『創価学会教学要綱』

『創価学会教学要綱』について、一般社団法人池田創価学会のセミナーでの講演の要旨を書いておく。講演では語らなかったことも含まれている。

 『創価学会教学要綱』は、2023年11月18日に発行されている。これは、創価学会の創立記念日になるが、長く創価学会を引っ張ってきた池田大作氏の逝去が発表された日でもあった。今回の『要綱』は、池田氏の監修になっているが、最晩年ということを考えると、実際に目を通したのかどうかはわからない。
 ただ重要なことは、池田氏がいなくなったことで、創価学会は教学の面で、これ以降、重大な変更を加えられなくなったことを意味する。牧口常三郎、戸田城聖、池田の「三先生」を権威と定めてしまった以上、それ以降、この三先生に匹敵する人物が現れることを予め封じてしまっているからだ。その点で、『要綱』は創価学会教学の最終形態であるとも言える。
 では、その特徴は何か。
 『要綱』では、「御書根本」、「日蓮大聖人直結」ということが強調されている。だが、実際の『要綱』の内容からすると、果たしてそう言い切れるのか、それが問題になってくる。
 『要綱』で特徴的なのは、釈尊から話がはじまっていることで、そこから『法華経』の教えへと進んでいく。これは、かつての『折伏教典』において、戸田の「生命論」から話がはじまり、「一念三千の法門」へと展開していったのとは大きく異なる。
 『法華経』の特徴は、一切の衆生の成仏を保障したことと、この経典自体を信仰の対象とすべきだと説いているところにあるわけだが、『要綱』の根本的な考え方は、この『法華経』の教えに立ち戻り、経題である「南妙法蓮華経」の唱題の実践を徹底して推奨することにあるようにも感じられた。
 その分、かつて密接な関係をもっていた日蓮正宗の教え、「大石寺教学」からは大きく離れている。『要綱』は、大石寺教学からの徹底した離脱をめざしたものと見ることもできる。
 日蓮の場合には、国難をいかに救うかを問題とし、末法の時代にあって、正法を護持し、謗法の教えを徹底して否定することをめざした。最初、法然の念仏宗を謗法ととらえたが、その範囲は広がり、律宗や禅宗、さらには真言宗や、密教を取り入れた天台宗にも及んだ。天台宗では、とくに円仁が批判の対象となっており、日蓮が最後まで否定しなかったのは日本で天台宗を開いた最澄だけだった。
 こうした日蓮が否定した謗法の教えがはびこっている限り、日本には『薬師経』が説く「七難」が起こるというのが、日蓮の主張であった。日蓮はすでに5つの難は起こっているとし、後は「他国侵逼難」と「自界叛逆難」であるとした。他国侵逼難は蒙古襲来によって現実のものとなる。
 この日蓮の弟子の一人であった日興は、富士門流の祖であり、日蓮正宗の宗祖となるが、日蓮正宗の教えの特徴は、簡単に言えば、日蓮本仏論、大石寺の板曼陀羅を究極の本尊とすること、そして日蓮正宗のの法主にのみ正しい教えが伝えられているとする血脈相承にあった。
 とくに板曼陀羅は重要で、戸田も、それを幸福を実現する機械のようなものとしてとらえ、創価学会の会員たちは「登山」と称して、大石寺に参詣し、究極の本尊の開扉に与かった。会員は、入会した時点で、同時に日蓮正宗の信徒となり、その板曼陀羅を書写したものと与えられ、それを仏壇に飾ることで勤行を行った。
 日蓮正宗・創価学会では、こうした教えが絶対であり、それ以外の宗教や宗派の教えは謗法にあたるととらえ、そうした教えを攻撃し、打ち負かす「折伏」を実践した。
 創価学会は、1990年代のはじめに日蓮正宗と決別し、当時の法主、日顕を徹底した批判することで、血脈相承を実質的に否定した。
 しかし、しばらくの間は、本尊については曖昧な態度を示していたが、やがて信濃町に広宣流布大誓堂を建て、大石寺とは異なる本尊が安置されることとなった。これによって、大石寺の板曼陀羅の価値は相対化されることになったが、今回の『要綱』では、日蓮の記したすべての本尊曼陀羅の価値が認められることとなり、本尊を掲げ、題目を唱える場が「本門の戒壇」と位置づけられることとなった。
 これも大石寺教学からの離脱を意味し、残されたのは日蓮本仏論だけである。しかし、その日蓮についても凡夫であることが強調され、行き着いたのは凡夫本仏論であった。これも、大石寺教学とは考え方が異なっており、その点では、『要綱』において、脱日蓮正宗がほぼ完成したと考えられる。
 それを反映し、『要綱』では、日蓮の遺文については、ほとんど真蹟や曾存が用いられており、そうでないものは「唱法華題目抄」だけになった。「唱法華題目抄」は、唱題の意義を強調するものであり、真蹟などにはない考え方が示されているので、創価学会としては、これだけは外せなかったものと考えられる。
 真蹟が重視された結果、富士門流にとっては極めて重要なはずの「御義口伝」については、言及されてすらいない。ここにも、脱日蓮正宗の方向性が示されているが、そうなると、創価学会の信仰が一般の日蓮宗の信仰とどこで異なるのか、それが曖昧なものになる。
 『要綱』を一読すると、創価学会はひどく穏健な宗教団体に様変わりしたという印象を受ける。かつて見られたように、自分たちの教えを絶対に正しいとし、他の宗教や宗派を否定する部分はいっさいみられない。
 さらに、国家諫暁という日蓮の根本的な考え方もまったく取り入れられておらず、宗教団体が政治活動をする意義はいっさい語られていない。そこには、「言論出版妨害事件」以降の、公明党との政教分離のことが影響しているのかもしれないが、公明党を支援する理由を見出すことも難しくなっている。
 かつて折伏に邁進した古くからの会員にしたら、今回の『要綱』は自分たちのやってきたことが否定されたと感じるのではないだろうか。
 

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