精神障害と私(その3_喪失)
その1で語った喪失したもの、それは人格と人生です。その喪失に立ち会わなくてはいけなかったこと、喪失に気づかれなかったこと、それらが私というものに織り込まれた奇妙さがいまだに理解できずにいます。
私の頭がおかしくなったのは中学生の頃です。あらゆる情報がつるつるとした膜がじわじわと立ち現れ始め私との親しみを覆い隠して行くのが分かりました。我が指でちょっとした思い出、覚え始めた専門用語、どこかで読んだ小説の一節、そうしたものをなぞろうとするほどに傍に留まるものはなくその内にあった私が薄れていくのを感じました。私というのはただこの性格や行動に現れるものだけでなく記憶の形を通して諸所の媒体に宿るものだと存じます。取り返しようのない私、それを宿したはずのものが虚空となって目に映る日々のやるせなさ。どこまで自分が持つのかという怯え。最寄駅からの道すがら、パンっとそれは弾けてしまいました。全てがそのとき、何も繋がりを持たない虚空に姿を変えてしまったのです。
それはまだ寒い春の日だったと思います。もう終わりなんだ、と思いました。しかしそれは暗いものではなくいくらかの希望を携えた思いでした。全てが虚空なら、怖い思いも苦しい思いも景色の中に見出されることはないのだということは救いのように思いました。大事なことに無心で専念できる、人生を有益なものにできる。栄光を手にすることができる。頭が空っぽで何にも邪魔されない日々は夢のようじゃないか。それにこんな頭も数日もすれば治るだろうから、今がチャンスだ。頭の中で考えることは電波の悪いラジオのように不明瞭で騒々しく、正確に把握することは困難でしたが、そう思ったように記憶しています。前向きで、社会の価値に毒された憐れな心でした。
それからしばらくは、この壊れた頭を誤って治すのはもったいないからと目の前にあったイベントの準備に取り組みました。もちろん取り組んだ相手はつるんとした膜に包まれていました。何も思うところがなく、何と思うべきかわからず、飼い始めた壊れたラジオの向こうに耳をすまし、失われた私との繋がりを誤魔化すように笑いました。笑顔が私の得意技でした。
笑顔が続いたのはその後1年の間でした。身体が、私を参照できない身体が徐々に私を忘れてしまったからです。学校に行き、帰り、1時間かけて部屋に戻る。楽しみも苦しみもなく、時計を見つめ時間が過ぎるのを待ちました。この生活がとてもつもなく怖くなりました。私はもうどこにもいないのに、私の皮をして生活していることが何よりも恐ろしく不可解でした。友達の見ているもの、家族の見ているもの、教師の見ているもの。どこにもいなくなった者。頭にあったのはいつかの正月特集で見たバックトゥーザ・フューチャーでした。あの時消えかかった主人公のように本当はいないはずの身体はいなくなるんじゃないか。特に怖いのが授業でした。動かないこの時間、いつ私の不在が告発されるか、もしされたらお終いです。私はこのとき本当にこの世から消えてしまう、そう強迫的に怯えていました。バレたらいけない、当時の生活を成り立たせていたのはその思いです。
頭のいかれた自分は、長期休みに入ると1週間はそれを理解せずに家に帰りたいと気持ちと家にいる現実とのギャップに悶えていましたが、それが終わった残りの休みは寝てばかりで過ごしていました。ごはんと宿題の時間以外は寝ていたと思います。半日は寝ていたでしょうか。それが功を奏したのでしょうか。高3の時にはなんとか本棚から教科書を取り出してちょっとした勉強が出来るようになっていました。翌年、私は家から1時間ほどの大学に受かり進学が決まりました。
これが、今でも夢に見るほどつらいのです。私は、私を取り戻せないまま進学先が決まってしまった。高校時代が私の皮を着た偽物のまま終わってしまった。二度と訪れることがなく人生の華になるはずだった高校と大学は目の前にありながら私のものにはならなかった!
私が喪失と呼ぶものはこれらの出来事のことを示しています。
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