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③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(3)
🔸木剣に何故、曼荼羅御本尊やお題目を書写するのか?
ご本尊およびお題目を認めることは、その実を顕せんがためのもの、言い換えれば霊験を顕すという事である。我々は凡夫でもあるゆえ見たものに心が捉われてしまいがちになりやすい。例え木剣にご本尊やお題目を書写した事に対する意識が薄く、「自分、または他人が書いた」と言う意識に捉われ、その木剣が単に物としか見えてこないのでは駄目なのだ。大聖人が仰せの法華経お題目の観心の意識が大事であり、
法華三部経の結経である
『佛説観普賢菩薩行法経』にも説かれているように、
大乗に因るが故に大士を見ることを得、大士の力に因るが故に諸佛を見たてまつることを得たり。諸佛を見たてまつると雖も、猶お未だ了了ならず。目を閉ずれば則ち見、目を開けば則ち失う。
と言う法理が説かれているとおり、本来、我らが己心にご本尊、諸佛諸菩薩諸天のお姿やお題目のお力を観ずることができるにも関わらず、肉眼を開いてしまうと見えず、観じないという事が起きてしまう。
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御祈祷を受けに来られたお方が、眼を開いて読経をしている修法師の姿を見て、そこに僧侶の法衣姿があっても「同じ人間としか見えてこない」はずである。当然の事であるが、しかしご本尊やお題目を持して加持を与えてくれているともあれば、修法師の姿は佛使として観じ頂きやすいという実がそこに生じるのである。木剣/ご本尊を感じて頂く。
たとえば、人間の行動の中に、何かの功徳の力にあやかろうと、パワースポット(これを功徳衆の砌という。日蓮大聖人も身延山を同じ様に言われた。)と呼ばれるような所に何かしらの良い云われのものがあれば、それに触れたくもなる心理が起きるのと同じく、修法師と呼ばれる僧侶が持つ、撰経という百日の荒行中に書写してきた法華経を、体に当てて頂くという事もありがたいものと感じていただけるものであると思う。そう言った場には、僧俗互いに尊い心で法華経の信行を修する訳であるからまさに法座であり、その法座は法華経とお題目に依って行われるから尊く意義のあるものになるのだ。
これら法華木剣修法に限らず、仏教の信仰には、すべて「信じる」という心を強く持つことが大事であり、この事は、法華経で釈尊が「この教えを信じなさい」という事を多く語っている。
ただし欲に駆られた念を抱くことではなく、純粋に「信じる」という清浄な心を持つ事が大事である。
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木剣数珠を「ワラジ」と称する者がいるが、ワラジ(草鞋)とは履き物であり、プロの意識としても法具の名、通称としても用いるべきではない。木剣にはご本仏様、諸天善神様の名を書き、組み合わせて用いるため失礼なことであり冒涜となるので気をつけられたい。
木剣修法の際に、撰経と呼ばれるお経を納めた筒を首からさげ、そのお経筒を念押して人々に与えると言う所作がある。これは木剣修法の功徳を人々に御本仏様がお与えになるという場面である。修法の極意としては、「自分」が行っていないという意識を持つ事が、霊験を顕すために重要な事である。このことについても、第④章で解説するが、ここではさらりと触れるだけにする。
よって木剣修法で一番大事な次第は、この「撰経頂戴の儀」の場所が要であると言える。
ここでしっかりと御祈祷を受けられる人が、信心を強くして功徳を受け取れるか、どうなるかというところでもある。
大概の人は、木剣で九字を切っている所作を大事と思い込んでしまう人も多いかもしれない。しかしそうではない。木剣にご本尊やお題目を認め、九字を切り浄めて、そして最大の要として、撰経、法華経の功徳をご本仏様がお与えくださる瞬間である事を知っておいてもらいたい。久遠御本仏教主釈尊の大慈悲をお与えくださる瞬間なのだ。
この所作の時に暗唱しているお経文に、
法華金口の妙説に於いて信心をいたさば、現当二世の所願必ず決定円満すること得せしむべきなり。我、不信をもって金言を疑わざれ、もしそれ信心強盛にして深重ならば、息災延命決定得楽ならん。
とある。信心とはその人の真っ直ぐな純粋無垢な心であり、故に何かの疑いを持つ眼ではなく、直感的にその人が感じる六感(六入)を刺激する。
末那識(七織)、阿頼耶識(八織)、阿摩羅識(九識)への意識作用へと働きかけるものである。唯識論に関する分野の実践でもあるが、識とは、心、意識、生命力に作用する精神作用を言うが、この作用を発動するのに必要なことは、理屈や考えに捉われる理解、理念で見る認識ではなく、直感的な観法によって感じる心識が、とても重要となる為、蘊蓄を意識しすぎると考える事で認識しようとする意識が強くなり見る人の心の持ち方が、信心で観る観法ではなくなってしまうのだ。
そしてこれらの識を深めた先に、神秘とも言える感応領域の識に至り顕が示される。
だが皮肉にも、釈尊と阿難尊者の前世で、空王如来の元で兄弟弟子として修行をしていた時、阿難尊者は教えを記憶しよと智行を行っていたが、釈尊は実践を重んじていた。その結果、釈尊は阿難尊者よりも先に、さとりを開いて今生で仏になれたと『妙法蓮華経授学無学人記品第九』で説かれている。これと同じことで識の神秘領域に至るには、智とか思考が邪魔をする。かえって何も知らない方が体得、顕を示すのが早い。提婆品に説かれる八歳の龍女の成仏を現した事も同じなのだ。
日蓮大聖人も、『祈祷鈔』の中で、
大地はささばはづるるとも、虚空をつなぐ者はありとも、潮のみちひぬ事はありとも、日は西より出るとも、法華経の行者の祈のかなはぬ事はあるべからず。法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等、二聖・二天・十羅刹等、千に一も来てまほり給はぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなづり奉り、下は九界をたぼらかす失あり。行者は必ず不実なりとも智慧はをろかなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備へずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給べし
【現代語訳】
たとえば大地を指してはずれることがあっても、虚空をつないで結ぶことができたとしても、大海の潮が満ちたり干き潮にならぬことがあったとしても、また日が逆に西から昇るようなことがあったとしても、法華経の行者の祈りが叶わぬということはありえないことである。万一法華経の行者をもろもろの菩薩や人天・八部等、二聖・二天・十羅刹女等が、千のうち一つでも守らないことがあったならば、上は釈迦諸仏を始めとして、下は九界をだました罪を犯すことになる。法華経の行者はたとえ不実であったとしても、智慧はおろかであっても、また不浄の身であったとしても、さらに戒徳は備えていないにしても、南無妙法蓮華経と唱えたならば、必ず守護し給うべきである。
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かくして純粋に「信じる」と言う心の力と働きが重要な事なのだが、よって、何も考えない、何の疑問も持たないで修法師の祈祷を受ける事が大事な心構えであり、修法の中には、憑依とか因縁の強い者を祈祷する際に、その受ける者に修行をさせてから行うという事が普通であった。
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木剣にご本尊やお題目を認めた法具を、修法師が持して祈祷を行う事は、祈祷を受ける人の目にそれが入り、ご本尊という神秘に包まれた大いなる力に接し、観る無意識にでも感じることでその者の識を刺激し、作用が発動しやすいと言う理由があるのである。
よって木剣にご本尊やお題目、諸天善神の名を認める必要があり、それは正当な事なのだ。
これらのことは、信心確かな修法師であればこそ、誰もが心得ていることであり、たとえ修法歴が少ないものと言えど、必ず修法体験からこれらが実践の中で体得しわかるようになる。何も荒行を何百日もせずとも、修法経験を積み重ねればわかるはずなのだが、不思議にも何百日も荒行を経験したはずの者がわからない事であるとすれば、それは確かな信心であると言えるのであろうか。意しなければならない事である。
合掌礼拝
次回、③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(4)
🔸木剣の利剣発動のための行法とは?
法華経の精神から生まれた物を良いとされた日蓮大聖人のご見解とは?
これまでの記事
①【日蓮宗のご祈祷の事】
🔸日蓮宗法華の修法意義とその起因
②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(1)
🔸日蓮宗の木剣加持修法の正当性
②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(2)
🔸 日蓮宗で広く使われているお札の形は木剣と同じ由来がある。
②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(3)
🔸 日蓮大聖人の祈り。仏教で行う祈りは、仏法の道理でもある。
②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(4)
🔸 普段から数珠を用いてご本尊、仏、法、僧の三宝の印相を僧侶に関わらなく檀信徒も示している。
②【日蓮宗の木剣加持修法は真言亡国に非ずの事】(5)
🔸木剣修法の九字について
③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(1)
🔸木剣とは何か?
③【法華祈祷の木剣は此れ邪剣に非ずの事】(2)
🔸 元品の無明を切る大利剣