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ミス4.9の喉【エンタメ小説】

※本文17,941字。
※3年前のコロナ禍当時に書いた作品です。
※第六回大藪春彦新人賞応募作品(落選)。

 新型ウルトラウイルス感染症(UOVID--4.9)一日あたりの都内新規感染者数が初めての一万人超。
 ネットニュースを見た大西正恭(おおにしまさやす)の口から放たれる溜息数は日々最高数値を更新している。マスクを通して新しい価値観が作られていく。今どこにいる?何している?マスクを着けているだけでこんな定型文は古臭く感じる。答えなんか無くていい。この世にマスクがある限り、あの世との距離が縮まることはない。きっと自殺者は減っていくはず。しかし、世界はこのまま終わるかもしれない。

   *

 藤製薬でMRとして働くマサヤスは入社三年目の二十五歳である。二年前に超名門・慶怜大学の理工学部を卒業して入社した当時は意気揚々と製薬業界に入った。周りにはその安定性を羨む者もいた。
 しかし、二年前からのウルトラウイルス禍によって製薬業界は新たな転換期を迎えていた。
 医療機関によっては、医師とアポイントのない面会は原則禁止することも珍しくはない。来院者は一名ずつで、さらには来院者一名につき面談時間十分以内などと厳しい制限が設けられた。まるでMR封じのように、医療業界全体が包囲網を張っていた。製薬メーカーを取り巻く環境は日々厳しさを増している。
 志田病院は都内屈指の規模を誇る医療機関である。病床数は約八百床でウルトラウイルス患者も引き受けている。理事長を務める志田哲也は開業医としては名の知れた人物である。二年前までは東京都医師会の役員を務めていた。
 この日も業務の合間を縫って志田哲也はマサヤスを理事長室に招いた。マサヤスのような若いMRが直接折衝すること自体非常に珍しい。彼がマサヤスを高く買っている何よりの証拠である。
 「二年もの間、ウルトラウイルス禍が終息していないのは医学史における最大の汚点だと思う」
 返答に困ったマサヤスは「そうですか」とたった一言だけつぶやいた。志田は立ち上って、威風堂々と腕組みをしていた。
 椅子に座ったままのマサヤスはなかなか立とうとはしなかった。立とうものなら、学会で発表するぐらいの高い理論を述べなければならない雰囲気が理事長室内に漂っていた。
 マサヤスはこのような雰囲気が嫌ではないから、いつも志田の元を訪れている。
マサヤスは就職活動時にOB訪問をした際、仕事を通じて医師からさまざまな話が聞けることに魅力を感じてMRを志したという経緯があった。
 またやってるわ、と言いたげな長身の副理事長がパンツスーツ姿で扉の外から哀れみの目で見ている。副理事長とは志田の妻で医師免許は保持しておらず、主に経理を担当している。
 理事長室は窓が開いていた。二月中旬で春一番が例年よりも早く、そして強く吹いていることを感じさせないほど、マサヤスは志田の話を熱心に聞いている。
 「三回目のワクチン接種が進んでいないのに、政府はもう四回目の接種検討云々とか言ってるね」
 今日はこの話題が来たか、という表情でマサヤスは志田を見た。そうそう午後の打ち合わせ、と言いながら志田はマサヤスに背を向けて書類を取り出すと、座り心地が気持ち良さそうな大きな椅子に座った。
 志田理事長から診察をされているようだ、とマサヤスは思った。
 「志田理事長、私は三回目のワクチン接種を先週木曜日に済ませました」
 ややナーバスな話題と思いつつも、接種済みであることを申告したのはマサヤスなりに医師である志田に対して忖度したつもりだった。
 それを聞いた志田はマサヤスを睨みつけた。全身を突き抜けるような緊張が走った。
 「ウルトラ(ウイルス)マンか、仮面ライダーか何か知らんがあんなワクチン大っ嫌いなんだよ! あんな注射は私個人は認めてないからね」
 マサヤスは志田の突然の罵声に椅子ごと後ろに吹き飛ばされるほど驚いた。何とか椅子に座り直すと、額の汗を拭った。
 「打ったって、すぐに感染したり、その後遺症に苦しんだり、はたまた亡くなったり・・・。ワクチン接種の意味がないじゃないか!」
 志田はまた声を荒げたものの、それはマサヤスに向けたものではないとすぐに謝った。
 「志田理事長のおっしゃることはごもっともな見解だと私も思います」
 マサヤスは志田の皺を数えるかのようにまじまじと顔を見つめていた。
医師はいかなる時代でも人間を見ているのだと思った。どんな不治の病も、いかなる戦争も、起こりうることが到底予測出来ない大震災も、そして、ウルトラウイルス禍も。
さきほどまであきれ顔だった副理事長は微動だにせず、ジッとこちらを見ていた。それは、夫である理事長に対して敬意の眼差しを向けていた。その清冽かつ柔和な表情は、聖母が湛える尊顔に昇華しているようであった。

 会社に戻ったマサヤスは志田から言われたことが頭の中に粘着して、脳裏から取り除くことが出来なかった。
 「医師が認めないワクチンか」
自分はMRとして、医療業界に携わる者であるにも関わらず、医師が認めないウルトラワクチンを接種している。しかも、三回もだ。人としてもいたMRとしても自分はどうかしている。
マサヤスがそんな自己嫌悪に苛まれながら次週の行動計画を作成していると、同じ部署の係長である永沼が声を掛けてきた。永沼は入社十三年目のMRでマサヤスと同じ課の先輩にあたる。マサヤスが最も尊敬する存在である。
 「おい、マサ。今日は何か良いことあったか?」
 隣席の仕切りパーテーションから、白マスクを顎まで下げた永沼がヌウっと首を伸ばして、こちらを見ていた。あまりにも心配そうな表情だった為、マサヤスは一瞬驚いたような表情を見せた。しかし、ビックリしたおかげで我に返った。
永沼が隣席から覗くその様は周囲から「妖怪か!」と突っ込まれる。通常であればマサヤスも恐る恐る突っ込むのだが、今日はとてもそんな気分にはなれなかった。「はい今日は色々と」と言ったマサヤスに、永沼は、「金曜日の夜ぐらい暗い顔をするな」と励ました。若干三十五歳にして、まるでタコツボのような頭をペシペシと二度ほど叩いた永沼は「明日とあさってはゆっくり休め」と、さも決裁権がある者であるかのような、その物の言い方をした。明日とあさっては元々暦上の休暇、とつぶやいたマサヤスは夕令に参加する為に席を立った。
 夕礼が始まる前に会社全体がやけに騒がしい。いつもになく他部署の者同士がヒソヒソと話をしている。沢山の噂話が一つの大きな塊になり、いつもの夕令が飲み込まれていくのをマサヤスは感じた。会社で噂話をする時は男も女二人に囲まれて女々しくなるとマサヤスが思っていると、永沼が声を掛けてきた。今日の夕令は役員からの発表形式のものに急遽変更されたという。
会議室にはMRを中心に集まった。執行役員を先頭に人事部長、製造部長、東京支店長、MR課長らがいた。会議室にいる全員に緊張が走る。
 執行役員が咳を一つして、話を始めた。
 「みんなに今日集まってもらったのは他でもない。更なる感染拡大を防ぐべく、我が社がウルトラウイルス治療薬を開発した。一般用医薬品ではなく、中等症患者から重症患者まで対象とした医療用商品という位置付けだ」
 会議室に集まった社員達の多くは歓声をあげた。ウルトラウイルス患者に適応出来る治療薬として国内ではまだ九例目の国内承認なら分からないまでもない。
予想していた騒がしさに小谷人事部長がすぐさま右指を差して偉そうに注意をした。
 執行役員は続ける。
 「厚生労働大臣と審議会の承認も無事終了し、後は社内での最終調整が終わり次第報道各社へのニュースリリース発表という流れになる」
 会議室に集まった誰もが執行役員を敬意の眼差しで見つめていた。そんな中で永沼やマサヤスら数名は悲壮感を漂わせて口を真一文字につぐんでいた。
 藤製薬では、近年主力商品が競合他社に比べ軒並み売り上げを落としている。ウルトラウイルス治療薬は社運を賭けた一大プロジェクトと言える。「またどうせ販路はMR頼みのだろうよ」と永沼がマサヤスに軽く耳打ちをした。マサヤスはその言葉に強くうなずいた。
 「何より、世間の期待が大きい。社員の皆さんは社会的貢献度が高いというプライドを持って挑んで頂きたい」
 執行役員は大きな腹をさすって、自信たっぷりに述べた。すぐさま、MR全員をジロリと睨みつけた。
 結果が出なければMRだけが叩かれる、マサヤスは執行役員の眼光の鋭さが何を物語っているかを考えた途端、急に頭痛がした。何かを思い出し、左右を見回した。すると、持っていた鎮痛剤を一錠を素早く喉に流し込んだ。
 中堅製薬メーカーである藤製薬が起死回生のウルトラ治療薬を世に放つことは、企業として生き残りを賭けるぐらいのリスクがある。経営資源から投入された開発費用は軽く億単位だろう。
だから、マサヤスには新商品発売への高揚感は全くない。
 会議室を出て、部署ごとの夕礼が始まった。東京支店長である碇谷が口を開いた。
 「ウルトラウイルス治療薬を大量販売につなげる為には、常日頃からの担当ドクターとの関係性を強化しておくことは言うまでもない」
 押し売り一辺倒のMRは敬遠される。深い商品知識、見識があるのはもちろん、いかに医師のかゆい所に手が届いたか。
 『いざと言う時に医師を味方につけられる力』を身に付ける為には普段からの信頼がモノを言う。地味で過酷な世界だ。
 ほとんどの者は先ほどの執行役員の話を自身で反芻し、咀嚼し、すでに頭の中でウルトラ治療薬の販売行動計画を練っていた。
マサヤスは天井を一度見上げてから視線を正面に向けた。その途端、碇谷とタイミング悪く目が合った。
 「マサいいか!俺の話を聞いているのか!」
 碇谷はマサヤスが自分の話を上の空で聞いていたと勘違いした。
マサヤスは、再び碇谷の両目に視線を合わせ「ハィっ!聞いております」と思わず声が裏返った。中・高・大と陸上をしていたマサヤスは、まるで練習中に怒られた時のような返事をした。
 「マサ、ドクターに尽くすんだぞ。ドクターが喜ぶことをしろよ。ドクターの為に・・・」
 碇谷はそう言いかけたところ、大きな咳をし、話は途切れてしまった。
碇谷はマサヤスをジッと四十秒間は見続けていただろうか。マサヤスに期待をしているからこそ、この時、皆の前でハッパを掛けたのだ。
碇谷は入社三十年目のベテラン社員でマサヤスにとっては雲の上の存在で、近い将来の役員候補でもある。
 普段、マサヤスは面と向かって碇谷と話すことはほとんどないだけに、彼の人間性をあまり知らない。保守的な人物、という話をマサヤスは永沼から聞いたことがある。さらには役員連中へのお歳暮は絶対に欠かさないが、部下へ食事をご馳走したのを誰も見たことがないというのが専らの噂だ。出世志向が碇谷の保守精神をしたたかに育んでいる。

 後日、志田を訪問したマサヤスは思わぬ質問を受けた。
 「大西君は付き合っている人はいるの?」
志田が何を意図して話しているのか、全く分からず「今は必要ありません」と返答をした。
まだ二十五歳の若手MRに彼女がいないのは至って普通の事である。
 マサヤスだって一人の独身男性だ。ソープランドに行ったことぐらいはある。ただ、プライベートで女性と付き合ったことはない。俗に言う素人童貞なのである。マサヤスはこの時は浮いた話を嫌がり、一度は話を逸らそうとした。
 「志田理事長、今日のウルトラウイルス新規感染者数は」と言いかけたところだった。
 「過去には、いただろう?」
 志田はなおもしつこく食い下がって来た。
彼がマサヤスのプライベートについてここまで訊くのは初めてだ。
幾多の患者からの難問に答えてきた志田がマサヤスの女性遍歴を知りたがっていた。
口車に乗せられたマサヤスは、女性と付き合ったことがまだ一度もないことを伝えた。さらには一昨年からのウルトラウイルス禍を発端とした、MRとしての切実な悩みまで話しをした。
 志田は観音像のごとく優しく微笑み、マサヤスの目を見つめて言った。
 「大西君は慶怜大学理工学部出身で、御社で将来の幹部候補者だと聞いている。MRとしてさらに成長する為にも彼女ぐらいいたっていいじゃないか」
 マサヤスは驚いた。志田は一方的に話す人というイメージだった。印象が明らかに変わったばかりか、一人の人間として考えてくれていたことが嬉しかった。  
 マサヤスがそんなことを考えていたら、突然、スタイルの良い、白いワンピースを着た女性がマサヤスの眼前に現れた。
最初は秘書が誤って理事長室に入室したのかと思ったが、そうでは無かった。志田の実の娘だったのだ。両目で何度も瞬きをしていたマサヤスは、まさかと思った。
 志田が説明をした。
 「うちの娘の真希だ。今年三十五歳だから大西君よりだいぶお姉さんだな」
 真希は実年齢を言われた途端、急にムスッと不機嫌そうな表情をした。
その表情を見た志田はゴメン、ゴメン、と右手を軽く上げて、真希の右肩をポンポンと軽く叩いた。
 真希は三十五歳にしては驚くほどの童顔だった。その幼い表情にも時折美しさが垣間見えた。個人的に、マサヤスは十歳年上はいわゆる異性として考えたことがない。ただ、その美貌はマサヤスにとって衝撃的だった。あんな美人に恋人の一人や二人はいるだろうと。
 志田は意外な提案をしてきた。
 「お互い、独身者で、恋人がいない者同士なんだから連絡先の交換でもしなさい」
 最初、マサヤスは右手を軽く振って拒否をしたが、真希はその気になったようだった。
マサヤスは連絡先を伝えなかった。正直なところ、最後の最後までどうしようかと逡巡していた。逆に真希は連絡先を書いたメモを渡してきた。その表情には焦りの色が見えた。

 その夜、帰宅したばかりのマサヤスのLINEに真希から連絡があった。一度二人で会いたい、とのことだった。マサヤスは熟考した挙げ句、真希とは連絡を取らないという判断をした。会社にとって志田病院は最も大切な顧客である。自分の軽はずみな行動が万が一の悪事につながれば取り返しのつかないことになる。独身男女同士が交われば、一体どうなるかぐらい恋愛経験がないマサヤスでも理解している。しかも今は、会社にとって大事な時期でもある。
真希へは、
  本日はありがとうございました。
ご連絡頂き、誠に恐縮しております。
ウルトラウイルスが感染再拡大しつつあります、
感染にはくれぐれもお気をつけてお過ごしください。
 と当たり障りのない内容をライン返信した。
 ウイルス禍を盾にして断ったつもりだったが、またすぐにラインが返ってきた。
 「やっぱり、会えないでしょうか?」
 マサヤスは、ホットコーヒーの入ったカップを持ち上げたとたん左手人差し指をヤケドしそうになった。結婚を急いでいる女性は積極的になる、とマサヤスは何かの雑誌で見たことを思い出した。
 (分からない人だな・・・)と思ったマサヤスは返答をしないまま放っておくつもりだった。
 それから数分後、また真希から会いたい旨のLINEが入った。
今度は、
会えませんか?
会ってもらえませんか?
会っていただけませんか?
と規則性を伴って言葉を綴ってきた。
 マサヤスは志田哲也を思い出し、誠実に対応しなければならないと考えた。マサヤスは突然、得体の知れない強迫観念に襲われた。
それにも関わらずマサヤスは、
落ち着いてからにしましょう。
また、こちらから連絡させて頂きます。
と、言い逃れるようにラインを返した。
 しばらく経っても真希からのラインが無かった。ようやく諦めてくれたんだ、とマサヤスはホッと胸をなでおろした。
志田理事長の大切な愛娘に中途半端な対応は良くないとマサヤスは思い直した。
 その夜、なぜかマサヤスの夢に真希が出てきた。
理事長室で志田が右手で真希の肩にボディータッチをして笑いながら謝った、その印象的なシーンであった。真希は夢の中でもムスッとしていた。マサヤスは微笑ましそうな表情でウンウンと首を縦に振っていた。マサヤスにとって、志田真希とは脳裏から離れない存在だったのである。
  翌朝、出勤したマサヤスは志田から実娘を紹介されたことと、これまでの経緯を会社に報告しようとした。またラインがいつ何時くるか分からないという恐怖感があった。少なくとも、真希から次回のラインが来るまでは報告をして、記憶から消し去りたかった。
 「思いもよらない御紹介に悩んでおります」
マサヤスは感情を決して出さずに淡々と上司の碇谷へ報告を行った。最初、碇谷はマサヤスの話が信じられなかった。だが、マサヤスの真剣な眼差しを見て、それが本当だとようやく理解出来た。
しかし、マサヤスは碇谷の発した言葉に耳を疑った。
 「上手く振る舞え」
 今のままでは志田理事長に合わせる顔がない、とマサヤスはとっさに思った。
本当に関わりたくないと思ったならば、辞表を持って刺し違えてでも訴えかけるべきだったと後悔した。自分の行動力の無さ、何より優柔不断な性格を激しく嘆いた。同行訪問なのか、直接電話なのか、手法は何が最適なのかは分からなかったがとにかく助けて欲しかった。マサヤスが求める回答を碇谷から引きずり出すことは出来なかった。自分は碇谷からは信頼を集められていないMRなんだ、とマサヤスは猛省した。
 その日の帰宅途中、マサヤスが電車に乗っていると見覚えのある女性が斜向かいに座っていた。
 地味なハットをやや目深に被り、サングラスにマスク姿。いかにも怪しい雰囲気で、黒のサングラスから大きな瞳がのぞく。
 「志田さん、志田真希さん?」
マサヤスから声を掛けられた真希は最初は「いえ、違います」と答えた。
まさかな、マサヤスは心の中でつぶやいた。
 何も無かったかのように電車を降りたマサヤスは人の気配が少ない、草が生い茂った道端を歩いたその時だった。真希が慣れた様子で右手でサングラスを外して、後ろからマサヤスに声を掛けてきた。
 「大西さん? わたしです、志田の娘です」
小さな顔から、存在を主張するかのように大きな瞳がクリクリと動いていた。
絵に描いたような美女だと、改めてマサヤスは心の中で感嘆した。女優の誰かに雰囲気が似ていると思ったが、緊張のあまり名前が浮かばなかった。先日の病院での初対面時よりやや化粧が濃かった。両頬にはピンク色のチークがやや濃く塗られていた。化粧の濃さが故に、マサヤスはこの日ばかりは女としての色気を感じた。
それでも、実年齢とは明らかにかけ離れた顔立ちの幼さが印象を醸し出していた。
先ほどの電車の中の斜向かいに座っていたのは、やはり、真希だった。しかし、なぜサングラスをかけていたのか?マサヤスは甚だ疑問だった。
訊くと、真希は高校生の頃、準主役としてミュージカルに出演した経験があるという。元舞台女優だった。目深に被った帽子にサングラス姿は華やかな世界に未練が残っているのか、単に世間と自分とを切り離そうとしているのかはマサヤスには分からなかった。何より、電車の中で見た女性が間違いでは無かったことに安堵した。真希とは違う女性に声をかけて、最近よくある痴漢と間違われてしまっては厄介だ。
 「この前はごめんなさい。何度もラインを送ってしまって」
ひたすら頭を下げる姿が不思議にも絵になるとマサヤスは思った。
マサヤスが恐縮するぐらい、真希がオーバーに謝る為、思わずマサヤスも早口で「ダイジョウブ、大丈夫、大丈夫です」と返事をした。ここ数日連絡が無かったから父が心配してましたよ、と真希は間髪を入れずに言葉を返してきた。
マサヤスはそう言われた途端、志田哲也の顔が脳裏に浮かんだ。
 これでまた志田理事長に連絡が出来る。こう思ったマサヤスは真希に御礼を言った。
マサヤスが立ち去ろうとすると、
 「今度食事でも行きませんか?」とチークを塗った頬をさらに赤らめながら言って来た。
向こうからの思わぬ誘いにマサヤスは最初驚いたが、この時は食事ぐらいなら大丈夫だろうと考え、後日、会う約束をした。

 ある日の夜、仕事終わりに真希と食事の約束をした。
店は真希が店長と知り合いだというオシャレなイタリアンレストランだった。
店に入るなり真希は慣れた様子で店員に声を掛けた。『予約席』と書かれた紙が貼ってある個室席に座った。真希は座席に座るやいなやマサヤスに質問してきた。
 「大西さんは、お酒はいつも何を飲むのですか?」
 「社内の飲み会ならハイボールとか飲みますよ。最近はウルトラウイルスのせいで一年ぐらい行けてないんですけど」
 「じゃあ、今日は久しぶりなんですね? わたしも外食は一年振りぐらいなので同じですね」
 ウンウンとマサヤスがうなずくと真希は少女のようにエヘヘと笑った。童顔には不釣り合いな無数の小皺が見えた。
 飲み物はマサヤスがハイボール、真希はモスコー・ミュールを選んだ。
料理は男性店長から勧められたメニューをオーダーした。
 「志田理事長には普段から本当にお世話になっていて、勉強させて頂いています」
 マサヤスは謝意を伝えた。真希の顔が、志田哲也に見えた。
 真希は自らの携帯電話で検索を始めた。指には薄いピンクのマニキュアが塗られていた。
 「これ私です」自己顕示欲が強いのか、それともただ自慢をしたかったのか、舞台女優だった頃の画像を突然マサヤスに見せてきた。青色を背景にカメラ目線で笑う真希十七歳の頃の宣材写真だった。当時は『南玲奈(みなみれいな)』という芸名だったという。何があったのか、マサヤスがなにげなく思っていると真希は少しうつむき加減になり、告白でもするかのように話し始めた。
 ―自分の思うような演技が出来なくなり、鬱病になった。やはり聞くべきではなかった、とマサヤスは後悔した。突然何者かに取り憑かれたように、真希は表情が暗くなり無口になった。
 「大変お待たせしました」
注文したドリンクと料理がイケメンの男性店長によって運ばれてきた。ピザ、パスタ、シーザーサラダは二人分が取り分けられていた。真希は「美味しそう」と小声で一言だけ発してから、また無口になった。真希が食事をする姿は高貴かつ、品格があった。理事長令嬢だけあって礼儀作法はしっかり仕込まれたようだとマサヤスは思った。
腕時計で時間を確認したマサヤスは「明日朝早いので」と真希に告げた。彼女は寂しそうな表情をしていた。マサヤスの焦る顔を見て、残っていたドリンクを飲みほした。マスクを着けるタイミングで「大西さん、今日は楽しくなかったの?」と言った。マサヤスも同じタイミングでマスクを着けた。
 「すみませーん、お会計お願いします」と言い、全く聞こえないフリをした。
真希は酔っていたせいか、瞼が垂れ下がっていた。店内を出た真希は千鳥足で歩いていた。久しぶりの酒が体にはキツかったのか、ろれつが回っていなかった。
 信号を渡りきろうとするところだった。真希が誤って縁石に左足を引っ掛けてしまった。体がバランスを崩した瞬間、バタンという大きな音と共にコンクリートの地面に前のめりになって転倒した。起きあがらせようとマサヤスが真希の肩を自らの肩に乗せた。しかし、あろうことか真希の全体重が肩に乗ったマサヤスも連鎖のように転倒した。
 起き上がったマサヤスは真希に一度背を向けた。転倒した際にスーツのズボンに付着したゴミを右手で払う為だった。
 その時、真希がまるで貞子のように長い髪を垂らしうつむいた表情で起き上がった。正面に向き直ったマサヤスは驚いた表情で真希を見た。
「大西君は年上の女性は嫌い?」
突然こう言った真希は、髪をかき上げて微笑していた。すると、何を思ったのかマサヤスを正面から抱きしめてきた。普通歩行すら困難なはずの真希は、実は意識がはっきりとしていた。突然の抱擁に驚いたマサヤスは周囲を見回した。人の気配がないことを確認した。マサヤスは二重マスクを鼻まで着けた。逆に、真希はマスクを外した。真希のレインボー柄のマスクは飛ぶ力を失ったアゲハ蝶のようにヒラヒラと地に舞い落ちた。
 翌日、翌々日とマサヤスは真希と逢瀬を重ねた。自分の立場や誰と何をしているかなんてどうでも良かった。  
会社への報告なんて遠い昔の事のように思えて、い忘却の河に流されていた。
 先に求めて来たのは真希のほうである。独身者でかつフリーなんだから俗に言う浮気や不倫ではない。法律的にとがめられる理由は何もない。
当人同士だけの問題だろう、ぐらいにしか考えていなかった。

 志田病院へは欠かさず定期訪問をしていた。
背徳をヒシヒシと感じながらも、まずバレるわけがないという強い自信があった。
なぜなら、真希には口止めすることで肉体関係を構築していたからである。強い信頼関係があった。万が一、とがめられるものなら「先に求められた」と主張するつもりだった。
マサヤスにとって真希とは恋愛や結婚の対象ではない。完全に割り切った関係とはこうも空虚で軽薄なものだ。
 マサヤスは変わってしまった。平日の勤務時こそ真面目に勤しんでいるが、週末ともなれば真希と逢瀬を重ねた。
その日も朝まで真希とセックスをして、一睡もせずドライブを楽しんでいた。
 突然、運転席からマサヤスは言った。
「俺たち、いつまでこの関係が続けられるのかな?」
 マサヤスにとっては何気ない一言だったが、聞いている真希は突然不機嫌そうな表情を見せた。
 「もしかして、私に飽きたの?」
 マサヤスは真希が激昂しているのを収めようと、必死になだめた。
真希が一度怒るとなかなか収まらないのは、父親譲りの遺伝子のせいなのかと。
先日、志田が理事長室で政府の感染拡大対応について激昂していた時を思い出した。
とりあえず真希の怒りが収まるまで話を聞こうと頭の中で考え、聞き役に徹することにした。
 真希の顔色は怒りで真っ赤に硬直していた。マサヤスは出会って初めて真希が年相応の女性に見えた。
真希は叫びながら言った。
 「あの時、電車の中で声を掛けてきたのはそっちのほうでしょ?あれが無ければ、私はあなたとこんな関係にはならなかった!」
 マサヤスはハッとした。確かにあの夜、電車での邂逅で彼から声を掛け無ければ真希と二度と会うことは無かった。
ただ、その後、恋愛経験豊富な年上女性を演じ、素人童貞のマサヤスをたぶらかせたのは真希である。しかも、お酒の力も借りて。
やはり、何があってもこのアリバイに帰結出来るとマサヤスは思った。
また、志田哲也のことが頭をよぎったが(あまり意識しないでおこう)と軽い気持ちでいた。
 自分が弄ばれたんだ、という気持ちをマサヤスは持っていた。自分こそが被害者なんだ、と。マサヤスは目の前のコインパーキングに駐車し、四十分程話を聞いた。真希は納得出来なかったのか「じゃあ、これで」と突然、徒歩で足早に歩いて去って行った。最初、マサヤスは引き留めたが、怒り狂った真希は聞く耳を持っていなかった。
いずれにせよ、後味の悪い別れ際になってしまった。
 翌日、会社に出社したマサヤスは碇谷に呼び出しを受けた。マサヤスは嫌な予感がした。
 部屋に入るなり碇谷がこう切り出した。
 「今朝、志田理事長から会社宛に電話があった」
 マサヤスの体に戦慄が走った。
 (まさか、あの女・・・)とつぶやいた。
 「お前、志田理事長の娘さんを弄んだのか?」
 碇谷は鋭い視線をマサヤスに向けた。
 マサヤスは怒りが込み上げてきたが、冷静に説明をすることが今は一番必要だと思った。不思議とマサヤスは落ち着いていた。
 「碇谷支店長、弄ばれたのは私のほうです」
 碇谷は予想外のマサヤスの返答に、困惑した表情をした。
 「それは一体どういうことなんだ?」
 「肉体関係を求めてきたのは、向こうなんです」
 マサヤスは冷静さを保っていた。何より焦って早口になったり、それに伴って間違ったことを言うと、疑いの目で見られると思ったからである。
 一見すると、肉体関係といういかにも怪しい事案だが自分に非はないと確信していたのである。
碇谷いわく、本来ならば今日にでも志田病院を訪ねるつもりだったそうだ。しかし急遽、志田に二週間ほどの出張予定が入り、訪問日時はまだ設定出来ていないと言う。一方で真希は鬱病を発症し、自宅で療養中だという。あの女は仮病を使ってやがる、とマサヤスは苦虫を潰したような表情になり、右手に持っていた手帳を強く握りしめた。短い期間ではあったが、肉体関係を結んでいた者として真希の性格や人間性ぐらいは理解出来たつもりだった。
約束した時間に平気で嘘をついて遅れて来たり、仮病を使ってわざとデートをすっぽかしたりということがあった。(最も顕著な例だとセックスの時は・・・、あの声で・・・、あの話を・・・)と、マサヤスは思い出していた。
すると、碇谷が何かを思い出したように椅子から立ち上がった。朝令の時間になったらしい。
黒い噂は今のところは流布されていない。社内でマサヤスのことを白い目で見ている者はいない。(大丈夫。大丈夫だ)心のなかで何度も何度もつぶやき、マサヤスは気分を落ち着かせた。
 昼休みになりマサヤスは一人で会社近くのコンビニに来た。永沼からの誘いを振り切った。
とにかく、一人で考えたかったのである。
マサヤスは店内で商品を物色しながら考えた。真希は何の目的があって志田理事長へリークしたのだろうか、肉体関係だけが目的のはずだったのに。むしろ、二人の間柄が肉体関係のみだったことが公になることは、理事長令嬢である真希にとっても都合は良くないはず。
(世の中で尻軽女であることを良いイメージで捉える人なんかいないだろう)とマサヤスはつぶやいた。視線の先はコンビニ女性店員が背を向けて商品を並べていた。マサヤスは、コンビニ女性店員の薄黒ジーンズの尻部分が破れるぐらい凝視をした。すぐ後ろを振り返ると雑誌が陳列されており、【見られてますよ、あなたの立ち読み!】と書かれた張り紙が貼られていた。
マサヤスは四十分間も滞在しておきながら何も買わずコンビニを後にした。
  マサヤスがオフィスに戻ると、永沼が一人寂しそうにコンビニのウインナー弁当を食べていた。
ケチャップがかかったウインナーが五本入っている人気弁当である。
永沼がウインナーをおちょぼ口で食べる姿は、彼の風貌も相まって深い哀愁感がある。弁当を食べているだけで語り尽くせるのはレジェンドだ、とマサヤスが考えていると永沼がいつもとは逆に首を引っ込める動きをして話掛けてきた。
 「マサ何かあったか?」
 一瞬ヒヤリとしたが、永沼は内容は全く知らないと言う。朝、打ち合わせルームの前を通り過ぎた時に偶然「志田」と聞こえただけだと言う。
マサヤスは少しだけ安堵し、話題を逸らせようとした。マサヤスが業務上の相談をしようとした矢先に、永沼が「話したいことがある」とマサヤスの話を遮った。
 マサヤスは、嫌な胸騒ぎがした。
 入ったそこは個室の打ち合わせルームだった。他の社員に聞かれてはまずいから、と言ったところで永沼は頭をかかえる仕草をした。
話を聞くと、永沼はまだ二十七才の時にある女性と肉体関係を結んでいたという。年齢的には今のマサヤスと同じぐらいだ。
しかし、些細なことでケンカになってしまった。後日、永沼からその女性へ一方的に関係解消を告げた。
 そこからが修羅場だった、と永沼は言うなり、目が涙目になっていた。マサヤスは平然と永沼を見ていた。
 「会社にその女性から突然電話がかかってきてさ、向こうは『結婚を前提とした付き合いだった』と主張したんだよ」
 マサヤスは何も言わず黙って聞いていたが、頭では今の自分に置き換えていた。いや、置き換えなくてはならなかった。
 「何の紙も届出もない、男女同士の関係はただの口約束でしかない」
 永沼は突如深いため息をついた。顔が真黒に日焼けした彼の白マスクはモコっと膨んだ。唾液がマスクの隙間から少し漏れ、糸のように垂れた。残り息を失った白マスクは淋しそうに萎んでいった。
 「だから、俺は、それが原因で女性恐怖症になった。トラウマになった。一生、女性とは一緒に住めない」
 生きることを諦めた修行僧のような表情で「女性の執念は深い。今でも時々、当時の場面が夢に出てくる」と永沼は言った。
 「マサ、お前はまだ若いんだから気をつけろよ」
 こう言って永沼は小さな瞳をカッと大きく見開いた。苦労人の行き着いた果てなのか、はたまた遺伝なのかは分からないが見事なツルツル頭を永沼は右手でなで回した。永沼係長は三十五才にして達観しているとマサヤスは思った。
永沼は自身の過去を最後は笑い話にしたつもりが、シリアスな話になってしまったと後悔した。
マサヤスは永沼の話を内弟子のように黙って聞いていた。一度もニコリともせず、表情は終始冴えないままだった。個室の窓から刺していた夕陽の日差しは、ちょうど窓際にいた永沼の上半身に隠れて見えなかった。
 永沼が席を立った途端、日差しがマサヤスに鋭く刺した。それは夕陽の放つ日差しではなく、実は、永沼の後光だったような気がした。
マサヤスは永沼に畏怖の念を抱かずにはいられなかった。
 
 二週間後、マサヤスは碇谷と共に志田病院を訪ねた。菓子折りの一つでもと、会社から向かう途中に一箱五千円はする高級モナカを購入した。
三月末にも関わらず、真夏のような猛暑日だった。黒色のスーツが必要以上に陽の光を浴び、これでもかと言わんばかりに二人の足元を鈍くさせた。いっそうのこと止まない雨でも降って欲しいと、この日のマサヤスは思っていた。
 十四時である約束の時間よりも一時間前ぐらいに病院の最寄り駅に到着し、駅近くの喫茶店に二人は入った。
 店に入るなり、碇谷は喫煙スペースで何かに急かされるようにたばこを吸っていた。 
ミスター藤製薬と呼ばれるだけあって、喫煙姿がまるで昭和の映画俳優のように様になっていた。
マサヤスが遠目で見た限りでは十五分程度で二本は吸っていた。碇谷支店長の喫煙歴は何年なのだろうか?とマサヤスはフト思った。マサヤスはたばこを吸ったことがないので、碇谷の気持ちは分からない。逆に碇谷はたばこを吸っていない時期はあっただろうから、マサヤスの気持ちは分かるだろうと思った。そう思うと、マサヤスは妙な親近感が湧いた。
 そんなことを考えている間に注文したアイスコーヒーが男性店員によって運ばれてきた。
「大変お待たせ致しました。ご注文のアイスコーヒー二つですね。ご注文は以上でよろしいでしょうか」喫煙後、トイレに寄った碇谷は席に戻って来るなり、
 「オマタセ、オマタセ。ワルイ、ワルイ」
と右手を軽く振るしぐさをした。
 時間はそんなに経っていなかった。むしろ悪いのは、マサヤスのほうだった。
事情はさておき、今日の謝罪訪問はマサヤスが発端なのだから。ウイルス治療薬の販売経路が皆無に等しい藤製薬が、MRにいきなり高い売上ノルマを課したところで大苦戦するのは目に見えている。ウイルス関連製薬は将来的に熾烈な争いになる。現時点で藤製薬が高いシェアを奪取することは夢物語に過ぎない。ウイルス治療薬よりも、ウイルスを抑制する市販薬のほうが業績不振を打開出来るのではないかとマサヤスは考えている。
もし将来的に藤製薬が市販のウイルス抑制薬を開発すれば、広い人脈を持つ志田からの紹介だって得られただろう。(志田理事長・・)と思ったところで、マサヤスは激しい自責の念に駆られた。
今はコーヒーを飲んだところでどうせ苦味しか感じないだろう、と思った。コーヒーは一口も飲まずに、アレルギー性鼻炎薬一錠を冷水で流し込んだ。目の前に座っている碇谷はシロップをたっぷりとかけて美味そうにアイスコーヒーを飲んでいた。
 碇谷はアイスコーヒーを飲み終わるやいなや、怪訝な表情で「客も増えてきたし、感染しても困るから店を出よう」と切り出してきた。マサヤスは店内をグルリと見回したが客は増えていなかった。むしろ客数は変わって無かった。   
ただ単に支店長は話がしたく無かったのだろう、とマサヤスは思った。
ただただ、虚無感だけがマサヤスを覆った。
 喫茶店を出て、志田病院に到着した。
自分はまな板の鯉状態だ、とマサヤスは思った。
昨夜は不安と緊張感で一睡も出来なかった。
この日ばかりは、自らの身がどうなろうとも全てを受け入れる覚悟でいた。この二週間は逃げ出したい気持ちがずっとあった。
何より先日、永沼の話を聞いてから数日間悩んだ挙げ句、真希に訴えられるかもしれないと思うようになった。現在、真希が鬱病を発症し、療養中ならばなおさらだ。
 碇谷は受付の二十歳台前半ぐらいの女性に何度も同じ言葉を繰り返し、平謝りをしていた。受付の女性は不思議そうな目で碇谷を見ていた。持参した高級モナカはその女性に手渡した。
受付の女性から理事長室を案内された。
換気の為、扉が開いたままの理事長室をマサヤスが覗くと、志田が足を組んで背中を大きく反って待ち構えていた。眼光は今にも突き刺さるほど鋭く、怒りに満ちた険しい表情だった。
碇谷は入室するなり、ほこりまみれの地面に額を擦り付けるように顔面蒼白で土下座をした。それを見たマサヤスも、無意識のうちに土下座をしていた。
 「この度は、ご迷惑をお掛けして大変申し訳ございませんでした」
 碇谷は頭頂部からわずかに生えている白髪がはっきり見えるほど、しばらく頭を下げて続けていた。長身イケメンで役員候補の碇谷が見せる無残な姿だった。マサヤスは、自分は末端の人間だという表情をして涕泣していた。
土下座の間、二人は地面に付着したほこりやら薬品の匂いを嗅ぎ続けた。
志田は、二人の土下座姿を高級そうな椅子から一瞬も視線を逸らさずに見ていた。
 「もういいです。頭を上げてください」とあきれ顔で、志田は声を掛けた。
 頭を上げた二人は、志田に言われるままに理事長室に用意された椅子に座った。椅子はなぜかヒンヤリと冷たかった。
 この世の終わりのようなどんよりとした空気が漂う中、志田は重いその口を開いた。
 「娘を紹介した私が、余計なことをした」
 志田はうつむいてセリフ口調だった。
 「志田理事長・・・」
 椅子から身を乗り出して、こう言ったマサヤスを碇谷は静止した。碇谷は、お前は引っ込んでろ、と言わんばかりにマサヤスの手首を強く握った。
 「弊社の大西が志田理事長の娘さんを騙したんです」
 (騙した?自分が?)
 マサヤスは呆れた表情で碇谷を見つめて、ため息を一つついた。
碇谷は非情にも、マサヤスの意思とは正反対のことを言い放った。『保守的な人物』永沼から聞いた評判を象徴したような出来事だった。組織人の碇谷は部下であるマサヤスをかばう気など毛頭無かったのだ。
さらには、まるで瀕死状態のマサヤスにトドメを刺すかのように碇谷は続けた。
 「大西を貴院担当者から外します。懲戒解雇処分にします」
碇谷の言うがままに、マサヤスはうなずくしか無かった。一支店長の碇谷に何の人事権があってそんなことが言えるのかとマサヤスは思った。
思わず、開いた口が塞がらなかった。
 「そうですか。それでは、これからもお願いしますよ」
 志田は淡々と話した。
マサヤスは何もかもが無機質に感じた。本来味方になるべき現場責任者である碇谷に打ちのめされた。マサヤスにとっては単なる屈辱的な時間でしかなかった。
  翌日は、四月一日で世のほとんどの企業は新卒者を迎える為の入社式が行われた。また、年度切り替えの初日である。サラリーマンにとっては元日のような日である。
藤製薬も今年度は五名の大学新卒者が入社した。
桜が新しい門出を迎えた人達に祝福しているようであった。桜がこの世に存在する限り、春という美しい季節に言葉で説明をする必要はないだろう。マサヤスはその日の夕刻、小谷人事部長に呼び出しを受けた。先日、新商品発売の発表が行われた会議室だった。部屋に入ると支店長の碇中も同席していた。小谷は感情を表に出すことなく話をした。まるでセリフを棒読みするかのように、冷淡に。
 「碇谷支店長から事の内容は聞いた。急遽、役員会で協議を行った。申し訳ないが、今後君に仕事を与えるつもりはない」
マサヤスは予感していた。昨日、碇谷が志田に明言した言葉がそのまま現実になった。同席していた碇谷は全く表情を変えることなく、マサヤスを見ていた。
 小谷は続ける。
 「今、君が退職を申し出れば自己都合退職扱いとする。退職金も会社規定に沿って全額支給する。有給休暇も全日消化しなさい。しかし、不服とするならば『懲戒解雇相当』扱いとし、退職金は支給しない」
 懲戒解雇相当? マサヤスは全てを悟った。手切金と言う名の退職金を払って辞めてもらおう、というのが一番手取り早い人事マニュアルなのだろう。会社と争うぐらいなら次を探したほうが得策だ、これがマサヤスの結論だった。
しかし、退職規定にある懲戒解雇の条文内の『公序・秩序に反すること』が今回の行為なのか甚だ疑問だった。報告を受けて最終判断を下した社長を始め、小谷と碇谷が臭い物に蓋をしただけとしかマサヤスには思えなかった。
 会議室を出たマサヤスは、退職金の受け取り辞退と年次有給休暇消化の拒否を碇谷に伝えた。
碇谷の複雑そうな表情を見てマサヤスはほくそ笑んだ。社長に報告が出来ない、とでも顔に書いているようだった。『労働基準監督署を匂わせる』退職勧奨を受けた者が出来る抵抗策に打って出たのである。自分を護ってくれなかった奴らの手垢が付いた権利なんか受け取ってたまるか、という信念もあった。一方で、会社から必要とされていなかった、という深い落胆がマサヤスの中で限りなく渦巻いた。

 帰宅の途中、携帯電話が鳴った。電話先の声の主は志田哲也であった。わざわざ、電話をしてきたのだ。着信に対応するかどうか悩んだが、二、三回しつこく着信があった為、マサヤスは折り返した。
 「大西君、退職するんだってな」
 今日の夕方に志田宛に藤製薬社長から電話があり、マサヤスが正式に退職することを知ったそうだ。
 「志田理事長、一年半という短い間でしたが誠にお世話になりました」
 マサヤスは健気にも志田へ御礼を伝えた。
まるで何かを期待するように。いや、ただ真希のことについてモヤモヤとした気持ちがあったからかもしれない。ただ、自分に非があるとは全く思っていなかった。求められても謝るつもりは無かった。仮に志田が真希のことを何か話そうものなら、マサヤスは志田に文句の一つや二つは言っていたかもしれない。
 いち早く電話を切ろうと思っていたマサヤスは志田の一言に絶句した。
 「娘の真希が藤製薬の喉飴の新CMキャラクターに決まった」
 マサヤスの脳裏に、真希が電車の中でハットを目深に被りサングラスをかけた姿が走馬灯の如く蘇った。
かくして、志田哲也の仕組んだ狡猾な作戦はものの見事に成功裡に終わった。
どこにでもいる、普通のサラリーマンが失職。
まれにみる、理事長令嬢が芸能界復帰。
マサヤスには残酷過ぎるコントラストである。
正に一寸先は闇と言う他はない。藤製薬は真希の芸能界復帰をアシストすることになった。そして、企業CMキャラクターは志田親子の悲願であった。いかなる事情があったにせよ、真希を使わざるを得なくなった藤製薬は内心納得がいかなかったに違いない。真希は十六歳から三年連続、藤製薬のCMオーディションに落選している。いとも簡単に書類選考で。もちろんその頃は藤製薬と志田病院の取引関係は無かった。
高校生の真希も、三十五歳の真希も、藤製薬が求める商品イメージとは明らかにかけ離れていたのだった。
  マサヤスは一人絶望を抱えたまま夜の街を歩いた。きらびやかなネオン街は人がまばらでも、アルコール臭と淫靡な香りが漂っていた。
俺は明日から無職だ。そうつぶやいた途端、マサヤスは何にでもなれるような気がした。夜の街だって、悪くはないかもしれない。
胸ポケットから真希がくれた電話番号が書いてあるメモをふと手に取った。小さなピンクのメモ紙は真希が好んでつけていたシトラスの香水の匂いがした。マサヤスは真希を思い出し、疼いた。身体は病的なまでに真希のことを覚えていた。マサヤスは突然、夜の街から志田病院まで走り出した。
  日付をまたぎ、ただひたすら二時間は走っただろうか。ようやく病院に到着した。大量の汗と夜桜が付着したリクルートスーツ姿のマサヤスは突然ウーと野生の獣のように奇声を発した。けたたましく鳴り響く救急車のサイレンが志田哲也の高笑いに聞こえた。マサヤスは自分が不憫で哀れなピエロだと思った。
 深夜三時の病院は、涙で霞んでモノクロに見えた。

【了】

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