ドライブ・マイ・カーの感想〜他者への没入〜
映画ドライブ・マイ・カーを観た。
この作品は村上春樹の短編小説を題材としているのだが、映画では約3時間の作品となっている。
短編小説を単純に映像作品にするのであれば、素人考えでは90分でも十分に思えるのだが、なぜそれが一般的な作品よりも長いであろう3時間の作品となったのか。この作品の脚本や演出に含まれる意図はなんなのか。そんなことをぼーっと考えていて、1つのワードが思い浮かんだ。
この作品に込められたテーマは、「他者への没入」なのではないか。
主人公の家福とその妻である音(オト)は、セックスの最中に思い浮かんだ言葉を紙に書き下ろしながら脚本を書く習慣を持っている。セックスとはある種の「他者への没入」であり、自分の快感よりも相手の快感に神経を研ぎ澄まし、相互に身を委ね、自分と相手が一体となる感覚に没入する行為であると言える。その行為の中で紡ぎ出された言葉には象徴的な意味合いが含まれる。
また、舞台の本読みのシーンでは、台本を気持ちを込めて読み上げる演者に対し、家福はこう指摘する。自分の気持ちは込めず、ただ読み上げればよい。理解しようとしなくてよい。台本に向き合えば台本が応えてくれる、と。その指摘に対し、一切気持ちを込めずに淡々と読み上げるだけの作業に違和感を覚える演者たちだが、次第にその台本に引き込まれていく。
ここでも「他者への没入」が背景にあるように思う。なぜなら台本を気持ちを込めて読み上げるというとき、「どんな気持ちを込めて演技するか」は自分の主観的な判断であり、その台本が本来求めるものとは異っている可能性が多分にあるからだ。なので家福は、自分の主観を一切込めることなく何度も淡々と読み上げることで「台本(を書いた作家)」が伝えたいことが読み手の中に"入ってくる"仕掛けを施したのではないか。
他にもいくつかそうした示唆が含まれるシーンがある。
家福の嫁である音(オト)は、夫である家福の不在中に男を連れ込み不倫をしていた。家福はある時現場を目撃してしまうが、ばれないようにそっと去り、それを音に伝えないまま日常を過ごしていた。なぜなら家福は、嫁の中にある闇、自分の知らない領域を覗き込むことを恐れていたからだ。それに対し家福の運転手であるみさきは、「そうした闇も含めてすべてが音」なのではないかと家福に伝える。これは相手をあるがまま受け入れるということである。
家福が演出する演劇は、多様な国籍の演者からなり、それぞれが自分の母語で台詞を話す。中には手話の人もいる。そうすると、相手が何を言っているか分からない。(観客には、スクリーンに字幕がついて会話の内容が分かる)。そうすると演者は、相手が発する「言葉」ではなく、相手の表情や声色などから「いまどこの台詞を伝えようとしているのか」を読み取る必要があり、言葉でのやりとり以上に相手に全身で意識を向けて演目を続ける。
演者の一人である高槻は、演技に定評があるものの、衝動性がありそれが度々問題を起こしてしまう。
こうした一つ一つの脚本や演出の中に、僕は一貫として「他者への没入」がテーマとなっているように思った。あるがままの相手を見る。言葉づらから推測する自分の解釈ではなく、相手に中に身を任せ一体となる。
社会学者の宮台真司が語っていた「クズな男の見分け方」を思い出す。彼いわく、女性がクズな男を見分けるためには、男に対して「浮気をした」と伝えるのが良いらしい。その告白に対し怒りを露わにし女性を責めるのが、クズな男のサインだそうだ。なぜなら彼女の浮気を真っ先に攻める男は「自分が浮気された」ことに怒りを示しているのであり、その主語は「自分」である。そこでは相手の気持ちを一切考えていない。一方でクズでない男は、まずは相手がなぜ浮気をしたのか、相手を理解しようと対話をする。
この主張を踏まえると、ドライブ・マイ・カーの家福は、妻の浮気現場を目撃したものの、一切責めることはなく日常を過ごそうとした。その点で彼はクズではないのであろうが、一方で彼は、彼女がなぜ浮気をしたのか、相手を対話しようとしなかった。作品の中でみさきは家福にこう言う。「彼女はあなたに聞いてほしかったのかもしれない」。音は、もっと家福に自分のことを知ってほしかったのかもしれない。