感情を「感じ切る」には勇気がいる。
「お花見早朝散歩」が「早朝」ではなくなってきている。
5時に目覚ましをかけても、布団から出るのは7時台。
人がいない時間を狙いたいのに・・・と思いながら、7時半を回った頃にようやく家を出た。
今朝はやや強めの風にあおられて、桜吹雪が舞っていた。
上からも下からも、薄ピンクや白の儚げな色をした花びらがさーっと押し寄せて通り過ぎていく。
ひんやりした中に陽の暖かさが混じる空気がとても気持ち良かった。
登校する小中学生の間を抜けるようにして、吹雪の中を歩いた。
桜並木の終点を折り返したあたりから、人通りがなくなった。
そうか、この時間に歩いてもいいんだ。
人のいない空間はホッとする。※夜は除く
改めて、ゆっくりゆっくり味わうようにして、来た道を戻った。
私は、「自分の感情を感じる」ことが難しくなっているのかもしれない。
自分にとって最適な条件が揃わないと、感じているものが出てこない。
その条件も、具体的にリストアップできるものでもない。
嬉しいこと、楽しいこと、元気になることをしようと思っても、それらしきことをやってみても、心の表面を優しくなでて滑り去って行くような感じだけが残る。
「感じ切る」ということをしてこなかったからだ、と思った。
いつもその場を生き延びるために、感覚に蓋をして周りの流れの速さに必死でしがみついてきた。
それは誰もがしている、当たり前の努力だと思っていた。
自分が自覚している以上に、感覚が凍り付いてしまっているのかもしれない。
自分の本音を感じたい、本当の言葉を話したい、直感を信じたいという欲求は、そんな自分の奥底からの叫びなのかもしれない。
それだけは「本物」だと言っていいのかもしれない。
一人で家にいるのは大好きだけれど、灰色の気持ちを抱えた状態で何日もこもり続けるのはさすがに辛い。
朝、理想どおりに早く起きられなくても散歩をしたいと思うのは、外に出て歩くと気持ちがほんのり楽になるからだ。
50代、無職、将来への不安、未だ乗り越えていない過去のこと。
それでも前向きに生きなければと思う気持ちを捻り出し、それが焦りに変わっていくのを見送る日々。
もしかしたら、前向きに生きようとする気持ちそのものが「感じ切る」ことにブレーキをかけているのかもしれない。
前向きに、正しく、きちんと生きようとすることが、「本当に感じていること」の前で立ち止まることを許していないのかもしれない。
自由に好きなことをして過ごしているつもりだけれど、すべて表面的なものに過ぎないのかもしれない。
本当は働きたくないのかも。
本当は真面目じゃないのかも。
本当は優しくないのかも。
本当はだらしないのかも。
「本当に感じていること」の前でゆっくり立ち止まると、それまで見えなかった思いがふいに湧き上がってくることがある。
今から「本当の自分」になるって、もしかしたらとてつもない勇気とエネルギーがいることなのではないだろうか。
これまで得てきた周りからの信頼や、それをくれた人間関係まで丸ごと失うかもしれない。
過去の自分はそれを予感していたから、ここまで先延ばしにしてしまったのだろう。
「本当の自分」を思い出すために、これから何ができるだろう。
日々の小さな『前向きな努力』をすることに逃げてはいけない気がする。
「自分は正しい方向に進んでいる」と思い込むことで安心してしまったら、「自分が望む方向」には進めない気がする。
では何をすればいいのだろうか。
とりあえずきょうも、長めの散歩に出てみることにする。
気になっていたパンケーキ屋さんを目指して。