幻の陰影【掌編小説】
※本編3,494字。
「元 日本バンタム級一位がボクシングを教えます!」
こんな触れ込みのチラシを見て、広志は父に懇願した。一位の人にボクシングを習いたい、と。
父の章司は正直なところ、殴る蹴るのスポーツでは無く、野球やサッカーといった球技をして欲しいと思っていた。だが、最後は息子のしつこさに根負けした。入会するかどうかを約束はしなかったが、一日体験会に参加することにした。
二年前に父子家庭になってから、徐々に広志は気が荒くなった。嫌な予感だけが、単純に格闘技に繋がったとは言いきれない。ただ、最近は一緒にテレビを見ていると暴力的なシーンに釘づけになるのを度々見かけていた。まだ小学校3年生で「格闘技=人を傷めつけること」と認識してしまったのでは、と深慮した。章司は杞憂であることを心から願った。
嫌でも、体験会その日を迎えた。
その朝はテレビニュースを見せずに、大リーグ中継をつけた。父なりの、息子への最後の抵抗だった。
「ほら、大谷選手はカッコイイだろう」
章司は心からの叫びに似た歓声を上げた。しかし、広志は声高らかに上げるでも無く、関心を持つわけでも無く、ただただその【D】と記された帽子を見つめていた。
「僕は、井上選手みたいになるんだ。人を殴ってお金を稼ぐってカッコイイ」
章司は広志がそのセリフを言う意味を理解した。井上選手を挙げる時に何か返そうものなら、罵詈雑言が飛んでくることを。
やはり、広志は本能から格闘技をしたいと思っている。間際でそう悟った章司は諦めることにした。
「じゃあ、井上選手を本気で目指せよ!」
父がそう言ったきり、自宅の居間はシンと静まり返った。章司は、妻がいなくなったことを改めて実感して余計に淋しくなった。
ボクシングジムは自宅から歩いて約15分ぐらいの立地にあった。二人で歩いている間はほとんど何も話さなかった。5階建のビルを上がる前に『NO.1ボクシングジム』と書かれた案内図があり、二人はエレベーターで上がった。
章司は不安だらけだったが『NO.1』という触れ込みには期待感を抱いた。ボクシングはあまり詳しくはないが、かつて日本で一番強かった人が直々に教えてくれるのだ、と。
午前10時の営業時間に合わせて、少し早く到着した。周りを見渡すと他にも親子連れの入会希望者が10組はいた。ボクシングは今ブームなのだろうか、と訝るように思った。
時間になると、片言の日本語を話す細身の男性が案内をしてくれた。何やら彼も『東洋ナントカカントカの元1位』の選手らしい。1位という肩書きはすなわち東洋チャンピオンなのだろうか。いや、チャンピオンでは無い。なかなかに紛らわしい限りではある。
ジムはワンフロアを使った広々としたスペースだった。真ん中にリングがあり、サンドバッグ、パンチングボールが所狭しと設置されていた。隅には、多くのボクシンググローブが並べられていた。
章司が抱いていたボクシングジムのイメージとはかけ離れていて、清潔感そのものだった。
ここで広志は強くなるんだな、そう思うと何者かに後ろから背中を押されたような気がして、微かな希望が湧いてきた。
広志が着替えを済ませると、ジムの会長である山本が奥の会長室から姿を現した。ホームページで見るより小男で、やたらと顔が大きく見えたのは章司だけだろうか。ただ、5年前まで日本一位だっただけあって腕やら脚には筋肉が隆起していた。
会長は10組ぐらいの体験入会者に一礼をすると、近くに歩み寄って来た。
「これが、元 日本一位か・・・」
章司はあまりよく分からないまま、敬意の念を抱いていた。そもそもボクシングそのものをほとんど知らない。広志は、既に羨望の眼差しで驚嘆の声を上げていた。息子のあんな輝いた目を見たのはいつ以来だろうか。少なくとも妻が亡くなってからは初めてだろう。章司は少し嬉しく思った。
「はい。では皆さん、元、日本バンタム級一位の技術を存分にお伝えしましょう」
山本はそう声高らかに宣言をし、赤いボクシンググローブをはめた。鍛え抜かれた身体に張り付いたようなTシャツと短パン姿で屹立していた。猛禽類のように鋭い眼光を湛えていた。今現役選手だと言われても誰も疑いの余地は抱かないであろうと思ったのは章司だけではあるまい。ただ、バンテージの上からグローブをつけただけなのに凄い迫力だった。
「さあ、どうぞリングに上がって下さい」
そう山本が子供達に促すと、先ほど玄関で迎えてくれた元東洋一位の男性も一緒に上がった。彼はフィリピン人らしい。
山本の指導は丁寧かつ熱心なものだった。手取り足取り細やかなところまで気がつく人柄であることが昭次は理解出来た。名選手でありながら、名指導者にもなるだろうと。
「はい。ジャブはボクシングの基本中の基本です。ジャブを制する者は世界を制する、と具志堅先輩も言ってます」
山本は沖縄出身らしい。ただ、具志堅用高とはあまり親しくは無く、連絡先も知らないそうだ。
リング上の広志は水を得た魚のようにボクシングを楽しんでいた。天職を見つけたサラリーマンのように、目を輝かせて、躍動していた。
小さな体を目一杯使って両腕、両脚を見事に使いこなしていた。
「いいよ。広志君! なかなかセンスあるよ」
山本はお世辞なのか、本心なのか分からぬ賛辞を伝えていた。章司は嬉しくもあり、不安でもあり、と胸中は複雑だった。広志がそのままの言葉を受け取ると、ボクシングを続けなければならなくなるからであった。ふと、こんな時に亡き妻である富士子がいれば、と思わずにはいられなかった。格闘技を忌み嫌っていたからだ。広志は生粋のマザコンだったから、富士子の力があればきっとボクシングを回避出来たかもしれないと、まるで章司は心の中で無いものねだりをした。
約2時間ほどの体験会はスムーズに終わった。さすがは元日本一位だけあって、卓越した技術と研ぎ澄まされたオーラに参加者全員は圧倒された。まばゆいばかりの華やかな世界にいたとは思わせないぐらい親近感を抱かせる人間性も、山本は持ち合わせていた。
ただ、章司は人を殴ることにまだ抵抗感を持っていた。息子の純粋なキラキラと輝いた目は殴ることへの憧憬ではあって欲しく無いと、やはり思った。これから帰宅路で何を話そうか、やっぱり妻がいないと心細いと感じると同時に、その喪失感が激しく襲ってくるのを耐えきれない思いでいた。
参加者全員が入会の申し込みをした。山本と元東洋一位のフィリピン人男性は素早いフットワークを駆使して、申し込み書とボールペンを差し出した。
「田中広志君もどうですか?」と半ば強引に山本は入会を勧めてきた。章司は躊躇した。少し後ろを振り向いた。もちろん誰も立ってはいない。当然、亡き妻がいないと分かっていたが、誰かにすがりたい気持ちだった。
「パパ。僕も、入会したい。山本会長みたいにNO.1になりたい!」
広志はまるで洗脳されたように「NO.1」を合言葉のように連呼して。もちろん、入会したからと言って誰もがNO.1になれるわけでは無い。目の前に山本がいなければ「ボクシングには生まれ持った才能だって必要なんだ」と父として息子に言ってあげたかった。
息子の思いに応えてあげたい思いと、息子が殴られて泣いている表情との板挟みになっていた。(やはり今日は入会をさせられない)章司はそう思った。
「なあ、広志。今日は帰ろう。居間の仏壇にいるお母さんに訊いてからにしよう」
章司にとっては勇気を振り絞った一言だった。
「うん。分かった」
こう言うなり、広志はベソを掻き始めた。自分だけがこの世で一番の不幸者であるかのように、今日入会申し込みが出来ないことを呪った。
「ごめんな、広志・・・」
そう言うと、親子二人で静かにリングを降りた。広志がずっと号泣するのを見て、章司は胸が詰まりそうだった。この数時間で何度も妻が頭の中に、そしてこのジムの空間域にうっすらと現れたような錯覚を覚えた。
ジムを出て、広志は一言もボクシングの話をしてこなかった。思いのほか、体力を使ったからだろうか。帰宅して、広志はすぐに眠った。何の夢を見たのだろう。ボクシングの夢か。ボクシングの夢なら、また起きてから入会についてしつこくせがんでくるに違いない。次は何と言おうか。また、妻の力を借りようか。先々が暗闇に苛まれると途轍も無く、不安になった。章司も広志の横でしばし眠ることにした。章司の夢には、窮地を救ってくれた亡き妻が「私のおかげよ。褒めてね」と言って現れたのだった。妻は、神々しくも美しかった。
【了】