仁尾一成
おりがみをちぎって描いた絵から飛び出してくる物語を記しています。
朝は早起きして喫茶店に行く。 本を読む。本の中には音がいっぱい流れててそれを本音という。 そのあと今日は心斎橋をひたすら歩いた お腹が空いたからCoCo壱でパリパリチキンのほうれん草カレーを食べた。 食べ終わったあとまだ足りひんなってなったけど食べ終わってすぐに2杯目頼むのには引けたから店をでてまた心斎橋をひたすら歩いた。 街は寂しい。 街には本音が流れていない。 周りにはこれでもかと人がいるのに 街は寂しい。 歩き疲れたら本日二度目のCoCo壱にでもいこかな。 最高の休
一人になって自分と話すって楽しいこと。 自分の中の話し相手って今まで出会ってきた人とか本とか体験とかまだ自分にはわからん世界のこととか目に見えへんものごとがいっぱい混ざってて、そいつと話してると憂鬱にもなるし楽しくもなる。その先で現実で試したくなったりして文章を書いたり絵を描いたり。 なんか最近はちゃんと自分の中に泉みたいなんがあるような気がする。 自分の中の話し相手が面白い人であって欲しいと思うから、これからも色んな人と本と経験と出会いたい。
『大金持ちのカメラマン』 久しぶりに話題の映画を盗み撮りしようと映画館に現れた映画泥棒。 「あ!ママ見て!映画泥棒いるよ!」 チケット購入後すぐにスタッフに取り押さえられた。 有名になりすぎたのだ。 今まで大量の作品を盗み撮りしてはお金に変えていた映画泥棒はすぐに刑務所に放り込まれた。 映画泥棒は映画を見ることも大好きだったのだが、もちろん刑務所に映画はない。 その後刑務所内で唯一信頼できた看守と仲良くなり、映画泥棒は彼によく本を借りたり、買ってきてもらったりする
好きならずっとやれるなんて言うバカ経営者もいるがあれはバカなので信じちゃいかんのだよ。 お前らはもちろんカレー好きだと思うが、だからと言ってずっと食べ続けることはできやしないだろう。 適度な隙間は必要だし、どれだけ好きなことでもやり過ぎれば飽きるのだ。 飽きたらやめる。やめたらまたやりたくなるからやる。その繰り返しだ。 資本主義って言葉をまじめに考えたことがあるか? この主義のメインワードは資本だぞ、要するに元手だな。 元手のあるやつが、その元手を使って稼ぐと言う経済な
『不思議なF子』 何を言われても「ファンタスティック!」としか言葉を発しない女の子がいた。 社会からは人とまともに話すことができないと判断されているその女の子はあまり人とコミュニケーションを取らなくてもいい小さな町工場で働く事になった。 その工場で一緒に働いていたのは少し年上の男の人と女の人。 この2人はそれぞれに家底があるものの毎日顔を合わすうちに仲良くなり恋に落ちていた。 誰にも言えない秘密の関係。 「ファンタスティック!」何を聞いてもその言葉しか発しないF子にはど
『サラリーマン卒業に向け会社を飛び立とうと羽根を生やした男と金のスイムウェア』 サラリーマンの身分から自分で会社をし、自由になろうと羽根をつけて大空に飛び出したタケシ。 長年着古したスーツのポケットには大きな穴が開いてるためサラリーマン時代に毎月稼いだお金はサラサラと街中に降り注ぐ。 たまたま競馬場に来てたおっちゃんにタケシのお金が降り注いだ。 「にいちゃん!いっぱいお金降ってきてんで!ポケット穴空いとんちゃうか!ありがとうな!」 サラリーマン感覚のまま自分の力で稼
小さい時、嘘をつくとほっぺたを思いっきり捻りあげられた。 塵も積もれば山となるって諺どおりに考えたら今までついてきたちいさい嘘で天保山ぐらいは既に出来上がってるけど、自分の思う肝心な物事とか人との関係で嘘をつく事はしたくない。 嘘は軽快に無傷に起こった出来事を避けるような印象もあるけど、嘘は一回ついたらその次も嘘を重ねな辻褄が合わんかったりするからから結局嘘ってめんどくさいし重たい。 小さい時おかんに嘘をつくと捻りあげられてヒリヒリしてたほっぺたとの思い出が今、自分が無
今日の世界は男に対しても、女に対しても、1人になることの必要を認めないのである。 これを考えてみれば、不思議なことである。それ以上のどんなことも、これよりはいい口実に考えられていて、用事で人に会うとか、パーマネントを掛けに行くとか、お呼ばれとか、買い物とか言えば、相手は納得するが、もしその時間は自分が1人でいる事にしているからという理由で相手の申し出を断れば、そういう人間は礼儀を知らないか、我がままか、変わっているということになる。しかしそういうふうに、一人になることが何かい
基本的にものごとはアウトプット<インプット。 アウトプット>インプットにするのは増幅だから、つまりエネルギーが要る。 インプットがほとんど無いままアウトプットばかりしている人を見るたびにノーシグナルを無理に増幅しているのだなあと思う。 そのエネルギーは、どこから持ってきているのかとも思う。ノーシグナルをどれだけ増幅してもシグナルにはならない。 そこで増えるのはノイズだけだ。 ああ、だから。自分自身のものも含めて、やたらめったらに撒き散らされている大量のアウトプットをうるさく感
私たちは労働を短縮することによって、幸福を保障しようとすべきではなく、労働に意義を感ずるように事情を転ぜねばならぬ。 柳宗悦
ちゃんと演じられないのなら 舞台に立たないほうがいい 誰かが演じた役を 真似することしかできないのなら 演じることは辞めたほうがいい 自分を残したまま 自分ではない何者かになる それは努力と忍耐と才能 それは繰り返し考え続ける想像力 一つ一つの台詞には 心と体を誘う長い長い導線と 人と人との間に流れる感情が ちゃんと存在する理由として いっぱいに詰まっている それを読み解ける者だけが 自分ではない何者かになれるのだ 浅生 鴨
ふと家の本棚を眺めた。 色んなタイトルの本がある。 タイトル一つで自分の中にその本の温度感や雰囲気が伝わってくる。 今まで言葉を綴る。とか文章を編むって表現がしっくりくることがなかった。 でも、人に伝える時、言葉を形にする時。 今まで出会ってきたかっこいい先輩達はセーターを編むかのように言葉を選んで文章にしてくれてたなとふと思った。 文章を編む。 編み物って考えると 人に伝えるために形にするってことももちろん。 出来上がった文章がそのあとの自分の身をあたためることもある
浅生 鴨 まわりの人からすごいと思われたいとか、誰かをうならせたいとか、そういうことを考えてものをつくると、たぶんあまりうまくいかない。こうしたほうが、きっとみんなも喜ぶだろうし、僕もうれしいってことを丁寧にやる。たぶん、そのほうがいい。
2年ほど前、器屋さんに行って毎日使うお茶碗を買った。 一目惚れとか見た目の良さではなくて、軽くて自分の手に馴染む、5割ぐらいの気に入り加減のものをあえて選んだ記憶がある。 毎日使い続けると、この派手すぎず質素すぎひん感じが自分にはぴったりあってるなと思う。 今ではしっかり自分のお茶碗になってきて愛着もある。 物とはこの感覚で接するのが今の俺には気持ちいい。 身の回りにある物に対してそんなことを感じながら過ごしてた最近。 読んだ本の中でこんな文章と出会った。 『美術は理
柳 宗悦 美術は理想に迫れば迫るほど美しく、工藝は現実に交われば交わるほど美しい。美術は偉大であればあるほど、高く遠く仰ぐべきものであろう。近づきがたい尊厳がそこにあるではないか。人々はそれらのものを壁に掲げて高き位に置く。だが工藝の世界はそうではない。吾々に近づけば近づくほどその美は温かい。日々共に暮らす身であるから、離れがたいのが性情である。高く位するのではなく、近く親しむのである。かくて「親しさ」が工芸の美の心情である。
いつも行く喫茶店がある。 そこで出逢う人は俺にとって特別な人。 一年前くらいにめっちゃ男前のおじさんと毎朝顔を合わしてはおすすめの映画とか本を教えてもらってた時期があった。 でもその人は一年前にパッタリと喫茶店には来なくなった。 なんの報告もなかったのでただただ寂しいなと感じてた。 で、今日。気付いたら26歳になってる自分に今年の抱負としていいと思うBARに定期的に通い詰めてみる。ってルールを作ろうと思った。 通い詰めようと思ってたBARは前から通るたびにここの雰囲