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親しい器
2年ほど前、器屋さんに行って毎日使うお茶碗を買った。
一目惚れとか見た目の良さではなくて、軽くて自分の手に馴染む、5割ぐらいの気に入り加減のものをあえて選んだ記憶がある。
毎日使い続けると、この派手すぎず質素すぎひん感じが自分にはぴったりあってるなと思う。
今ではしっかり自分のお茶碗になってきて愛着もある。
物とはこの感覚で接するのが今の俺には気持ちいい。
身の回りにある物に対してそんなことを感じながら過ごしてた最近。
読んだ本の中でこんな文章と出会った。
『美術は理想に迫れば迫るほど美しく、工藝は現実に交われば交わるほど美しい。美術は偉大であればあるほど、高く遠く仰ぐべきものであろう。近づきがたい尊厳がそこにあるではないか。人々はそれらのものを壁に掲げて高き位に置く。だが工藝の世界はそうではない。吾々に近づけば近づくほどその美は温かい。日々共に暮らす身であるから、離れがたいのが性情である。高く位するのではなく、近く親しむのである。かくて「親しさ」が工芸の美の心情である。』
この文章と出会ってそのお茶碗を使うたびに俺はお茶碗に対して親しさを感じるようになってたんやなと思った。
それから美術と工芸の対比で書かれたこの文章が、不思議と自分の経験してきた時間、心情、その時々で感じる違和感に対しても当てはまっていくような感じもした。
二十歳になる前、ヒッチハイクで日本縦断をしてた真新しいことが毎日起こる楽しい感情の反面に感じてた違和感。
上京してお笑い芸人を目指しながら過ごしてた日々。
ヒッチハイクという刺激的で毎日移動し続ける日々には常に真新しい楽しさはあったけど、このやり方で過ごし続ける先にそこで出逢う人、場所にしっかりと温かみを感じれる親しさは作れるんやろか。
上京して出会う新しい街、人。有名になりたいって理想で過ごす中で新しく出来上がって行く自分はほんまに充実のした人間なんやろか。
コロナをきっかけに立ち止まって考える時間を経て過ごす今。
器に対して感じる親しさからそんなことを考える。
新しく出会う場所や人からみて馴染みのない真新しい自分で接する時「はじめましての楽しさ」は確かにある。
楽しいと思ってもらえる自分でいるために日頃努めることも大切やと思う。
でもその努力だけじゃ「はじめましてのすぐになくなる楽しさ」しか感じることができひんなって思う時もある。
そうじゃなくて今は、はじめましてからほんまの意味で場所や人と近く親しく接することができるような自分でいられるように日々を過ごしていたい思う。
そのために
もっと自分に正直に
心地いいとか好きを感じれるように
自分にある五感を使って
自分に近づいていく事が大切やな。
そういう自分で過ごしていく先に、心地いいや好きを一緒に感じられる人や場所が待ってくれているような気がするから。
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