感じていることを感じていい。そう思ったら楽になった。
朝5時に目覚ましをかけておいたのに、起きたら8時になっていた。
先週始めた早朝のお花見散歩が気持ちよくてこのまま習慣にできればいいなあと思っていたのだけれど、今朝は雨がまだ残っているのを布団の中で何となく感じ取って、目覚ましをスルーしてしまった。
代わりに昼間、買い物を兼ねて長めの散歩に出ることにした。
仕事を辞めてからすでに7か月が経ってしまっている。
もともとそんなに得意ではないパソコンの使い方も、このままでは忘れてしまう一方だ。
応募しようと思う事務仕事はExcelの関数の知識を求められるものが多く、仮に就職できたとしても苦労することは予想できる。
これまで派遣会社のe-ラーニングで勉強してはいたけれと、実際に仕事で使ったことがないのは使えないのと同じだと感じる。
何もしないでいると不安ばかりが先立ってしまうので、テキストを見ながら独学で少しづつ勉強してみようと思った。
テキストは某リサイクル書店で探してみる。
自宅から徒歩50分くらいのところにあるので、散歩にはちょうどいい距離である。
散歩中はいろいろなことを考える。
散り始めた桜の花びらが時々小さな渦を巻きながら舞っている。
花びらがなければそこに渦があることは分からないんだなあ、とか。
細い歩道を歩いていたら、自転車に乗った男性が向こうから走ってきた。
お互いに道を譲りつつも私が脇によけて待っていたら「ありがとうございます」と小声でお礼を言って去って行った。
ちょっと嬉しかった、とか。
昨日も今日も誰とも話していないし、特別なことは何もしていない。
それでも、退屈だとか寂しいだとかの感情はわいてこない。
それはおかしいのだとずっと思ってきたけれど、「楽」で「ほっとする」というのは間違いなく事実である。
その事実をそのまま認めていいんだ、感じていることをそのまま大切にしていいんだ、と、少しずつ思えるようになってきている。
散歩の足が地面を踏みしめる感覚を味わいながら、「私、これでいい」という感覚も感じていた。
「『感じていること』をそのまま感じること」を自分に許可できるようになると、安心感が湧いてくることに気づいた。
すると、そこで初めて別の考えが浮かんできたり、前向きなチャレンジをしてみようという気になってくる。
「『感じていること』を感じること」を自分に許可しないのは、自分を信用していないのと同じことなのだと思う。
その状態で生きていくのは、地図も目的地もないまま何となく進めそうな方へ歩いていくようなもので、不安と不満が常につきまとう状態になるのではと思う。
「感じることを感じていい」
そう思えるようになったら少し楽になった。
楽になったら、さらに楽な気持ちになるようにとパソコンの勉強をする気になれた。
そんな小さな変化が嬉しい日だった。
ちなみに、リサイクル書店ではテキストを手に入れることはできなかった。
なので、近くの図書館で借りることにした。
往復7キロの散歩を終えて帰宅したら予想どおり長い昼寝をしてしまった。
体力があるのかないのかよく分からないけれど、これも私なりのペースなのだと思うことにする。