強迫性障害 強迫観念と自己否定
noteに投稿された記事をいくつか拝読する中で、強迫性障害の症状に対して本当に真摯に向き合っている方が多くいらっしゃるということを最近私は実感しています。この記事では、強迫性障害に対するいろんな方々の思いに触れ、改めて私が思ったことを書いてみたいと思います。
それは、単なる自分の個人的意見でしかないのですが、
発症するかどうかに関わらず、強迫観念や強迫行為の根本にある思想は、もともとその人の人格や価値観に深く関わっているものではないか
だからこそ、私たちは強迫観念には抗っても、自分を否定する必要はないと思う
ということです。
強迫性障害 発症中の症状
私が強迫性障害を発症していた頃は同じ病気の人に会うこともなかったので、一人黙々と閉じた思考の中で悩み、落ち込み、自分に失望することを繰り返していたように思います。最後に残るのは決まって、途方もない疲労感でした。記憶している範囲で発症していた時の自分の症状を記載してみると、このような感じです。
ガスの元栓の確認
私は一人暮らしだったので、自分の見落としによって家が火事になってしまうのではないかという不安が強くありました。最初はコンロの確認にとどまっていたものが、だんだん症状が悪化するにつれ元栓も確認範囲に含まれるようになりました。今でも思い出すだけで少し胸が詰まる思いなのですが、サンリオの可愛い大きなシールを元栓に貼って分かりやすくして、辛い気持ちに負けずになんとか乗り切ろうとしていましたね。旅行なんて行く日には、玄関から一歩出た時点で既にヘトヘトに疲れ切っていました。同じことで苦しんでいる人には分かるかもしれませんが、旅行に行くということは持ち物を含めチェックリストの数が膨大に膨れ上がることを意味していて、結果的に旅行自体よりも負荷の高い作業が出発前に課される、という仕組みです(涙)
私の場合、症状の悪化は概ねガスの元栓の確認に費やす時間が増える形で表れていました。前日より時間がかかると落ち込む一方で、「今日は昨日より短く済ませよう」と頑張ると悪循環に陥るんですよね。
ここからは強迫行為をしたことのある人しか分からない内容かもしれないのですが、毎日出勤前に確認する際、最初はいたって普通の確認行為でしかなく思考も落ち着いた状態だったはずなのに、強迫行為に入ってしまうと脳のとある部分だけが過度に刺激されていく感覚がありました。そして何回も確認してしまう中で、結果がONなのかOFFなのかもわからなくなっていきます。いえ、正確に表現すると、視覚では識別できているんですよね。。だって元栓を見た瞬間はちゃんと"OFF"の判断が自分でついているので。だけど、そのあとの認識処理がどうしても進めませんでした。そして、立ち去ることができなかったんです。
例えばコンロの確認に1時間以上かかっていた場合、この病気のことを何も知らない人からすると「確認に1時間以上もかかるなんて、どんな確認の仕方をしているのかな?」と疑問に思う人がいるかもしれないのですが、誰しも「確認する手順を踏んでいたら気づけば1時間以上かかっていた」というわけではないと思います。確認自体はほんの一瞬で終わるので・・だけど、その自分の判断をどうしても信じることができない。信じることが怖い。だから何度も見てしまう。そんな状態ではないでしょうか。この時、私は自分が蟻地獄にいるように感じていました。
不潔恐怖
これも結構強かったです。私は日単位で気になることが変わることもありました。昨日は外出先で衣服についた(ような気がするけど目には見えない)汚れのことがずっと頭から離れなかったけど、今日は今日で外出した際に手が変なところに触れてしまったことがなんとなくずっと気になっている、など・・一貫性がないものも多かったと思います。
しかしながら、私が絶対に気にしてしまうものも大体決まっていて、それは”外から入ってくるもの”でした。外出先から戻ったらすぐ服を脱いでいましたし、服は家用と外出用に完全に分けていました。かばんも床には置きたくなかったです。また、現金や財布など、いろんな人の手に渡ってきたものが私は何より一番苦手で、触ったらすぐ手を石鹸で洗っていました。
本が読めない
いえ、正確には本は読めます!読めるんだけど、細かいことが気になりすぎて・・というより脳内のノイズが半端なくて同じ行を何度も読んでしまい、気づけば全然進んでない・・ということはままありました。
寛解しても残っている私の癖
寛解後、私はガスコンロの確認を1回でできるようになりました。まれに何回か確認してしまうことはあっても、"終われない"状態に陥ることはなくなっています。また、本も読めるようになりました。
しかしながら、今でも私には神経質な部分が残っています。
それは、不潔恐怖です。
例えば、先日電車の駅で立っていたところ、私の前にいた若い女性が櫛を床に落としたのですが、彼女はそれを拾い上げて、何事もなかったかのように再び髪をとかしはじめました。私が彼女なら、今でもそのまま再び使うことはできないと思います。また、エスカレーターに乗ったら必ずといっていいほどスカートの裾や袖がエスカレーターに接触してしまうものですが、それも私は気になるので、少し中央側に離れるか、もしくは広がらないよう手で抑えて乗ります。家にいても、財布や現金を触ったら必ず手を洗います。
・・こんな具合に、神経質な部分は今も変わらず残っているんですよね。
にも関わらず、私は自分のこのような癖自体を変えるということは、これまであまり考えてきませんでした。
強迫観念を否定しても、自分のことは肯定していいと思う
例えば不潔恐怖は多くの人が持っている感覚だと思うのですが、何を「不潔」とするか、その基準にはその人の価値観や生き方が顕著に現れるように私は思うんです。目に見える汚れが気になるのか、見えない汚れが気になるのか。どんなことを不安に思い、どんなことに恐怖を感じるのか。その根底には、その人の強い願いや固い決意のようなものがあったりするのではないかと思います。
例として病気の感染を恐れる場合は、それだけその人は健康に生き続けたいと強く願っているのだと思いますし、「今後何一つ失いたくない」と願うほど、今現在満ち足りた感覚があるのかもしれません。それって、とても素晴らしいことのようにも私には思えます。
私はと言えば、人間も人付き合いもあまり好きではなく、浮き世のことは子供だましだと思っているクチで「下界は穢れている」という思想を根本的に持っています(この人どの立場で言ってるんだろ?と思われるかもしれませんが、自分のことを神だと思っているとかそういうのではないです。私は日常的に自分の家を”地上の天国”だと思っているので、自分の家の外は全部下界になるという意味です(頭がおかしくてスミマセン・・))。だから、上述したように外出した後の衣服や靴、カバン、自分の体、現金も全て、意識の上では不潔なものに分類されるんです。おそらく私は、目に見える汚れより見えない汚れが気になるタイプなのでしょう。そういうわけで、今でも私自身は帰宅すると比較的早めに着替えていますし、パジャマで現金はあんまりさわりたくないと思ってしまいます(やむを得ず触ることもありますが)。
しかしながら、その感覚はただの思想でしかないので、それ自体は悪ではないと私は思うんです。変えるべきものだとも、克服したり乗り越える対象だともあまり思ったことはないです。私が自然にそう信じて疑わない理由は、自分が労働環境の中で学んだことにあるのですが(別の話に発展しそうなので詳しい説明は控えます)、端的に表現するならば、あなたも私も意味無く今の人間性や価値観・思想を持っているわけではなく、これまでの経験による学習と個体生存上の理由から、現在の私たちである必要があったということです。だから、これまで長い時間をかけてチューニングされてきた自分の人格や価値観・思想までもを、強迫行為や強迫観念を克服したい一心で否定する必要はないと思います。過去には、今のあなたや私でいたからこそ獲得できたことも多々あるはずだからです。発症している最中にはこの恩恵が見えずらくなり、ひたすら自分を否定したくなってしまいますが、そんな時こそ自分のことは肯定してもいいんじゃないかな、と私は思います。
以上です。
苦しみを感じながらもこの病気と向き合っている方々の気持ちを知って勝手に心が痛くなり、思いのままに、誰に対して書くでもなくここまで突き進んできてしまいましたが、もしこの記事がどなたかの役に立てば嬉しいです。