”学び”の形
最近とある教授の授業を受けていて、反面教師的に気付いた事がある。
うちの学部の授業は、研究という観点からはあまり参考にならない!
ということ。
もちろん看板授業とも呼ばれ、人文系故にユニークで、”え、大学の授業としてそんなことやっちゃうん?”って思わせるようなテーマの授業も多い。
(山P大好きな教授が、月9を材料に胸キュンについて考察するやつとか)
教科横断型であり、学びの対象も、例えば日本文化について学ぶとしても東アジアという大枠から日本をみるような事が日常的で、いろんな分野にまたがって”実は私が言ったことって他の〇〇の分野にもつながってくるんだよ”っていう風に話が膨らんで展開されていくことも多い。
聞く分にはとても面白いし、教養の知識を身につけたり日常のどんなことも研究対象になり得る「知の創造」の楽しさを知れるので、高校までの教科に縛られた学習をしてきた大学1, 2年生にはいい刺激になる。
実際に私自身、高校生の時に大学や学部を選ぶ基準にしていたのは、基礎的な教養を学べたり、大学入学前と後で学びたい事が変わった時に問題なくどちらも学べる環境。言ってしまえば「学部名≠研究内容」だったから、この学部の授業はどれも楽しくて「勉強(学び)」を人生で初めて好きになれた。
けど大学生活を折り返すようなタイミングで唐突に物足りなさが出てくる。
15回全部に異なるテーマが設定されている講義を消費し、期末レポートでは(授業に関連させて)自分の好きなようにテーマを設定して論じる。
私はずっと自分の中に”宗教”という核となるテーマを持っているから、どんな内容の講義の期末レポートであっても、できるだけ私の研究や興味に活かせそうな内容で論じる事が多い。
それをしないと多分、”あれ、この授業15回通して私何を学んだっけ?”
”なんでこの授業取ったんだっけ?”ってなりそうだから。
でもそんな風に一生懸命思考して書いては削って整理して、そのとき作れる最高のものを提出してもフィードバックがあることは滅多にない。
ただ学期が終わったあとの成績として評価がなんとなく見えるだけ。
そんな授業を3〜4年間取り続けてきて、唐突に聞かれる卒論のテーマ。
たとえ、私みたいにある程度の分野や研究領域が定まっていたとしても、
落とされる爆弾、
君のテーマ面白そうだけど、大きいよね。
いろんな分野が密接に関わり合ってることに気付いているからこそ、
いろんな要素を述べたくなってつらつらと全部取り入れてみる。
そうして出来上がるのが、
"私が普段受けている学部の授業のような論文"
”いろいろ述べてるけど、つまり、あなたは何が言いたいの?
何にフォーカスしてるの?”
が分からない論文。
これは本当に今でも苦しんでる。
最近になってようやく
”ちゃんとした思考とか分析、論理の展開ができるようになってきた”
と自負できるようになったけど、
私はもう大学4年生。
今まで教科書に沿って大学受験に必要な知識を受動的に取り込んできた。
そんな私が大学に入っていきなり、あまりにも今までと種類の違う
”あなたが考えたこと”
を求められた。
誰も書き方を教えてくれないレポートの提出を求められた。
あるところで妥協して適当に書いても卒業はできるのかもしれない。
でもその体制が変わらないから”大学生は人生の夏休み”とか言われる。
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最近まで見ていたお隣の国の受験戦争事情を描いたドラマがある。
(スカイキャッスル〜上流階級の妻たち〜)
良い大学(医学部)に合格するためだけに
どれだけのお金と時間を費やして、
心と体を半分壊して、
家庭崩壊も免れないで、
でもそれでも
”良い大学に行けば明るい未来が待ってる”
”行けなければ人間として扱われない”(←実際に学校の担任がそう言う)
という周りの大人の言葉を信じて子どもたちは「勉強」をする。
どれくらいこの描写を真実に近いものとして信じていいのか分からない。
けど、私たちには関係ない隣国の話として傍観してられるようなテーマじゃないと思う。
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大学に入る前から
「学ぶこと」の楽しさを知っていれば、
思考の方法を知っていれば、
もう少し私の大学生活は違ったものになっていたのかもと思わずにはいられない。
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