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ひきこもりの支援の難しさ
私の家は貧乏で将来を決断する余裕がない家でした。
それなので、幼くしてネグレクトを受けていた幽鬼のような私は10代のうちから世帯分離をして福祉の支援を受けながら自立した生活を送った方がよいと助言を受け、それに従い若くから貧乏をしながら独りで生活を送ってきたのですが、厄介なことに、半壊した私の故郷の家には妹と頭のおかしい母がおり、妹は14年間ひきこもりの生活を送っていました。
私は十代の頃に上記のようなおかしな家の教育方針「兄には飯も教育の機会も与えず見えないもの、比例して妹は過保護に接し、いかなる欲しい物も無条件で与え飼殺す」という、歪んだ方針のもと、父の早世以来寂しくひもじい困窮児童として育った経緯から、無理を押して大学で社会福祉士の資格を取り、こうした状況の打開を考えていたのですが、先ほどその妹とも袂を分かつことと相成りました。
14年間、家の復興を願って行動を送っていたのですが、本人はもう考える能力も失われてしまったようで、電話をしてもどうにも状況を変えたくないとい、4畳半の汚い部屋で一生過ごすという意見が返ってきました。
人間が”狂った家”で14年間ひきこもるとどうなるか、想像が付きますか?
纏う服は何年も着潰した襤褸衣、歯医者にも定期健診に行っていないので口の中はもうぼろぼろ、髪も自分でカットする、スマホも持たずPCの接続の仕方もわからない。情報が遮断されたまま、諫言も受け付けず、毎日100円SHOPの軽食のみを食べて、表情筋も衰え、老婆のような見た目になる。これが人間らしい生活の様でしょうか。最低限文化的な生活水準すらをも下回っています。
長年の状況の不変に焦り、私自身自由に時間を割けるのが今年一杯くらいなので、いいかげん決断しよう。福祉施設利用券や自立支援医療受給者証を取得してメンターのいる生活に変えよう。もう31歳なので決断をするのは焦るべくことではないと先ほどから腹を割って話をしていたのですが、話のなかで違和感を感じたことを、読者の役に立てば幸いと思い、ここに綴らせていただきました。
私もこうした狂った家で育ったので学習の機会を自力で得ては(自分でアルバイトをしたり、デザインの勉強をして仕事を受注したりして)、親と袂をわかった状態で大学まで出ては学友から「お前いつもパンの耳ばっかり食べてんな」と馬鹿にされてもへへへと笑って、最短の道として、留年などせずに最高学府を卒業したのは数年の遅れを経て25歳のときでした。この人生の前半期は屈辱と不足、前進のための生命力の発露の連続でした。
ひきこもり支援の大切さに相手に寄り添い相手のペースで支援を続けていくことが重要なのですが、私は14年間引きこもり続けた相手が思考の能力をも奪われていくことを理解できていなかったようです。
たとえ相手がスマホも持たずPCも持たず、衛生状態が極めて悪くとも、諦めてしまった相手には手の施しようがありませんでした。
ひそかに作成し送っていた福祉手続きの書類も手つかずのようで、このままでは老々介護になって社会人スタートが親の死去という不幸なタイミングで50歳60歳で始まるようならば、せめて福祉と繋がっておこう。電話がないなら仲介するという提案も本人は理解ができていないようでした。
今はもうやけくそでこの文を書いているのですが、私の親は境界知能の持ち主のシングルマザーでした。シングルマザーになったときは淫乱醜行の限りを尽くして、今はもうエピソードを記憶したり複雑な会話をすることができず、己が妹に私に何をしたのかの理解もできないような状態で、これとは離縁しました。
親が子を捨てたがっていたので早くに捨てられてやったのですが、妹にも同じことを、50代の人間が人生の内省を行うこともなく、人を”飼うように育てる”人間よりペットの方が近い接し方をしていることに唖然としました。でも、これはこれで、私に関しての悍ましい行いの数々は私自身の盲が啓けたので、これでいいのです。
でも中学から31歳までの間、悍ましい環境で軟禁されていると、当事者の生活のイカレようすら看過してしまうのです。
一人で旅行もしたこともない、友達とお酒を飲んだこともない、おしゃれもしたこともない…そんな妹と通話をしていたら、もう何年振りかに名前を呼ぶのも忌まわしい肉親が電話に割り込んできて、「上手くいってるから!もう関わらないで!」と言われ電話を切られました。私は人を一人、いや二人見殺しにすることに向き合うことなりました。本当に胸糞が悪い3時間の通話でした。
所感を述べるとすれば、生きることに貪欲にならないと生きる気力すら削がれていくようです。私の焦りと反して「はぁ」「その」「わからない」の連続ではやり様がありません。私は妹の学費を出して、妹の通信制のレポートを添削して手直しするところからはじめ、市のケースワーカーさんと綿密に打ち合わせを何年も続けながら、この問題にかかわり続けていたのですが、今日ここに私の家は破滅しました。私自身も妹を甘やかし続けたのかもしれません。私は役所の生活相談課ではないので、別に腫物を扱うように優しく会話する必要もなく、「お前、普通にこのままだと凄惨に死ぬぞ」と言っておくべきでした。
人はいつからでもなんにでもなれます、きっと。
だけど、生きることにハングリーになり、臥竜のままでも心にはどんな人にも一つの小さな炎があると信じて誰彼と接してきました。
私ができることはやったので不足はなかったと思いたいです。
ですが、後悔として、今後の家の現実的な凋落と周囲にかける迷惑と当事者のその瞬間の苦労を知るのは狂った母でも当事者の妹でもなく、私だけであったとは。…私は疲れました。
私はこの体たらくの結果を受けた上でも命の炎を滾らせ、志をもって遅れを取り戻していくしかないのです。
愚痴を述べれば、今日日スマホは賢くプランを併用していけば、iPhoneでも月980円から使えます。毒親の下でスマホも与えられないと、実質人権がないのと一緒です。民生委員がアサインされて家にヒアリングに行ってもくたびれた老婆母が「うちには何の問題もありません!帰ってください!」と言われて、所謂福祉の囲い込みができず、おしまいになってしまうのです。せめてスマホを与えるネットと繋がる権利さえ与えられていれば妹にも変わったエンディングもありました。
こうなると私も、社会福祉士も精神科医も民生委員も、手を差し伸べられません。
職場で器用になんでもこなしては「卑賤の出ですから、履物の編み方までなんでもやらさせていただいたのですわ、へへへへへ」と謙遜していたのもどこかで状況がよくなると感じていたからです。
我が家は実質自殺者を二人生み出したのも同然。自分を遜し、笑顔と智謀でことを総無事無事に成すのも嫌に思ってきました。
ある独裁者が言った言葉が思い出されます。
「命は弱さを許さない」
私は冠婚葬祭に参加することは今後やめにし、私が築く家族にのみ愛を注ごうと思います。
見苦しい文章、申し訳ありませんでした。