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エッセーまとめ
今までXに書いたのエッセー まとめ
Xに書いたエッセー1
避難所に100人が避難しているとして、そこに80人分の、例えばレトルトカレーが届いた時に、
「これを配ると届かない人が出てくるからやめよう」と判断した事例は、阪神淡路の時も東日本の時も多くありました。不平等だと騒ぐ人が出てくる可能性があるから、というのが理由です。
高齢者や体調が悪い人を体育館のざこ寝からホテルに移そうとした時に、「特別扱いするな」という批判を恐れてやめたという記録も残っています。全員に行き渡らないぐらいなら、やめてしまおうという考え方です。
一瞬、納得しそうになりそうですが、この考え方を押し進めると、船が遭難した時に、救命ボートには全員が乗れないから、不公平になるので、誰も乗らないで、みんな一緒に死のう、となります。でも賢明な人は、「まずは子供と女性からだ」なんて判断します。
船の場合は命がかかっているから判断するんだよ、と思う人もいるかもしれませんが、避難所で体調が悪い場合は命に関わる可能性は高いです。
何が直接生命に関わるか分からない以上、不平等だと批判されるのを覚悟で、判断する必要があると思います。が、そういう判断が、僕は日本人がとても苦手だと思っています。
僕は日本を「世間」と「社会」に分けています。「世間」は、「あなたと関係のある人達で成立している世界」で、同僚とか友人とか家族です。「社会」は「あなたと関係のない人達で成立している世界」で、同じ電車に乗っている人とかコンビニの他のお客とかですす。日本人は「世間」の人達との駆け引きや交渉、根回しはとても得意です。
でも、「社会」の人とは、どう接していいかなかなか分からないのです。駅の階段をふうふう言いながらベビーカーを持ち上げている女性に手助けしない日本人に、外国の人はとても驚きますが、それは、日本人が冷たいからではなく、知らない人(=社会に生きる人)にどう話しかけていいか分からないからです。
2019年足立区の避難所で、台風から逃れてきたホームレスを区の職員が拒否した事例はとても有名になりました。
海外では、「この職員は、ホームレスを追い出した結果、ホームレスが台風で死ぬかもしれないと思わなかったのか。どうして、殺人のようなことができるんだ」という反応が多かったです。
でも、日本人である私達は分かります。職員さんは、「区民の人が集まる体育館」という「世間」を守っていて、ホームレスという「社会」の人を拒否しただけだと。殺人とかそんなことはまったく考えてなくて、ただ必死で「世間」の人を守ったのだと。 別の言い方をすると、私達は、「社会」の人達に対して、なんと言っていいか分からないのです。
80食のレトルトカレーを、子供、高齢者を優先して配った結果、受け取れずに「不公平だ!」と叫ぶ人は、職員さんにとって「社会」の人です。同じ避難所にいても、「世間」の人ではありません。抗議する「社会」の人に対して、どういう言い方で説得交渉したらいいか分からないのです。 ひょっとしたら、真面目な職員さんだと、救命ボートに乗れない人達が「不公平だ!」と叫んだら「そうですね。では、全員、乗るのをやめましょう」と結論するかもしれません。
今日本人に必要なのは、「社会」の人達とちゃんとコミュニケートできる技術だと僕は思っています。 私達が「社会」の人に対してとりやすい態度は、ただ無視をするか、レッテルをはったり、罵倒するということです。反面、「世間」だと認定した人にはとても優しく接します。
でも、これからさき、ますます「社会」の人と接する機会が増えてきます。社会に対する「コミュニケーション技術」が求められと思っているのです。
エッセー2
私達日本人は「世間」に生きていて、「社会」には生きてないと、どういうことが起きるかという話の続きです。
「世間」はあなたと関係がある人達です。その反対語が「社会」で、あなたと何の関係もない人達です。
私達日本人は、ほとんど「世間」の中で生きています。別の言い方をすれば、ずっと「世間」に守られてきました。「社会」の人とは、深く交流することは、ほとんどないのです。
僕が司会をするNHKBS『クールジャパン』という番組で「どこでパートナーを見つけたか?」という質問をしたことがあります。
日本人は、「友達の紹介、職場の知り合い、クラスメイト関係」の三つにはっきりと分かれました。外国人にアンケートを取ると「公園で」「銀行の窓口に並んでいる時に」「道で話しかけて」「パブで」と本当にバラバラでした。 日本人があげている三つは、すべて「世間」です。知り合いを通じてパートナーを見つけるのです。外国人はすべて「社会」です。「社会」で出会った人からパートナーを選ぶのです。
日本人は「社会」の知らない人をいまひとつ信用できないのです。「どこの馬の骨」なんて古い言い方があります。「世間」の人の紹介がないと、自分達の「世間」に受け入れないのです(最近、ようやく広がってきたマッチング・アプリの話はまた別の機会に)
つまりは、「世間」に生きていて、「社会」に生きてないと、どういうことが起こるかというと、初めて出会った人も、会話する時には、無意識に自分の「世間」の人だと思ってしまうのです。
日本人がクレームに極端に弱い原因は、これだと僕は思っています。 相手は、自分とまったく関係のない「社会」の人なのに、まるで「世間」の人のように対応しようとするから、混乱するし、引きずり回されると思っているののです。
「世間」の人は、あなたと関係のある人ですから、大切にしないといません。どこでどんな影響があるか分からないからです。でも「社会」の人は、あなたと何の関係もありません。特別に大切にする必要はなく、理不尽なことを言われたら「理不尽だ」と文句を言えばいいだけなのです。
でも、「世間」の人は違います。理不尽なことをなんとか飲み込んで、お互いにやっていくのが「世間」の人との付き合い方なのです。それは、「お互いさま」の世界です。でも、「社会」の人は違います。
僕はクレームを三つにわけています。 ひとつは「ホワイト・クレーム」。これは、実際に「正当な要求」で、それを検討し採用し、改善すれば、クレームを受けた側にプラスになるものです。 二つ目は「ブラック・クレーム」。これは完全に金銭などが目当てのクレーム。犯罪です。なんらかの利益を得るまで、クレームは止まりません。これは、担当者がなんとかするものではなく、警察に対応をお願いするものです。 三つ目が「レッド・クレーム」。言いがかりだったり、病的な指摘だったり、偏執的で暴力的な言葉遣いだったりします。
担当者が疲弊し、辞職したり、病気になることが一番多いクレームです。この種類のクレームを「世間」の人が言っていると思ったら、体はすぐに壊れます。相手は、「世間」の人ではなく、知らない「社会」の人です。そして、これは担当者一人が個人で対応することではありません。会社をあげて対応するクレームです。「レッド・クレーム」は、相手がゆがんでいることが多く、執拗でエネルギッュシュですから、個人では無理です。組織的な対応が必要なのです。
どのクレームも「世間」ではなく「社会」の人からのものです。
「世間」の人との会話は、「思いやり」だったり「腹芸」だったり「持ちつ持たれつ」だったり「なあなあ」だったり「言わずもがな」だったりします。それが「世間」の人とやっていく大切なスキルです。
でも、「社会」の人との会話は、はっきりとした、粘り強い会話が必要です。理不尽なクレームには、相手との関係を終わらせる強さが必要なのです。
「世間」の人は、もめてもしばらくしたら、お互いが歩み寄ったりします。でも、「社会」の人にはそういうことはありません。だから「社会」の人なのです。「社会」の人に「世間」の人のような思いやりを期待しては無理なのです。
といって「社会」の人が悪人なのではありません。それが「社会」の人なのです。「社会」の人の事情を、私達が考えないように、相手も考えてないのです。だからこそ、会話して、お互いの立場を明確にする必要があるのです。その結果「そのクレームは理不尽だ!」と結論するのは、とても当たり前のことなのです。もちろん、「レッド・クレーム」だと思っていたのに「ホワイト・クレーム」だったと気付くこともあるかもしれません。ないかもしれません。それは細かく会話して分かることです。思いやりとか気遣いでは分からないのです。
X に書くエッセー3
総務省の『情報通信白書』では、X (旧ツイッター時代)の匿名率は、アメリカが約36%、イギリス31% フランス45%、韓国31.5%ですが、日本は、約75%です
。
日本のXは、世界の中で、群を抜いて匿名です。私達はそういうネット環境に生きています。
また、「SNS で知り合う人はほとんど信頼できる」という設問(同じく『情報通信白書』)に対して、「そう思う・ややそう思う」がアメリカはが約64%、ドイツは約47%、イギリスは約68%ですが、日本は約13%です。 この数字をそのまま受け止めると、私達日本人は、ネットは匿名で発言し、ネットで出会った人はほとんど信用しないということになります。
僕はこれらは、日本人が「世間」に生きて、「社会」には生きてない結果だと思っています。 「旅の恥はかき捨て」という困った古い言い方があります。自分の「世間」は大切にするけれど、ひとたび旅行に出たら、それは自分とは関係のない「社会」だから、何をしても問題ない、という考え方というか、行動をあらわしたものです。
自分の所属する「世間」で、ヤンチャしたら大変なことになるから、大人しくしていなければいけない。でも、それでは窮屈だし、つまらないから、「世間」を飛び出し、知らない人の「社会」に出たら、好き勝手しようと思ってしまう気持ちは、あることだと思います。
逆に言えば、守るのは自分の「世間」だけで、「社会」は敵というか、雑に扱っていいと思う気持ちです。
心痛む出来事が起こるたびに、誰が悪いだの誰のせいだのと、匿名の発言が沸騰します。自分が所属する「世間」の人には決して口にできない言葉です。
中傷とか誹謗なんていう分かりやすい言葉だけではなく、冷笑したり説教したり断定する言葉が匿名で殺到します。
そういう発言に接するたびに、僕は、この言葉を書いた人はどんな息苦しい「世間」に生きているんだろうと思います。どんな「世間」に生きて苦しんでいるんだろうと思います。本音を言えない「世間」で、どんな悲鳴をあげているんだろうと思うのです。
匿名を禁止しろとか、実名システムにしろなんて、分かりやすい結論を求めているのではありません。 正解は僕も分かりません。ただ、私達は、世界の中で群を抜いて匿名率の高いSNSの世界に生きているということだけは、忘れないでいようと思います。
Xに書くエッセー4
「排除ベンチ」が話題になっています。
「意地悪ベンチ」という言い方もありますが、僕は「排除ベンチ」が的を得て(射て)いると思います。
エッセー1の「足立区の避難所」のエピソードのように、私達日本人は、「世間」に責任を持って、「社会」の人とはどう接していいか分かりません。 ベンチの間に手すりを作って横になれないようにしたり、新宿区の公園で話題になったカマボコ型だったり、譜面台みたいな形だったりするベンチは、すべて、「寝そべることができるベンチを作ると、ホームレスが集まり、治安が悪くなる。だから、横になれないベンチを作ろう」という発想に基づいていると言われます。
この話を聞くたびに、「本当にそんなベンチにホームレスの人が集まるのか?」「ホームレスの人はベンチではなく、ダンボールに寝るのではないのか」「公園の近くにホームレスの人が多いという調査はあるのか?」なんて思っていたのですが、はたと、「いや、そもそも、座りにくい排除ベンチにすると、ホームレス以外の人も長時間は座れない(特に背もたれがないとね)から、公園に長時間いられなくなる。つまりは、ホームレスだろうがそうではなかろうが、公園に人を長時間、いさせないことが目的なんじゃないか」と思いました。
だって、公園に人が集まり、長時間いると、近隣住民から「うるさい。役所はなんとかしろ」という苦情が寄せられるでしょう。公園で遊ぶ子供の声がうるさいと苦情を寄せる人の話題がずっと続いているでしょう。それは役所としてはとても困るだろうと思います。公園を閉鎖にはできないし、かといって放っておくと、苦情がずっと寄せられる。板挟みです。
そういう時に解決方法としては、「長く座れないないベンチ」を作ることがじつは役所側からすると最適解ではないと思いました。
でね、ここから「世間」と「社会」の話になるんです。「世間」はあなたが知っている人達の世界で、「社会」はあなたと関係のない人達の世界です。 「自分の知らない奴らが集まっている。うるさい。何をするか分からない。だから排除する」は、「世間」の理屈なんですね。
Xに書くエッセー1で書いたように、私達日本人は「社会」に対する信頼がまったくありません。知らない人、つまり「社会」に属する人には、「どこの馬の骨」という言い方があります。でも、一度世間の仲間だと思った人は、どこまでも甘く許します。
一度応援すると決めた政治家や政党は、どんなことをしても「世間」の仲間だと思い続けて支持する人が多いですからね。 世界の都市の中で、日本の都市に圧倒的にベンチとごみ箱が少ないのも「社会の人達のことは知らない」という発想だと思います。
「世間」のゴミだしのルールは厳しいけれど、「社会」の人達のゴミや疲れは知らない、ということです。
でもね、この世界が少しでも寛容になり、Xが荒野から少しでも初期のノンキさを取り戻すためには、「世間」の人ではなく、「社会」の人との関係をつないでいくことしかないと僕は思うのです。
「世間」だけで集まり「世間話」に盛り上がるだけではなく、自分の知らない人達とひととき、「社会話」ができるようになると、日本はもっと住みやすくなると思うのです。
自分の「世間」を住みやすくするのではなく、「日本」を住みやすくするためには、「社会」の人同士が住みやすくなるということだと僕は思っているのです。
Xに書くエッセー 5
「間髪を入れず」 インターネットの発展で、私達は簡単に「〇〇警察」になれるようになって、言葉に対して厳格な人も増えてきたように感じます。
「『了解いたしました』という言葉は、失礼な言葉。『承知』を使え」なんていう間違った突っ込みには、「そんなアホな」と返せるのですが、例えば「間髪を入れず」は、「かんぱつをいれず」ではなく「かん、はつをいれず」だという指摘は、ずいぶん前にネットで溢れ出ました。
でもさ、「日本」が、穏やかな話題の時は「にほん」だけど、応援したり興奮した時は、「にっぽん」になるように、「間髪を入れず」は、たいてい、激しい瞬間の描写で、そういう時に「かん、はつをいれず」なんて言ってる場合じゃない、感じがするのですよ。
そういう時は、「かんぱつをいれず!」と叫びたいわけです。 でも、今は、テレビで「かんぱつをいれず」なんて言ったら、ネットでは訂正と批判のプチ炎上になるでしょう。結果、「かん、はつをいれず」という言い方は、「自然な感情にそぐわない」から、どんどんと消えていく言葉になっているんだなあと思っています。
用法に厳密でありすぎて、言葉のいろんな面をなくしていくことは、ちょっとつまんないなあと思っているのです。「慣用読み」のおおらかさというか、いいかげんさをもっと認めてもいいと、僕は思っています。