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LSEのウェルカム・ウィークで胃を痛める(その2・LSEという獣)

 ※「その1・学長のスピーチ」から続く
 
▽アカデミック・メンターを決める
秋学期が始まる前の1週間にLondon School of Economics and Political Science (ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス・アンド・ポリティカルサイエンス、以下LSE)に関するあらゆる情報をこれでもかと詰め込んだウェルカム・ウィークは、9月23日から始まった。私の在籍する国際開発学部は、事前にアカデミック・メンター(身の回りのことから卒業論文のことまで相談に応じてくれる担当教員)を学生の希望に基づいて割り当てており、23日の学部・学科説明会で初めてメンターと対面するという段取りを組んでいた。

これが問題だった。なぜなら、事前にメンターを選ぶにあたり、参考情報が教員の名前・プロフィール・指導している科目・写真くらいしかなかったからである。これでは教員の性格が分からない。つまり、一番大事な気がする教員との相性が測れないのである。これはもう、ギャンブルでしかない。しかし、とりあえず期限までに希望の教員に順位を付けて提出しなければ、学科の都合で割り当てられてしまうから、限られた情報で決めるしかない。

1番・2番の順位をどうするかでかなり悩んだ挙句、1番手はジャーナリストでもあるというダニエル教授にした。なぜなら、私がジャーナリズムに憧れがあり、彼の教えている科目にも興味があり、写真を見ると、白髪の優しそうな男性だったからである。惜しくも2番手にさせていただいたマシュー教授は学科のプログラム・ディレクター(学科の教育プログラムの管理者)で、いくつもの必須科目を受け持っている明らかなキーパーソンである。私はLSEへの願書提出前に一度、Zoom(ズーム)でマシューさんに学科の特色について質問する機会があり、とても気さくで楽しそうに話す姿が印象的だったため、願書提出を決めたという経緯がある。じゃあ絶対マシューさんが第一希望のはずであるが、魔が差したのか、ジャーナリストでもあるダニエルさんを最優先にした。

新入生でにぎわうLSEのOld Building(オールド・ビルディング)

▽「失敗したジャーナリストです」
さて、23日、いよいよ答え合わせ(学科説明会)の日である。司会はもちろんプログラム・ディレクターのマシューさんだ。「こんにちは、皆さん。来てくれて本当にありがとう! 君たちはタイムズ紙によると、イギリスで最高の大学に入学しただけでなく(注1)、LSEの中でも最高のプログラムに参加しました」。2時間ほど前にあった学部全体の説明会で喉が温まったのか、既に快調である。舞台横には自己紹介と自身が受け持つ科目の説明のために集まった教員たちが椅子に座って出番を待っている。その中に、この4時間前に私のメンターとなったダニエル教授もいた。一体どんな人なのか、ドキドキしながら待っていると、いよいよダニエルさんが自己紹介をするために登壇した。

「こんにちは。ようこそ。……私は失敗したジャーナリストのようなものです。失敗したサッカー選手。失敗したミュージシャン。そのことについてお話しようと思います」

失敗したジャーナリスト? 私の胸がざわつき始めた。何か思っていたのと違うな。偉大なジャーナリストではないの? あれこれ考えていると、ダニエルさんの話は進み、腕時計を気にするマシューさんに気付いて「彼の腕時計はいい代物ですよ」と言って椅子に戻っていった。続いて自己紹介するほかの教員たちもなぜか「私は音楽家として挫折しました」とか「私は落ち目の俳優から学者になりました」などとカミングアウトしている。どうしよう、笑っていいの? というか、一体どういう学科なの? 戸惑っているとあっという間に教員の自己紹介が終わり、今度は担当科目の説明が始まった。

 ▽メンターは元ミュージシャン
トップバッターはやはりダニエルさんだった。今度は何を言うんだろう? ハラハラしながら見守っていると、大型スクリーンにつないだパソコンで説明資料を操っていたマシューさんが「ダニエルはミュージシャンだと言いましたね。彼にはCDがあります」と言って、青年時代のダニエルさんのCDジャケットをドン! とスクリーンに映し出した。そう来たか。いや、というか、本当にCD出してたんだ……。マシューさんが「確か、チャリティーショップで入手できます。夜どうしても眠れない時に聴いてください」と学生に勧めると、再び壇上に上がってきたダニエルさんは照れくさそうに言った。

「僕は実際、バスタイム・ミュージックというレコード会社と契約を結ぶところだったんです。僕は自分の音楽を彼らに送ったんです。すると彼らは、『うちはリラクゼーションミュージックを扱っている。つまり、私たちが求めているのは、全くそそられない音楽なんだ。そして、君の音楽はそれに近いものがある。まだ完璧ではないけどね』と。まあ、それはそれで励みになりますけどね……」

一連のやりとりを見ていた私は確信した。マシューさんとダニエルさんは完全に共犯である。こんな息の合ったコントは準備なしにはそうそうできない。そしてミュージシャンの話が衝撃的過ぎて、肝心の科目説明が全く頭に入ってこない。こんな劇場型のスリルを味わうのはどのくらいぶりだろう? え、私のメンターは失敗したジャーナリストで元ミュージシャンってこと? 
 
▽「LSEという獣」
一通り科目説明が終わると(全く覚えていない)、今度はマシューさんが肝心のアカデミック・メンターの役割について説明を始めた。

「メンターは論文や福祉の問題など、ほぼ全ての事柄の第一段階に当たります。問題を抱えている場合は、メンターに相談してください。彼らは、おそらく多くの人が感じているであろうインポスター症候群(注2)を乗り越える手助けをしてくれますし、LSEという新しい獣に適応する支援もしてくれます」

LSEという獣……。また気になる言葉が出てきた。しかし、この時、私にはマシューさんの言っている意味がよく分からなかった。獣という言葉で頭に浮かんだのは、ウェルカム・ウィーク中の大学構内をうろついている年季の入った獣の着ぐるみだけである。そうそう、確かLSEのマスコットキャラクターはビーバーで、LSEグッズを販売しているお土産屋さんにぬいぐるみが売っていた。ということは、あの着ぐるみはビーバーということか。

ビーバーのフェリックスくん

後日、獣の着ぐるみに「写真を撮らせてください」とお願いすると、両手を上に広げてかわいくポーズを取ってくれた。「お名前は?」と聞くと、着ぐるみの隣にいた男性スタッフが「ビーバーのフェリックス君です!」と教えてくれた。これが、私がLSEの獣に出合った初めての瞬間である。

たぶん本物はこっち

※「その3・単位登録で裏技を決める」に続く


 (注1)The Times and The Sunday Timesがこの数日前に発表した「UK university rankings 2025」(イギリス大学ランキング2025)で、LSEが1位になったことを受けての発言。(https://www.thetimes.com/uk-university-rankings)

(注2)
インポスター症候群……日々の仕事や業務面で成功して周囲から良好な評価をされているにもかかわらず、自分自身を過小に評価して否定的に捉えてしまう傾向を持つ人々を指す。※参照元「ヒロクリニック 心療内科」ホームページ(https://www.hiro-clinic.or.jp/mental/impostor-syndrome/

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