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『春霞』 part.3

フィクションです。

『春霞』、『春霞』part.2の続編となっております。



キッチンタイマーが90分にセットされた。
「さて。90分ほど時間がありますが。何をしましょうか。」
時を刻み始めたそのタイマーはこの木の香り漂うダイニングに、唯一そぐわないのデジタルなものと言っても過言ではなかった。
「90分後に何かあるのですか?」
私は単純に気になったことを聞いた。
「90分後には健介をこちらの世界に引き戻しに行かないと。」
その柔らかな雰囲気とはかけ離れた物騒な言葉を発した拓哉さんは、席について、また健介さんのことについて少し聞かせてくれた。
「僕は、健介がいないと生きていられないと言いましたが、健介もまた同様で。
彼もまた僕がいないと生きていくことができないのです。本当に大袈裟ではなく。
彼は今、このダイニングを出て自室に仕事にいきました。きっと集中して仕事をしていることでしょう。僕が、集中しているから声をかけては悪いなと思って健介をそっとしておくとする。そうすると、いつ彼は戻ってくると思います?
僕は、彼がこの先自室から出てくることはないと思います。
...少し極端な話でしたが、嘘はついていなくって。健介は集中が過ぎるんです。それは、自分の状態が把握できないほど目の前の仕事に集中してしまう。もちろん、時間を見る余裕やスケジュールを確認する余裕なんてものはない。自分が、何も口にせず、体力だけが奪われていっていることに気づかずに、下手をすればそのまま...。だから、90分と決めて、その時間が過ぎれば僕がこちらの世界に健介を引き戻してやるのです。少々罪悪感はありますがね、毎回。本当は、戻ってこない方が幸せなんじゃないかって考えたりもしますけれど...。」
そこまで話した拓哉さんは瞬きを数回して、コーヒーを口にした。彼の周りには、また薄っすらと霧がかかって見えた。


「まあ、90分後に別の仕事があるので、それのためとも言えますが。」
その整った顔に柔らかい笑みを浮かべた拓哉さんは、窓の方を一瞥した。窓の外にはウッドデッキの外側に数本の木と様々な草本が見えたのみで、その周りは濃い霧で覆われていて何も見えなかった。それは、この場所がまるで外界から隔離されている孤島であるかのような心地さえした。


その後の90分はあっという間であった。彼とたわいのない会話をして過ごす時間には、ここに来るまで味わうことのできなかった時間の焦燥感があった。確かに時が動いた感触があったのだ。
ピピ...ピピ...
「鳴りましたね。ではそろそろ行きますか。」
彼はタイマーを止め、廊下側のドアに向かった。ドアノブに手をかけ、足を止めた彼はおずおずと私の方を向いて、こう続けた。
「ご一緒にどうです?彼の現実を一緒に受け止めていただけませんか。」
「ええ。では。ご一緒させてください。」
私は、拓哉さんの独特の言い回しに一抹の不安を覚えながら、その穏やかな目に導かれるように彼について、健介さんの自室に入ることになった。


トントン
二回のノックの後開いた扉の先には一面の青が広がっていた。彼に続いて、恐る恐る中へ入ると、さらに広大な青が眼前に広がった。青色光と白色光の中間のような穏やかな照明で統一されたその部屋の壁は白で統一されており、向かって正面の壁は天井から床までモニターで覆われており、全ての画面で別々の計算が行われているようであった。部屋の所々には観葉植物が並んでおり、たくさんの機械が並んでいても部屋全体の調和が取れているらしいのは、そのためなのだろうか。外からの光は一切ないが、観葉植物が生きていられるということは、十分な光量は確保できているのであろう。その中心に、二脚の真っ白な椅子が置かれていた。そのうちの一脚に座って作業をする健介さんの後ろ姿が見えた。その後ろ姿から何かを窺い知ることは叶わなかった。


拓哉さんは、健介さんの横までいき、肩を叩きながら名前を呼んだ。
「健介。そろそろ行こうか、時間だから。」
健介さんに反応はなかった。これほどの距離で自分の名前を呼ばれて反応しない方が難しいだろう。どれほどの集中を続けていたのだろうか。
反応がないことを悟った拓哉さんは、健介さんの座っている横の椅子に座り、キーボードに手をかけた。
「少し時間がかかるかもしれませんが、少々お待ちください。」
私にそう告げた拓哉さんは、目にも止まらぬ速さで文字を打ち込み、前面の画面の中央に出力した。何かしらのファイルデータのようだったが、健介さんは気づかずにそのデータをものの数秒で排斥した。


「チープだけど、あれウイルスでしょ...そんな簡単に処理できるものじゃないはず...」
盛大に独り言が漏れるほどには、私は驚いていた。
そうした間にも拓哉さんは次の手を打っており、今度は、そのウイルスを画面上で勝手に起動させてしまった。画面はみるみるうちに暗黒に染まり、全ての挙動が停止したかのように見えた。
すると、健介さんはやっと拓哉さんの存在に気づいたのか椅子ごと拓哉さんの方に向き直って、じっと見つめていた。その瞳は、全ての光を吸い込む暗黒のようで、怒りとも憎しみとも取れる莫大なエネルギーを持ったブラックホールのような瞳であった。対照的に気づいてもらえたことに安心を覚えたのか、拓哉さんの瞳はひどく穏やかなものだった。
「そんなに握ったら痛いでしょ?僕の腕噛んでいいから。」
健介さんの拳は強く握られていて爪が食い込んでいた。その手を取り、開かせると、健介さんは行き場のなくなったエネルギーを吐き出すかのように声にならない声を発しながら拓哉さんの腕を噛んだ。私の視界は時間が経つにつれ、だんだんと濃い霧で覆われていった。


つづく。



※フィクションです。



では、また次の機会に。

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