④【木剣修法で音を出すは、ご本尊とお題目を叩くことに非ずの事】(2)
🔸 木剣修法を行う際の境地について
木剣加持修法は謗法などにはならない理由。
修法師は、この木剣加持修法を行うとき、いかなる時でも久遠御本佛の一切衆生済度(成仏させて救済する)の大慈大悲の御心を精神に抱いて雑念余事を心に抱かず加持を修することを厳しく持戒せねばならない。(常日頃からも大慈大悲の人となる事に努力せねばならない限り、仏使としての勅命を受けた器(法器)に非らず、修法を成就させる修法師にはなれぬであろう。大慈大悲を人格として受け持ち出行してからの日々の過ごし方、生きざまに顕れ求道を常とすることが肝要である。
この精神を以って一切を修するにあたっては、我々は法華経に説かれたる如来使なるが故に、「如来に使はれて如来の事を行ず。」観心本尊に説かれた日蓮大聖人の法理から観ても、我らのなす祈祷、修法は本化の大法である。心すべきでことであり、本尊及び題目書写の木剣を扱うは、これ法体にして自己身に非らざれば、木剣数珠から響き出る音は、ご本尊の諸佛諸菩薩諸天善神がこの音響を出してくださっているのである。
荒行堂での修行には古来より次の精神理念を重んじて修行を行ってきた。
我々修法師は、この法体を得るべく心して百ヶ日間を過ごさなければならないはずであり、その為の行中があると言っても過言ではない。
この【法体】とは何か?少し難しい分野の専門的になるが、木剣加持修法という理念は、そう簡単なことではないので、少しだけ書く。しかし断っておくが、祈祷というのは、理に凝り固まることは良いことではない。その理由は、顕が現れることに大切なことは、「信」であるからである。
法とは、法そのものを言い、有為、無為のすべての存在を「法=dharma」と呼ぶが、諸法(万物)の実質を「法体」と呼ぶ。つまり一切万有の本体、実体のことである。
(以下、専門的で長いので、次の実線🟢ーから読んでいただいて構いません。)
小乗有部派に「三世実有法体恒有」がある。
これは有為無為諸法の本体が過去・現在・未来にわたり法体は実有(実在している)であることを言う説である『倶舎論』に対して、大乗仏教では「法体恒有」の説を「空」として否定する。
空とは「実体がない」ということであるが、何もかも存在しないという「虚無論」のことではなく「すべてのものに実体がない」ということをいう。
これは龍樹がこの空思想を立て、法体を無自性(すべてが相対的な存在であり不変不動としての実体はなく、「縁起せるが故に空である」「縁起せるが故に無自性」であり「空」は無に等しいのではなく、すべての事物が無自性にして縁起する)とした。
つまり存在の在り方をもろもろの縁起によって解明したのだが、この龍樹の思想から、「諸法は実相なり」と見極めたのが、天台智者大師智顗であったということは周知の通りである。
鳩摩羅什訳の妙法蓮華経には序品で「諸法実相の義は、已に汝等のために説けり」と説かれている。梵文にはdharma-svabhāva(法の本質)と言う意味で、鳩摩羅什は、この言葉を「諸法実相」と訳して、「唯、仏と仏とのみ、いまし能く諸法の実相を究尽したまへり」と意味深な言葉で仏、如来の智慧の理解し難いものであることを示し、十如是(羅什独特の達意訳)へと展開する。
鳩摩羅什三蔵は「真如」「法性」「中道」「涅槃」などの義を「実相」と訳したが、ここに鳩摩羅什三蔵の法華思想が構築され、この方便品で説かれた真理をもとに天台法華思想が樹立した。天台大師智顗は諸法の体を実相と観ている。
そして即空、即仮、即中の円融三諦の原理をもって実相を解釈し、すべて相対差別の事象が、そのまま絶対無差別の真理にほかならないという「中道無性」、「円融具足」の教学を展開した。
よって天台の真理の実体(法体)は円融実相にあり、具体的な在り方を「一念三千」で説明されるのである。
日蓮大聖人は佐渡流罪以降に天台、妙楽の法体を「理」と捉え、自らの宗教、法の当体を「事」であると見出された。日蓮大聖人「事の一念三千」の法門である。
日蓮大聖人は、『観心本尊抄』に、妙法五字を受持することの事具の一念三千を説き
🟢つまり、日蓮大聖人の法門では、仏と我々は法華経の題目を唱えることで、釈尊の功徳をそのまま頂ける身であり、その境地は本仏と一体であることを説かれている。❶
そして我々は、すでに久遠本仏によって教化された地涌千界の菩薩なのである。❷
さらに教化を受ける我々は、浄土を顕わして下さる久遠常住の本仏と同体でなのである。❸
以上、今一度、念を押して記すが、観心本尊の故に我らのなす祈祷、修法は本化の大法なりと心すべきであって、本尊及び題目書写の木剣を扱うことは、これ【法体】にして自己身に非らざれば、この修法を行っているのは、久遠本仏の眷属、 地涌千界の菩薩であり、また久遠本仏と同体であるゆえは、久遠本仏の大慈悲心によって、そのご顕現をいただき修法を行っていただいているのである。であるから我々自我に捉われた個人が行っていると思ってはいけない。
どんなに顕を示していただいても、自惚れたり、慢を張ってもいけない。修法を自慢したり、自身を誇らしく思ってもいけない。また檀信徒に対して「祈祷をやってやった」などと言うの事を思うことさえ間違った事であり、傲慢の何ものでも無いので慎まなければならない。
心に思うことはただ一つ、報恩感謝のみで常に自らの懺悔を忘れないように精進あるのみである。心して常日頃からの自戒と精進することの姿勢と心構えを忘れてはならないのである。
そしてこれらの全てがあって、木剣数珠から響き出る音は、ご本尊の諸佛諸菩薩諸天善神がこの法音、音響を出してくださっている事を意識して気づくべきである。
言わば、木剣、ご本尊を我々の自己身が叩いているなどと言うことにはならないのである。ご本仏様が御自ら行ってくださっていることを修法師自らもありがたく心得るべきであり、最大厳粛にて行わなければならない。この真理から、謗法などと言われる理屈すらすでになく、神聖な本化の木剣修法を誹謗をするは、最大の謗法となることを弁え、口を慎むべきである。
しかし、法体でない者、法体を得るための修行を行っていないものが、木剣修法を行うと、謗法となることがあるので注意せねばならない。心して日々精進することを忘れるべきではない。
合掌礼拝
《これまでの投稿記事》
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④【木剣修法で音を出すは、ご本尊とお題目を叩くことに非ずの事】(1)
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