が跳ねているロバは「うー、うー」と鳴いて、それから徐々に動かなくなった。開いたままの目から涙を流して、ゆるゆると瞳孔を拡散させていった。眠ったまま笑う子供の顔をして、左手を僅かに持ち上げた。そして落ちる。
 地面に付く前に俺はその手を握ってやった。再生が始まっているはずだ。なのに、もう一分以上経過している。長い。長過ぎる。俺は不安になる。
 焦りながらどうにか片手で血だらけになった彼の上着を探り、血のアンプルを見付けた。まだ割れていない物が五本あった。俺はそれを割ってロバの口へと垂らしてやる。全部与えてやる。口元が人間でも食ったように真っ赤になった。ロバの体から嫌な、湿った音がしていた。緩慢に肉が接着していく音。俺は割ったアンプルを握って血を流す。それさえ与えてやる。俺は彼が生き返らないことを恐れた。
 ロバの薄い唇が戦慄いて、小さな声が聞こえた。
「おかあさん・・・・・・」
 譫言だった。ロバは安心したような微笑みを浮かべていた。コイツは今、どんな走馬灯を見ているんだろう。どうせCMみたいに作られたのであろう、綺麗で幸せな、植え付けられた走馬灯を見ているのだろう。どうしてそうも、幸せそうな顔が出来るんだろう。何故だか凄く、俺は胸が締め付けられた。
 結局、ロバが立ち上がるまで五分掛かった。
 まる一日歩き通しで寝ずに地雷原を抜けた俺とロバは、港に到着した途端に崩れ落ちた。検閲官に荷物とを預けて仮眠室を借りた。運んでいた品は無事納品することが出来た。半日寝て、飯を食って、彼を連れて俺は港に常駐しているというブローカーの元へ向かった。
 市街地の戦闘から復活した後、ロバは少し言葉が減った。減ったというよりは似た言葉を間違えて喋るようになった。「うどん」を「ラドン」と言ったりする。最後の戦闘で不具合が起きたのかも知れない。
 「ブローカーのオフィスがある」と港湾職員に教えられて港の端へと向かった。コンクリートで舗装された海縁に大きなパラソルが開いていた。その下に置かれたサマーベットに見慣れたスーツが優雅に寝ていた。寛ぐブローカーは俺を見て、片手を上げていつ見ても同じ挨拶を返す。
「こんにちはお客様! 命日にするには良い日ですね!」
 組合にいた奴と同じ顔をしているが、別人だ。俺は手短に要件を伝える。
「コイツの様子がちょっとおかしいんだ。看てやってくれないか?」
 隣にいるロバを示せばブローカーは「成る程」と頷き、立ち上がる。「ではこちらでメンテナンスをしましょう」と傍のプレハブに案内された。中に入ると機材で埋め尽くされていて、診察台も置かれていた。
「では、この台に座って」
 指示を受けてロバは診察台に腰を下ろす。ブローカーは上着を脱いでワイシャツの袖を捲り上げると腕時計やらネクタイピンやら指輪やらを外して脇のテーブルに置いた。アルコールジェルで手を消毒する。そして一言命じた。
「‏פיקוד: הפסק לתפקד」
 がくん、とロバは頭を垂れた。ブローカーが彼の顎を取って顔を上げさせる。眠っているように見えた。空いているもう片方の手を、ブローカーはロバの額に当てる。
「ん、んー、あれ、えぇ・・・・・・?」
 ブローカーがそんな風に首を傾げているので俺はつい不安になって「大丈夫なのか?」と声を駆けた。彼はそんな俺を馬鹿にするような顔で振り向いた。
「犬に懐かれたとでも思っているようなので訂正しますが、彼等にそんな感情はありませんよ。有益性を見出すことはありますが、そういった機構は組み込んでいませんから」
 その言葉に俺は眉を寄せる。
「ただの反射行動に過ぎません。円滑なコミュニケーションを取るためだけのものです」
「だから、何だってんだよ。とにかく、俺はソイツが大丈夫なのか知りたいんだ。何かあれば治してやって欲しい」
 俺がそう言えばブローカーは肩を竦める。何度か観察するようにロバの額を指でなぞった。
「脳の容量が圧迫されていますね。あー、映画・・・・・・まあ、脳を違うバージョンに交換すれば良いかな・・・・・・あー、あー・・・・・・」
「その『あー』っていうのやめてくれよ。不安になる」
 ブローカーは俺を無視し、ロバの額から手を離した。顎からも手を離せば彼の頭は下へと垂れる。
「これはもう癖が付き始めてます。耐用期限が近付いているため、最終処理を施したのち廃棄処分となります」
「・・・・・・耐用期限?」
「自死願望の兆候があり、この個体はもう修理したところで直らない、ということです。脳や肉体は都度交換していますが、やはり精神の面にある何かが摩耗するのでしょう。蘇生するスピードは落ちていき、最終的には生き返っても使い物にならなくなります。走馬灯を見るためだけに死ぬようになります。いやぁ、この不具合を解明出来ればもっと売れるんですが」
 ブローカーは手をまた消毒して上着に腕を通す。俺は「廃棄」と言われて慌てた。
「あっあの! かっ買い取り、買い取ります。俺がコイツを買い取りますんで・・・・・・あの、はっ、はい、廃棄するのは、良いです、大丈夫です」
 俺が吃りながら言えば、ブローカーは「マジか」という顔をした。
「えーっと、その、こちらは愛玩向きではないんですが・・・・・・」
「いやそういう意味で買うってワケじゃねぇよ!」
 事故が起きそうになって訂正する。
「最初は嫌だなと思ったけど、道中凄い助かったんだ。話も出来るし、銃が使えるし」
「では新しいのをご用意しましょうか?」
 ブローカーは笑う。俺は嫌な気分になる。俺は「コイツが良いんだ」と言った。ブローカーは諭すように言った。
「彼等は何度も死んでいる。其処にある苦痛を曖昧にしているだけであって、苦痛が無いわけではない」
「いきなり何だよ・・・・・・」
「何度も恐怖と痛みと絶望を味わっています。想像を絶する世界に彼等は放り込まれている。需要があるからです」
 そういう風に作った側がそう宣う。俺は聞いていて気分が悪くなってくる。
「いやはや、我々の力不足の結果です。折角『私達の祖たる母であり偉父たる彼の御方』が我々を設計して下さったというのに、うっかりあの『正義の味方』の残党を野放しにしてしまったお陰で、こうも世界は不完全なまま運営されることになってしまった」
「連中の何と関係があるんだよ、その歴史の話」
「原材料の点で」
 ブローカーが「秘密ですよ」と口の前に人差し指を立てた。
「彼等の材料は『望まれぬ嬰児』です。それもこれも、世間様が未だに人間の悪性を認めずにいるせいなんですよね。様々な要因による望まれない胎児でも、堕胎すると『ドンナ子供ニモ殺シテイイ理由ハ無イ~』『殺人ダ~』などと世間の皆さんはバッシングなさるでしょう? それですよ」
 馬鹿馬鹿しい話でもしているように、ブローカーはずっと笑っていた。俺はコイツの話を何一つ理解する気にもならなかった。
「ですので、こちらで買い取りをしているんです。外聞を気にする裕福な家庭からも、知識も手段も無い貧困層からも。用途については様々ですが、彼等について言えばこちらで調整を施し、生きる意義と役目を与えてやる。幸せな『走馬灯』も与えてやる。望まれなかった人間の救済を私達はしているんです。赦されぬ愛の間に生まれた子供も、悍ましい暴力によって生まれた子供も、平等にね」
 「原材料が人間だと機構設計も楽だしコストも安いんです」とブローカーは言う。俺はもう何も言う気にはなれなかった。
「そして、長い苦役の末に彼は生存意義である義務を果たした」
 優しい教師のように、ブローカーは「お節介ではありますが、解放してやったほうが彼の為ですよ」と言った。
「・・・・・・・・・・・・胸糞悪ィぜ、何もかもよ」
 俺は罵倒を浴びせるのをどうにか堪えた。俺の感情を読み取ってもなおブローカーは快活な笑い声を立てた。
「私達の仕事は『人間の尊厳をジャンプして踏み潰すこと』! どうぞご理解ください。私達がいたから、今の『息のしやすい』世界があるのだと」
 ブローカーは壁際にある書類棚から何枚からの紙切れを取り出し、ボールペンでさらさらと書き付けて渡してきた。
「ではこちらが買い取りについての契約書になります。請求書はこちら。廃棄前ですが価格は市場価格のままで。分割でのお支払いも出来ますので」
 書類を受け取る俺は、迷い始めていた。ロバを、死荷役を、終わらせてやらないこの選択をして良いのか。長引くばかりの痛みを忘れて、走馬灯を見るために死ぬようになる彼を、楽にしてやらなくて良いのかと。 
 ブローカーがロバを起動する。それでも少しの間は眠っているらしかった。新規の脳が届けば交換し、契約手続きも行うと彼は言った。一旦それを保留にした俺が暗い顔をしていても、ブローカーはいつもと同じ挨拶で締める。
「ではどうぞ、良い余生を!」
 ロバが目覚めたら、ひとまず映画を観てそれから二人で考えようと思った。例え彼の言葉が単なる俺への反射的な何かであっても構わない。とにかく話がしたかった。





彼女の恋人が死んでから(彼女の世界がおしまいになってから)約二十五年後。


おしまいの国から:人類の功罪 エクス・マキナの浄罪


 私が気付いた時には、既に手遅れだった。私は自分が今まで何を信じていきていたのか、分からなくなっていた。
「エヴァ! エヴァッ! どうしてよ! どうして闘わないのよ! 殺しなさいよ! 早くッ!」
 少女の金切り声が聞こえる。博士がアマルガムアーマーとの適合率の高さを見込んでスカウトした少女。ユミコ。私に花飾りをくれた少女。
『エヴァ! なんで動かないんだ! どうしたんだっていうんだよ!』
 通信機の向こうから少年の叫ぶ声が聞こえる。博士の甥。優秀で頭の良い少年。カイト。彼は博士を手伝って、私を整備してくれていた。
 私は地面に伏せたまま動けない。私の論理回路は破綻して、行動原理にエラーが生じていた。憎い敵、世界を滅ぼす悪の集団に立ち向かう為に私は作られた。私達は自らを正義の味方なのだと思っていた。それが、今では、敵のプラントを破壊するために現れた私達は、守るべき人々から罵倒され、憎悪されている。どうして、どうしてなのか、どうして私は、どうして、こんなことを、どうして。私はただ、「悪の組織」の工場プラントを破壊して、抵抗する職員達を殺して、防衛のために現れた強化人間達を数名殺しただけだった。それが、守るべき人々の憎悪を煽った。私は、間違っていたのかも知れない。
 私の中で深刻なエラーが発生し続けている。私は、博士に作り出されて、人々を脅威から守るために、悪意から守るために、作り出されたはずだった。それが、どうして、テレビ中継されて、激しく罵られているのか、分からない。集まってきた人々が私達に怒号を浴びせている。怨嗟を投げ掛けている。
 ユミコと私は無辜の人々を守るため、残虐な実験と生物兵器を滅ぼすため、怨敵である軍事企業のプラントを攻撃した。世間の人々は企業に騙されているので私達「正義の味方」の活動は少し前から批判されるようになっていた。それでも博士の意志は変わらなかった。「世界を守りたい。人々を守りたい」。それだけだった。私の論理回路はそれに従っていた。だが、それは、今はもう、打ち砕かれている。
 私を憎む人々の声が聞こえる。私は動けなくなる。研究所でバックアップに当たっているカイトからの強制命令も受け付けることが出来ずに蹲る。頭の中で「敵を殺せ」と命令される。私はそれを受理しない。出来ない。ユミコが敵の増援に叩きのめされている。私は助けることが出来ない。私の行いは間違いなのだと、人々に糾弾されているから。少女の悲鳴が聞こえる。少年の叫びが聞こえる。私は何も出来ない。
 私に与えられていたものは、全て間違っていたのだろうか。

 あれから約四半世紀が経過した。運び屋の仕事はとても良い。身元確認が無いし、働けば働いただけ金が支払われる。
 組合に行けば私は少数派で目立つ。受付嬢と仲良くなれば優しくて支払いも良い仕事を優先的に回して貰える。私の外見が「美しい女」だからだ。肩甲骨の辺りまで伸びた金髪。青い瞳。長い手足。白い肌。ルネサンス期の彫像を真似た顔。博士は私を兵器としてだけではなく、女としても最高級の存在として造り上げた。私にはそれを理解する心が無い。
 女性の見た目を持つモノはこの業界に殆どいない。運び屋は労働内容が過酷なため、昨今は身体補助の手段としてサイボーグ化する人間も増えつつあるが、必然的に男性ばかりになる。
 だが私には関係が無い。私は男に混じって働く。私のことを評価する人間もいれば私のことを蔑む人間もいる。私は何一つ気にならない。私には何一つ関係ない。私は何も気にしない。私は何も感じない。元からそういった設計をされていない。


 仕事で使っている安全靴がそろそろ寿命を迎えつつあったので、ブローカーの店に買いに行った。ブローカーの一人が組合の傍に店を構えている。彼はこの街に常駐している。
 私はブローカーのことが苦手だが仕方なかった。何処に行っても同じ顔の彼等に出会すからブローカーが苦手なのでは無い。彼等全般が苦手なのだ。人間の見た目をしている、造られた彼等が。私と限りなく近く、そして限りなく遠い、「フシヤシントウの創造物」が、私は苦手だ。
 店の中へ入ると奥で誰かとトランプに興じていたブローカーが私に気付いた。今日は長居をする先客がいたらしい。ブローカーはいつ何処で会おうといつも同じ挨拶をする。
「こんにちはお客様! 命日にするには良い日ですね!」
 私はそれにいつも同じ言葉を返す。
「残念だが私に死の概念は無い」
 白い頭髪にアジア人の顔を持つ彼は正しい「曖昧」という表情で微笑んだ。歩みを進めて近付いていけば、彼の客の顔が傍にある卓上ランプに照らされて見えた。女だった。彼女は私を見て「にこり」と微笑んだ。流れる黒髪の中に柔らかな金雀枝の瞳が見えた。私は野戦服姿のその女に向けていた視線をブローカーに戻す。
「靴が欲しい。前回買ったのと同じ物で良い」
「はいはい。ああ、バックヤードに在庫がありますね、取って参りますので少々お待ちください」
 ラップトップを叩いて在庫を確認したブローカーはトランプの札をすり替えようとしていた彼女に指を振る。
「お客様です。話し相手を」
「はい」
「結構だ」
 私が断るのをブローカーは聞かずに倉庫へと向かってしまった。女が立ち上がって、私と話す為に椅子を勧めた。固辞しようかと考えた。だがやめた。私は彼女の前に座った。彼女は魅惑的な笑みを浮かべて私を見る。
「こんにちは、珍しい運び屋さん」
 頬杖をついて彼女は私を眺めている。私は私を観察する視線に慣れている。彼女が試みる会話に私は応答する。
「こんにちは。ブローカーに部下という概念があるとは知らなかった」
「ああ、私は部下ではありませんよ。商品です。雇い主がいない『フー』です」
 「フー」、「Working Help Organism」、「労働助力有機体」。「フシヤシントウの創造物」。人間では無い。私の顔に表情らしい表情は浮かんでいないはずだった。それでも彼女は人懐っこい顔のまま、悲しむように眉尻を下げた。彼女もブローカーと同じようにデンキナマズを組み込まれているのだろうか。連中は人間の顔に流れる電気信号の動きを読んで、感情や大まかな思考を感知することが出来る。私の場合であれば、微弱な電磁波だろうか。
「貴方は私達のことがあまりお好きではないのですね」
「…………そうだな。フシヤシントウの造るモノは大抵苦手だ」
 私があの女の名前を出すと、フーは酷く驚いていた。
「『私達の祖たる母であり偉父たる彼の御方』の御名を口にされる方、初めて見ました」
 当然だ。その名前を知るモノは殆どいない。彼女は世間的に言えば企業に務める研究員の一人だった。社長も上司も彼女を守った。彼女を守ることは権益を守ることであり、彼女は金の卵を産む鵞鳥だった。
 きらきらと目を輝かせているフーを見て私は限りなく感情値を安定させる。私は、フシヤシントウが苦手だ。フシヤシントウの創造物が苦手だ。フシヤシントウの信者が嫌いだ。私は私の論理回路を抑え込む。
「私は、君達が『私達の祖たる母であり偉父たる彼の御方』と呼ぶ人間に会って、話したことがあるよ」
 そう言うと彼女は瞳を輝かせた。子供のようだった。人間から生み出された有機体だというのに。元は肉のなり損ないだったというのに。
「本当ですか!? 良いなぁ、一度お会いしてみたいものです。今は短周期彗星の公転軌道にいらっしゃると聞いています。愛する方を模した長子、我々の大兄に当たる方と共に眠っていると。ああ、どんな夢を見ておられるのか」
 うっとりした口振りで彼女は溜息交じりに言う。被造物に行われる条件付け。彼等の脳には創造主への果てしない愛と尊敬が刻み込まれている。自分が生まれてきた理由を信じ込むために。「求められたから設計され、生み出された」と信じるために。
 私と彼等に断裂があるとすれば恐らく其処だろう、と私は考える。私は自分の創造主に対して愛情を感じたことは無い。

 「正義の味方」、つまり私達は四半世紀前に敗北した。私という最大戦力が敵の手に落ちたことで、どうにか拮抗していた戦況を維持出来なくなったためだった。
 私達の敵は軍需産業だった。彼等は自然を破壊し、国を破壊し、世界秩序を破壊しようとしていた。その目論見に気付いていたのは私の創造主であり、我々の指導者だったウエキ博士だけだった。博士は世界に悪の組織が行っている非人道的な研究を世間に暴露し、彼等を糾弾した。だが敵の巧みなプロパガンダによって彼はテロリストにされてしまった。
 博士は立ち向かい続けた。世界中の紛争を止めるために。フシヤシントウとその仲間達に弄ばれる生命を救うために。博士にもまた、志を同じくする人間達が集まっていった。少年少女達。大人達。彼等は博士の発明したアーマーに身を包み、武器を手にして企業と闘った。フシヤシントウの生み出す怪物達は強かった。大怪我をする仲間がいた。死んでしまう仲間がいた。捕まって連れて行かれてしまう仲間がいた。企業の手下となった警察に捕まってしまう仲間がいた。それでも博士達は戦い続けた。
 私が造られたのは闘争の末期だった。博士が、その生涯の集大成として私を造り上げた。悪を憎む論理回路。正義を為す行動原理。不沈艦と称される躯体と戦闘継続能力。強化人間達を肉塊へと変貌させる火力。私は相手が企業であれば無敵だった。博士も仲間達もそう信じていた。私も自身の能力を高く評価していた。私は、仲間と共に、世界を守るのだと。正しい世界に導くのだと、私は思っていた。
 だが私は敗北した。守るべき人々から浴びせられた怨嗟と憎悪によって。

 共に企業のプラントを襲ったユミコは強化人間達に捕まって連れていかれた。復旧不能のエラーに陥った私も鹵獲された。
 私は広い部屋に連れて行かれた。独房とは違う、壁が白い部屋だった。鋼鉄製の、床に固定された椅子に座らされ、拘束された。私の前には同じく鋼鉄製のテーブルと、その向こうに同じような椅子がある。
 尋問室だろうか。私は回転数の落ちた頭でそんなことを考えた。扉が開いた。女が、部屋の中に入ってきた。私がこの世で最も憎む女が、部屋の中にやって来て、私の目の前に立った。
「さて、残念ながら『正義の味方』は今日をもって上から順にリンチされることになった。いやぁ、良い気分だ。国の祝日にしても良いくらいだ」
 フシヤシントウはそんなことを嘯きながら向かいの椅子に座った。彼女の目の下には黒いクマと皺が刻み込まれていた。今までの彼女の闘争が、どんなものだったのかを物語っていた。
 私は椅子に拘束されて動くことが出来ない。手足を椅子に溶接されている。武装は全て外されている。視線と音声以外は私の自由にはならない。私は殺意を込めて睨む。それをフシヤシントウは微風のように流す。肩口に掛かる程度の長さで切り揃えられた黒髪を掻き上げて、彼女は私を眺めた。
「成る程、よく完成されている。あの凡愚の老い耄れの、大したことの無い人生最大の傑作だ。『エヴァ』ではなく『ハダリー』と名付けるべきだっただろうに」
「博士を愚弄するな!」
 私は叫ぶ。そんなことしか出来ない。フシヤシントウは怒る私を見て、僅かに口角を持ち上げた。
「するとも。お前は所詮、あの馬鹿共が鹵獲した私の創造物を解剖して学んだ末に漸く造り上げたモノでしかない。分かるか? お前は私の造ったモノの猿真似でしかないということだ」
 侮辱を投げ掛ける女を私は殺してしまいたい。殺したい。私の望みはそれだけだ。私の憎しみを知っているはずの女は、私のことを何とも思っていないというように話し続ける。
「というか、あの馬鹿な耄碌爺の言葉を一から十まで信じるとはな。どれだけ知能が低いんだ。全く、親の躾が悪いな。ああ、お前のことじゃない。これから死んでいく餓鬼共の話だ」
「…………ユミコをどうした。あの子は、一体、どうしたんだ。それだけじゃない、お前達が連れ去った皆を、お前はどうしたんだ。殺したのか?」
 私の問いに対して返ってきたのは残虐な喜びを噛み締める声だった。
「ふふ、可哀想に。人生をあのペドフィリアのせいで台無しにして死んでいくなんてな。く、ふは、はははは。なんて可哀想なんだ、いかん、笑ってしまうな。爆笑必至の見世物だったよ、お前の仲間達は」
 女は笑う。それで私は、仲間達がもう既に、無事では無いのだと理解してしまう。私は暴れる。がむしゃらに。だが溶接された手足は椅子から離れることはない。
 フシヤシントウは天気の話をしているように話す。
「私の専門である死体の軍事利用は、元々ウエキが思い付いたものだ。師事したわけではないがな。確かに彼は先駆者だった。それ故に学会を追放された。数十年後、私は彼が切り拓いたこの分野を一代で完成させ、受け入れらた。それを僻んで会社にイチャモンを付けてるんだよ、あの痴呆老人は」
 唐突に開示された情報を、私は理解出来なかった。信じられるはずが無い。私は、私は正義のために博士によって造り出されたはずだった。それをこの女は否定する。
「フシヤシントウ!」
「お前にとって『私とは何だ』? 説明してみろ」
 彼女の問いに私は憎しみを込めて答える。
「お前は、悪の科学者、マッドサイエンティスト、壊れた天才、悪魔のフシヤシントウ」
「それで?」
「お前は罪も無い人々を改造して怪物に仕立て上げた」
「罪も無い、罪も無いだと…………? ふ、ふは、ははは、ふふ、あははは!」
 大笑いするフシヤシントウは身を捩り、涙を流していた。私は彼女を憎悪する。
「何がおかしい?」
「いや、ははは、ふふ、気にするな。続けろ。それで?」
「何百万人もの虐殺に加担した」
「それで?」
「一つの民族を絶滅させて国を滅ぼした。挙げ句に歴史からも抹消しようと国連に掛け合っている」
「そうか。それで?」
「お前は倒されるべき悪だ。私がいる限り正義が消えることはない」
「だから?」
「お前は滅ぼされるべきだ。死ぬべきだ、フシヤシントウ」
 私は宣告する。それを聞いて、フシヤシントウは落胆して見せる。出来の悪い生徒を叱るように言う。
「嗚呼、違うぞ。言葉を飾るな。簡潔に言いなさい。お前の意見を聞きたいんだ、そんな手垢の付いたプロパガンダを口にするな」
 私に彼女はそんなことを説教する。私の、博士に与えられ、仲間達と育んできた言葉を否定される。私は吼える。フシヤシントウは趣味の合わない彫刻を眺めるような目で私を観察していた。
「お前の頭脳には私への憎悪が刻まれている。たとえ洗脳であっても、身に染みついた憎悪は消えてくれないだろう」
 彼女は唇を歪める。私を嘲っていた。私を造り出した博士を嘲っていた。それから、途端に表情を無くす。
「…………私は、恋人のことが好きだった。人間を好きになるのは生まれて初めてだった。彼のために、世界を平和にしたいと思った」
 フシヤシントウの恋人は数年前に死んでいた。自衛官だった恋人は海外で自爆テロに遭い死んでいた。
「だがお前達は役立たずだった。私の恋人は死んだぞ、スカム共。なあ、私はとてもお前達が憎いぞ。絶対に楽には死なさん」
「私怨か、貴様は私怨で世界を滅ぼすのか! フシヤシントウ!」
 復讐などくだらない。いつまでも続く憎悪の連鎖など断ち切るべきだ。私は彼女の心情を一切理解出来ない。理解する気にもならない。
 彼女は私を睥睨する。憎しみと怒りしかない目で、私と私の仲間達、生きている人類全てを呪う。
「愛と正義で世界は救えるらしいな。なら、世界に私の悪意と憎悪を思い切りぶつけたらどうなるんだろうな。私は、私にとって息のし易い世界を造れるだろうか」
「そんな未来は永遠に来やしない」
 私は彼女を否定する。フシヤシントウは私の言葉を味わうように舌で歯列をなぞる。それから視線を宙に向けて左右に揺らす。次の瞬間、ガチリと私にその目を向ける。
「………………お前のお陰で、ひとつ良い設計が浮かんだよ。ハダリー?」
 彼女は両手の指を合わせた。祈りの仕草というよりは何かの回路を接続するように。
「素敵な、すてきだ、良いな、良い。素晴らしい。新しい世界の倫理基準を象徴するモノになる」
「また悪魔を生み出すのか。また誰かを犠牲にするのか、お前は」
 私がそう言えば、フシヤシントウは「ナンセンスだ」と言って頭を揺らす。
「お前が憎しみを条件付けられているように、私も生み出すモノに愛情を条件付けよう。お前達の大好きな『愛』によって動く肉塊だ、きっと感動的だぞ」
 忌むべき創造物のアイデアを彼女は楽しげに話す。私が「狂ってる」と言っても、女には何のダメージも無かった。フシヤシントウは私から着想を得たことで、私に恩赦を与えた。
「お前は人間ではないから、無力化した後に通常廃棄しよう。何処へなりとも好きに行け。私の齎す世界を見て回るが良い。素晴らしい世界をお目に掛けよう」


 あれから四半世紀以上の時間が経った。フシヤシントウが生み出したブローカーの店で、私はフシヤシントウが生み出した「フー」と会話している。私から着想を得た創造物と。
 ブローカーがバックヤードから戻ってきた。私は立ち上がり、会計を終える。それからフーを一瞥する。
「ブローカー」
「はい、なんでしょう?」
「あの『フー』は買い手がもう付いているのか?」
 私が訊ねるとブローカーはニコリと微笑んで否定を返す。
「気に入りましたか? あの個体はコミュニケーション能力が高いので連絡員として運用するのが最適なのですが、運搬要員としても能力を保証致します」
 ブローカーが彼女のスペックをペラペラと話す。私はそれを聞きながら、自分の思考を検証し直す。フシヤシントウの創造物を買おうなんて、一体どうしたというのだろうか。思考を反芻する。やはり分からない。
「では、契約に移ります」
「ああ」
 私はフーに訊ねる。
「君のことはなんて呼べば良いかな?」
 彼女は私の問いに微笑みを返す。
「私は貴方の声にしか答えませんから。どうぞお好きにお呼びください」
 それを聞いて私は曖昧な笑みを造る。それからどうして彼女を買おうと思ったのか分かった。単に次の仕事がコンボイでの輸送だからだ。人手が足りない。ただそれだけだった。
 私は彼女への憎悪など持っていなかった。

 フシヤシントウ。お前を殺すために造られた私が、お前の造り出したモノと会話しているんだ。お前が壊して造り上げた世界の中で、お前を憎む私がお前を愛するモノと共にいるんだ。どうせお前のことだ。彗星の軌道上で笑い転げているんだろうな。「なんて悪趣味なんだ! 笑ってしまうな!」なんて言いながら。
 どうして私を破壊しなかったんだ、フシヤシントウ。私は永遠に、お前の遺したこの世界がとてつもなく憎いのに。







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