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あくまで個人の感想です#5 ゴールデンカムイ実写化の衝撃

 鉄は熱いうちに打て、がさっぱり実行できないままに今日に至るが、映画「ゴールデンカムイ」である。

作品への愛情とだけでは言い切れない

 まずは大満足。細かいところを突けば、何かしらの気になる綻びはあるだろうけれど、まずはあのマンガを実写化したというそのこと自体を讃えたい気持ちだ。やや目線が高い言い方になるが、単純に心はスタオベである。
 マンガには「闇鍋ウェスタン」というなんともしっくりくるコピーがついているが、正に闇鍋、あれもこれも盛り込んだ特盛のマンガを実写化して、物足りなさを感じさせない映画に仕上げたのは素晴らしい。
 ヒットした、とか、文化的価値のある映画となった、とかではない成功を感じる。
 じゃあその成功って何さ、というところを私なりに言葉にしてみると、

「映画を撮る」ということの成功

 これである。
 昨今、映像作成というものはデジタルの進化により一気にカジュアルになったと感じる。
 スマホで簡単に撮影から編集、加工まで出来て、さらにSNSにアップまで。デジタルネイティブと呼ばれる世代はハサミのように自在に使いこなす。もちろんその動画たちはクオリティも何もかもがピンキリで、ただただ悪ふざけのようなものから、いっぱしのクリエイターかと思わされるのまで様々だ。

 画面の明暗からちょっとした特殊効果、編集もただのどうがの切り貼りだけではない。それが簡単に作れるし、何より機材だなんだと揃えずとも、スマホひとつで思っている何倍ものことが可能だ。
 20年も30年も前に、フィルムやデジタルになり始めたばかりのビデオカメラでショートフィルムを作っていた頃とは話が違う。最もカジュアルになったと感じるのはスタートの敷居の低さだ。作りたい、という気持ちから実現までのハードルの低さ、少なさが、自由にのびのびと動画を作ることにもつながっているだろうし、実際今の子どもたちにかかればPowerPointなんておもちゃのように使っているし撮影した動画や画像を切ったり貼ったりすることなんて、特別なことではないのだ。

映画って

 そして、映画である。
 プロのクリエイターたちがひとつの作品に取り組む中での技術も、10年もあれば嵐のように進化し、変化を続けているのだろう。画面の美しさはもちろん、加工と気づかせない丁寧な仕上がりの映像たちがスクリーンで躍りだす。
 もちろん時間も手間も予算もかけて作られた映像は素晴らしい。大きく評価されるに値するであろう。しかしその反面、映画は「映像技術だけではない」部分での評価や印象が、技術が進歩したからこそ、より大切になるのではなかろうか。

人気の原作マンガだからこそ

 そこにきて原作が、既に大きく評価されているような場合、ハードルはあがる。観客も、原作を愛するがこそ映像作品になった時の仕上がりに目が厳しくなる。
 私自身、もちろん原作を読破し、これが実写化されるにあたりいったいどうなるのかと気をもんだ一人だ。豪華な映像に特殊効果、華やかな俳優陣を揃えていたら大丈夫、ではない。むしろそのほうが残念だった場合の落胆は大きい。
 今回の「ゴールデンカムイ」実写映画化は、これらの要件を押さえつつ、且つ原作ファンをも満足、少なくとも落胆はさせなかったと言えるのではないか。これは大成功である。

原作は越えられない、だから

 漫画でも小説でも、大ヒットした原作を越える映像作品は作れない、という意見がある。
 漫画も小説も、読み手にいわば「空想の余地」のようなものが残されている。コマの外、コマとコマの間にある、小説で言えば「行間」にある、その隙間に読者は想像の翼を広げる。
 振り返った背中の向こう、描かれていないその顔はこんな表情をしているのではないか? 回想として描かれたひとコマの前後にどんな絵が広がっているのか?
 もちろん映画に「それ」がないとは言わない。映像化されなかった場面転換の間や、カメラに向いていないそこでどんな景色があったのか。
 今回の映画で、この見えない部分の演出として、杉元佐一が熊の穴に飛び込んだあとの出来事のカメラワークには瞬きを忘れて見入った、そして震えた。スリラー映画のような恐怖の描き方に、どれだけの映画への愛情を持って作られたのか。
 この余白の使い方こそが、原作のある作品の印象を大きく左右するのではないか?

何を切り何を撮るのか

 映像作品を作るにあたり、避けられないももとして「エピソードのカット」と「追加」があるのではないかと考える。
 文章や絵で作られた物語をそのまま映像化したらそれでいいとなるわけではない。TVドラマの場合など、1話の放送時間と話数に合わせてテンポを作りどう切り分けて各話を構成するかを考えなくては視聴者を惹きつけられないだろう。
 そういった問題をクリアし、面白い作品を撮るにあたり、エピソードをカットしたり、話の流れがつながるようにドラマや映画オリジナルのエピソード、時にはキャラクターを追加することもあるだろう。実際にそのような変更の生じた作品が殆どではないだろうか。
 これが悪いことだとは思わない。同じ物語を形にするのに、小説なのかマンガなのか映画なのか。その形によっての最適解があり、その解がそれぞれに違うことなど想像に難くない。
 この原作改変問題はとある漫画作品のドラマ化にあたって大きな問題となってしまい、これ以上ないかと思うほどの最悪の事態となったことで大きく報道もされた。漫画でに小説でも、その作品の良さが評価されての映像化なのではないかと思うと、この結末はあまりにも悲しい。
 切るにも足すにも、物語の本質が揺らがないことが大前提としてなくてはならない。原作が大切にする物語の伝えたいこと、描きたいことが大きく曲げられてはそれを原作と呼んでよいものなのか。「原作」と表記されるはずのところを「原案」としたり、原作クレジットすら表記しない事例もあったと聞く。
 もちろん、原作を大きく改変しても映像作品としてよいものが出来上がる場合も存在するだろう。しかしそれであっても、原作の物語の描きたい「それ」が守られている作品になっているか、原作ファンとしては映像作品を評価するにあたり重要なポイントとなるであろう。
 「ゴールデンカムイ」は漫画作品が大ヒットし、先にアニメ作品が制作されており、このアニメ化作品もよい評価を得ているかと思う。そこに続き、実写映画化の第一報を聞いての私の周囲の反応は概ね厳しかった。漫画作品のファンである知人たちはまず何よりキャストに、そして物語の舞台環境の過酷さに実写映像化の不安を口にした。Twitter(現X)での反応も同じ意見が多く見られ、魅力的なキャラクターと明治時代の真冬の北海道の自然とその過酷さ、アイヌの人々の生活を果たしてしっかりと再現できるのか。
 物語自体が面白く、その本筋をしっかり守っていたらよい映像作品となるのか、それは必ずしもイエスではない。先に書いた「空想の余地」と、逆に本筋に必ずしも必要ではない「遊び」が漫画にはある。そのすべてを読み、何を残し何を映さないか。大変な取捨選択が求められる。映画作品としての長さ、そこに収めるべく映すものを選び、写し方を探る。そうして原作を尊重しつつ映画としての「本筋」を創り出したのだろう。
 こうして出来上がった映画「ゴールデンカムイ」が映さなかったもの、映さずに表現したものこそが、この映画を、原作を愛する観客たちに受け入れられ評価される作品にしたのではないかと考える。
 漫画作品を映画にする。原作が漫画であることまでも、制作側が大切に扱ってくれたからこその「映画を撮る」ことの成功を成し遂げた。
 映画を愛して、映画製作を大切に考えるスタッフが集まり、よいものを作る。書いてしまえばそれだけのことがどれだけ難しいか。映画を楽しく観ているいち観客の私には見えないものがたくさんある。
 それでも、たくさんの手間と苦労を厭わずこの作品を作り上げた。漫画作品「ゴールデンカムイ」にとってもまたひとつの勲章である。そして漫画作品の映画化においてひとつの大きな答を導き出したのではないか。
 なぜって、私はこの映画を観て、また一段と映画が好きになったし、漫画作品が映画化されることに対して、いくつかある不安の種のようなものが、ひとつふたつ消えたような気持ちになれたのだから。

 秋にはWOWOWで連続ドラマとして物語は続く。新たな追加キャストも発表され、配信開始が待ち遠しい。続編が映画ではなくWOWOWでの連続ドラマという点にはちょっと驚かされたが、もはやその驚きにすらワクワクさせられている。
 漫画の作者野田サトル氏も映画制作にあたってしっかりとコミュニケーションを取り関わったと聞く。長い連載を終えたのちにさらに大変な労力であられただろう。しかしそうした情熱がますます映像化に強い熱を生んでいるのかも知れない。

 北の大地の冷たい氷雪をも溶かすほどの熱い熱い物語を、期待とともに楽しみ、しっかりと見届けたい。
 「ゴールデンカムイ」は、まだ終わっていない。夢中で漫画を読んだひとりのファンとして、こんなに嬉しいことはない。


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