離れない理由【短編小説】
※9,980字数
※本作品はフィクションです
男と女が出逢った瞬間(とき)を忘れるのは、人が、或いは脳が前世を憶えていないのに似ている。これは、最近めっきり物忘れがひどくなった上戸文一朗(うえとぶんいちろう)が妻の時子(ときこ)から呆れ果てられるたびに吐く決まり文句だ。
認知症でも無いのに、結婚記念日を毎年憶えていない自分は結婚というジャンルには分不相応だったのか? とフト思う文一朗は芸能人ネタにはやたらと詳しい。
「あんた、いい加減私が相談をしたい時にまでテレビに釘付けになる癖やめてよ」
「最近は女性お笑い芸人にも美人が増えてさ、つい見入ってしまうんだよなー。はははっ」
「じゃあ、あんた私とテレビどっちが大事なの?」
妻の時子は、カップに入ったコーヒーを一気に飲みほすと啖呵を切ったように言った。
文一朗にスポットライトが当たったように、窓の隙間から一気に斜光が鋭く射した。
「そりゃあ、お前のほうが大事に決まっているだろうよ」
「物忘れがひどいけど、認知症じゃあるまいし、会社で仕事もちゃんとしている。あんまり、俺を責めないでくれよ」
悲しげな表情で、今にも泣きそうな声で文一朗は時子を見つめた。
「でもあんた、最近はかなり物忘れが激しいわよ。軽い認知症でも患ってるんじゃないの?」
心配のようで、憂いのようで怪訝のような表情で時子は文一朗を見つめ返した。
文一朗は嬉しかった。やっぱり時子は自分が40年前に選んだ唯一の伴侶だ、と。
しかし、生来の勘違い男の文一朗に時子は即座に裏切られる。
「俺の記憶が本当にダメになる時は、吉岡里帆と吉岡美穂の区別が出来なくなった時だな。ははははー」
吉岡里帆推しの文一朗はこう言って高笑いをした。
文一朗は今年満60才の定年退職を迎える。
4月1日生まれなので、同級生の中では一番最後に定年退職を迎えることになる。
高校を卒業して42年もの間、一つの会社を勤め上げたのは人生に於いて一番の勲章になると彼自身は思っている。
学生時代に目立つ生徒でも無ければ、人を引っ張っていくリーダータイプでも無かった自分が総務部長まで登り詰めたのはひたすら真面目に業務に励んだ賜物でしか無い。
家庭では炊事はおろか、掃除や洗濯をしたという記憶は無い。寝るか、食事をするか、趣味のテレビ鑑賞をしているかと言う平凡な人生を送ってきた。
だから、定年退職をしたらどんな生活になるかが想像が出来ない。自分には仕事しかないと思い込んでいる。
退職金の2,000万円なんか、老後数年間の生活費でしかないのだから、また別の仕事を探さなくてはならない。人生100年の時代と言われる昨今で60才定年は会社から恩を仇で返されられているようだ、と文一朗は思っている。
上戸夫婦には子供がいない。
時子の独断で子供は作らなかったのだ。
子供がいるから離婚せずに済んでいる、という言葉は二人にとっては全くの逆で子供がいたら40年間も結婚生活は長続きしなかったと心底感謝している。
しかしそんな時子も30才台までは子供が欲しかったが、文一朗は極度の子供嫌いだったため最近で言うニンカツははなから考えたことは無かった。
以前、文一朗の弟である章次(しょうじ)の3才の子供の面倒を一日自宅で見たことがあった。俺は保育士では無いから子供の面倒なんか見れないと言ったのが原因で珍しく大喧嘩をした。
この人の精子と結婚した分けでは無いのだから、子供は諦めようと時子は、その時、思った。それも人生だと、39才で悟った。夫婦とは些細なことの積み重ねでその関係が醸成されていき、気がついたらお互いに別れられない理由を並べあっている。
文一朗が勤務する会社は世のご多分に漏れずリモートワークが義務付けられている。
ただ、総務部のトップである文一朗はコロナ禍になってからと言うもののリモートをする機会が無く、出勤しなくてはこなせない業務に追われていた。
今日は初めてのリモート日で一日中時子と一つ屋根の下オフィス状態だ。
いざ仕事モードになると顔付き、目付きが変わる文一朗だ。曲がりなりにも時子を養ってきたという自負があり、一日限りのオフィスだが、二階の自室が聖域であることは間違いない。
普段通りである5時30分には起床し、6時には夫婦で食事を済ませた。
珍しく時子が二階の文一朗の自室オフィスもとい自室に付いて来た。
すでに昭和のサラリーマン姿よろしくスーツにネクタイ着用姿の文一朗が驚いた表情をしたのも束の間、何かを話そうとした文一朗を遮るように時子が話した。
「リモートなんだから、スーツは脱いで私服にしたら?」
神聖なる出勤前スーツを脱げ、なんぞ生まれて初めて言われたし、定年退職間近に言われるとは無想だにしなかったと、文一朗は口惜しさのあまり唇を軽く噛んだ。
俺はもう少しでサラリーマンを引退するが、この期に及んでこんな形でスーツを脱がなくては、いや脱がされなくてはならないのか、と屈辱にも似た感情を抱いた。
サラリーマンの戦闘服であるスーツを、社会人生活の唯一無二の伴走者である時子から脱がされようとしているー、なぜ、なぜ、なぜ、世の中は変わってしまったんだ?人類がいつか滅亡しても到底正解など出ないコロナという命題に今、文一朗は苛まれているのだ。
時子に言われるまま、文一朗はスーツを脱いで、時子がリモート用に用意してくれたジャケットとスラックスに着替えた。
「どう?こっちのほうがゆったりとしてて良いでしょ?」
時子は、似合っていると何度も繰り返し文一朗は何度もうなずき最後には照れ笑いをした。
AM9時にはリモート会議が始まった。文一朗以外の5名の部員からはお互いの服装について話題が及ぶなど、終始和やかな雰囲気で午前中の会議は無事終了した。
昼食後の13時までに自室に戻る予定で文一朗は昼食をとることにした。
午前中の会議中に判明したが、文一朗は今日が最初で最後のリモートワークであることをある役員から伝えられた。
時子との一つ屋根の下オフィスも悪くは無いな、と思っていた矢先だっただけに一抹のショックはあったが、会社のためなら仕方が無い、と気持ちを切り替えた。
リモート会議中にノートパソコンの向こうから聴こえてきた部下の子供が騒ぐ声。「ママー、何やってるの?!」3年前に出産祝いを贈っただけで会ったことは無かったが、奇跡の邂逅が出来た気がして純粋に嬉しかった。訊くと、保育園のある園児が前日にコロナに感染したそうで、急遽、自宅で面倒を見なくてはならなくなったとのこと。
育児は修行だと聞いたことはあるが、これは大変な世の中だ。未曾有という言葉が一番しっくりくる。鎖国で世の中が180度変わった明治維新以来の大転換期を、今、令和で迎えている。
文一朗はこの現実をリモート中のノートパソコンのモニター画面を通じて間接的に突き付けられた気がした。これも時代だと。
人生は諦め時を間違えない事が肝心だ。この先も続く長期戦であろうコロナには誰も敵わないと諦めることから始めよう。
しかし、葛藤し、苦悶し、懊悩し、世の多くの『共働き(T)・子持ち(K)・夫婦(F)=TKF』は戦い生き抜かなくてはならないのだ。しかしながら、一体誰がこの育児戦禍、いやいやコロナ禍を乗り越えられる術を持ち合わせているだろうか。
子供のいない文一朗には到底TKFの気持ちは分からないが、子供がいることが幸せとは限らないのだと思った。文一朗は自らの子供を望んだことは無い。ただ、このコロナ禍での育児の過酷な現実をリアルに伝えれば、子供のいない彼女や、彼らヘ、伝えられるはずだと思った。
「子供がいることで、不幸になる人生だってあるー」
文一朗が昼食を摂るために二階から一階へ降りると、時子が出前を取って待ってくれていた。
慣れないリモートワークに落ち着かない気分で過ごしていたであろう夫への気遣いの表れである。
夫婦揃って平日の昼に机で向かい合って食事を摂るのは何年ぶりだろうか。
黙食しなければならないとはいえ、お互い好物の坦々麺をひたすら食べるだけの作業は、とても自宅で食事をした気にはならなかった。
食に関しては、好き嫌いも味覚も似ている二人は「美味しいね」と、「チンゲンサイが大きいね」を心の中で反芻してるに違いなかった。
文一朗は時子の昼食の気遣いがよほど嬉しかったのか、二人分のラーメン鉢を持って台所に置いた。
「ありがとう。珍しく、食器を下げてくれるのね」
「坦々麺を平日の昼に食べるなんて普段は無いから余計に美味しく味わせてもらったよ。坦々麺は匂いがけっこう残るからね。ニンニクよりもやっかいなんだよ」
「じゃあ、別のものを用意したら良かったわね」
「事務員のランチ泣かせ、ってうちらの中では呼ばれていて、サラリーマン生活40年の中で初めて食べたかもしれないよ」
こう言って文一朗は自分の手のひらに息をして、ほらやっぱり臭いが残っている、と言うなり壁時計を一瞥した。
「もうそろそろ、二階へ戻るよ」
「コーヒーの一杯でも用意するけど」
こう言った時子は棚の上にあるコーヒーメーカーを取り出す仕草をして、文一朗を見た。
「あと10分しか無いから、今は要らないよ。また後で取りに行くよ」
「後っていつよ?基本的にリモート中は昼食とトイレ以外自室から出たらダメなんじゃなかったっけ?」
時子は怪訝そうな顔で突き放すかのような言い方をした。更には続け様に、さもリモートワークを知悉しているかのような言葉を並べた。
「リモート中のパソコンなんて監視カメラみたいなものだっていうじゃない。油断は禁物よ」
文一朗は立ち尽くしたまま我に返り、一瞬のうちに眼光が鋭くなった。同時に心にある仕事モードのスイッチを無意識のうちに切り替えていた。
リモートワークには自宅で勤務することで感染のリスクが激減するという最大のメリットがある。外出する必要もなく、命の危険性も限りなくゼロに近い。しかし、一方で就業中にいやリモート中に自宅に棲みつく会社という魔物に視られている緊張感は不気味でしかない。いくら感染防止とはいえ、連日のテレワークなんぞコロナが無かったら到底考えられないシチュエーションに違いない。しかし、業務中にのみ自宅に棲みつく魔物なのか怪物なのか得体の知れない物の正体はコロナなのかすら誰にも分からない。悪事を冒して自宅謹慎するわけでもあるまい。なぜ自宅で監視されなくてはならないのか。テレワークなんぞ自ら好んでする人が世の中大多数になれば。いやいや、そんな世の中は考えられない。そんな社会になってしまうとすれば、ただひたすらに不気味だ。
平日の日中に自宅のリビングで茫然と立ち尽くしていた文一朗は自分自身に哀愁を感じた。
職場で大変な目に遭うなら想定は出来るし、受け入れられることは出来る。むしろ、サラリーマンだから全てを受け入れるという選択肢しかない。テレワーク中とはいえ、ここは文一朗夫婦が人生に於いて唯一気が休まるマイホームであり、決してアウェーではない。時子が文一朗の仕事について口を挟むなんて、これまで考えられなかった。普段温厚な文一朗だから良かったものの、これが発端で夫婦喧嘩に発展し、夫婦の間に深かれ浅かれ亀裂が入ったら大変である。所詮、垢の他人同士である夫婦の離婚の危機なんて簡単に訪れる。コロナ離婚になってしまったら誰が責任を取るのか。コロナ感染保険ならぬ、コロナ離婚保険でもあるというのか。そこはもうお互い大人なんだから自己責任で、という次元では到底無いだろう。つまるところ、何もかもを当事者に擦りつけた、ひどい世の中に成り果てている。
結局、時子が淹れたホットコーヒーを文一朗は受け取り、13時前には二階の自室に戻った。
コーヒーを味わっている余裕など無く、部下からのメール対応や取引先からの携帯電話への応対など息つく暇も無いぐらい中小企業の部長職は多忙さを極める。
文一朗は決して流暢に話せるタイプではないからこそ、対応の迅速さや、相手に与える印象を心掛けている。話しが上手かったり、流暢に話すのが得意では無いからこそ、苦労もした。人事総務部長というポジションになってからは、「部長だから何でも出来るだろう」という周囲からの厳しいプレッシャーとも葛藤してきた。それが原因で胃腸炎を発症し、1ヶ月もの間入院生活を送ったこともある。役員になる道もあったが、60才を一つの区切りとすることにした。
15時を少し過ぎた頃、時子が「コーヒー淹れたから、階段に置いておくわよ」と言うなり、一階のリビングに戻ったと思ったがそのまま外出すると言う。
いつもなら「感染には最大限気をつけてな。最大も最小もコロナを気をつけようが無いか!」という文一朗のお決まりのセリフもリモート中の為、不発にならざるを得なかった。
ただ、普段は出不精である時子が気を遣って、珍しく外出したことには文一朗は申し訳なさを感じた。自分のリモートが原因で外出をさせてしまった。万が一、時子がコロナにでも感染してたら悔やみきれないだろう。
世知辛いなどとは一言では簡単に言い表せない。生き辛い、ツラい世の中でしかない。
17時半には部内夕礼の為、長かったリモートワークも無事終わろうとしていた。
夕礼は部のトップである文一朗が司会進行を務め、一言述べるのがいつものパターンだ。
ノートパソコンを前にして文一朗はフト異変に気がついた。5つの画面のはずが4つしかない。
「あれ、早坂さんは?」
文一朗はそう言うと、画面に映る4人が異口同音に「えー」「部長、知らないんですか?!」などと言っている。
聞けば数分前に子供が急遽発熱し、病院に向かったそうだ。
部長である自分のLINEには報告が無かった、と言いかけたが、「LINEを自分が見逃していた」とごまかした。早坂さんの子供は午前中画面を通じて叫んでいた。そうかあの叫びはあの子なりのSOSだったんだな。こう思うと、文一朗は自分を責めずにはいられなかった。同時に部員である早坂さんのことを心配せずにはいられなかった。これまでは、自分は部下のどんな些細なことも気がつき、部下思いの上司だという自負を持っていた。リモートワーク中というこれまでにはあり得ない特殊な状況とはいえ、部下の異変に気づくことが出来なかった。自分は上司としては失格ではないか。
そんな沈鬱な気持ちを引きずったまま、文一朗は夕礼を続ける。
「みんな一日ごくろうさま。自分は、最初で最後のリモートワークだったけど色々考えさせられることがあった。極力、不要不急の外出は避けて、感染防止に努めてください。以上!」
文一朗はこう言って名残り惜しそうな表情をした。今日は水曜日で、今週はまだあとニ日残っているというのに、急に出勤することから逃げ出したくなった。パソコン画面に映る4人の部下達も文一朗の疲れた表情を見て、誰も言葉を発することが出来なかった。
18時を過ぎ、文一朗が自室から一階のリビングに降りてきた。時子は文一朗の初めてのテレワークの終了を待ち構えるように、文一朗のホットコーヒーを用意する。普段の帰宅後と同じように、一日の終了を労うというのが専業主婦としての当たり前の務めだと時子は思っていた。
文一朗は普段帰宅後の様子よりも深刻な表情をしている。
なかなか声を掛けづらい時子の雰囲気を察してか、逆に文一朗が口を開こうとする。しかし、言葉が出てこない。空気のボールがこっちに戻ってきたことを悟った時子が今までにない重苦しい雰囲気の中、口を開く。
「今日・・・どうだった??」
時子は精一杯の声を掛けた。
表情こそ一見いつもと変わらない文一朗の様子だったが、今日の出来事に対しては今も納得はしていない。抗いようにも力及ばない、結果が出てしまっている。時代の理不尽さに納得などできるわけがない。
「・・まぁ、【いつもの水曜日】だったよ」
一つため息をついた文一朗は、売れないシンガーソングライターのラブソングのタイトルのようなセリフを返すことが限界だった。
コーヒーを一口飲んだ文一朗はカップを時子に力なく渡した。
いつもなら、帰宅後の文一朗夫婦は一日のお互いの出来事に話しが咲く。文一朗は申し訳ない、と思いつつ、リビングのソファーに腰をかけた。時子は、台所に向かい夕食の準備をすることにした。
せめてものの夕食は豪華にして文一朗を励ましたい、と思わざるを得なかった時子はすき焼きを作っている。今夜の献立が急遽変更になった為、すき焼きには牛肉ではなく、冷凍庫に保存していた鶏肉を入れた。
時子が台所に行って、夕食を作って数分経過しても文一朗は今日のことを考えて、真剣な表情をしている。時子は料理を作りながらも、文一朗の様子が気になって仕方がない。
文一朗の真剣な表情は今だに仕事モードから抜け出せていない様子が窺い知れた。時子は、気の毒だと思いつつも、料理を作る手は止めることが出来ない。文一朗以上に時子は無力感を抱いていた。
夕食のすき焼きがグツグツと音を立てて時子の手によってテーブルに届いた。すき焼きの煮炊き音がリビングの空気を支配している。醤油と砂糖が絶妙な反応を起こして、鼻を突き抜けるはずの絶対的主役の匂いは脇役どころか存在感を消されてしまっている。
すき焼きを見た文一朗は少しだけ表情が緩んだ。
時子は嬉しかった。今頃孫がいたら、こんな表情を見せたのだろうか、とフトそんなことが頭をよぎった。
箸を持った文一朗が「エッ」と発して、時子の顔を一瞥した。
バツの悪そうな表情をした時子は「シャモ肉が余っていてね。鶏すき焼きもたまには良いでしょ」
文一朗は一言も発することなく鶏肉と葱とモヤシを取り、黙々と食べている。何かを言いたげだったが、「はい! 原則黙食!」と自らを戒めるような口ぶりでそう言うなり、微笑し再び頬を緩め食べ始めた。「あらあら、『黙食』って言いながら食べてたら本末転倒よ」と時子は言いながら、鍋から生卵が入った自らの皿に鶏肉と野菜を数種類取り分けた。この人ってやっぱり面白い人だな、と思いながら。
翌朝、文一朗は何も無かったかのように一階のリビングに降りてきた。キッチンから時子がハムエッグを作る音がする。昨夜はあれだけ近寄り難かったリビングが愛おしく感じた。
時子は何時に起床して、俺を待ってくれてたんだ? 暖房が熱いというよりも、人の温もりを感じる。時子は俺の40年余りの社会人生活を当たり前にも支えてくれてたんだ。生きている事を実感する時って、当たり前のことに感謝する時なんだな・・。
文一朗は朝食が出来るまでの間、テレビのリモコンを手に取りチャンネルを数回変えた。文一朗はリビングのソファーに腰掛けてテレビを観ようとするこの瞬間がたまらなく好きだ。
都内では相変わらずコロナ感染者が再増加している情報が目に入った。定年退職が約3ヶ月後に迫っているというのに、漠然とした不安だけが募る。自分は感染しないだろうか。
キッチンから時子が自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。
「分かった今、行く」
時子のほうが文一朗の顔をいち早く見た。文一朗は視線で追いかけるように時子をみた。妻は(心配するのは当たり前じゃない)と言わんばかりの表情だ。時子からいつもより顔を見つめられていることに文一朗は気がついていない。
「朝から人の顔をジロジロ見てどうした?」
文一朗の声は時子の耳には少し遅れて届く。
「ノイローゼにならなくて良かった」と時子は少しキツい冗談とも本気とも受け取れるジャブを打った。
「ノイローゼになんかなるわけないだろう。馬鹿は風邪ひかない、阿呆は鬱にかからない」高校時代の恩師から贈られたんだ、と文一朗は自慢げに言った。
学生時代決して勉強が得意では無かった文一朗は体だけは丈夫だった。社会人になってからは一度も風邪らしい風邪をほとんど引いたことが無い。一度の入院生活以外は会社を休んだことが無い。他人より比較的体が丈夫だと自負している。
名言ともまた迷言とも受け取れる、恩師からの贈る言葉を放った文一朗は決まったとばかりに得意げな顔をしている。時子は半ばあっけに取られたが、すぐ我に返り、手に持っていたフォークを半熟卵に突き刺し、穴を開けて掬えるだけの黄身を口に運んだ。
「俺はもう大丈夫」と一言だけ言って、文一朗はすぐにおかわりを求めて時子に茶碗を差し出した。
「はいはい。で、量子ちゃんは? どのくらい?」と時子も文一朗に返し、夫婦漫才のように冗談を返した。
「半分ぐらいをプリーズ」と言った文一朗は義理の弟のような情け深い表情を向けた。
半分ぐらいを盛った茶碗を渡した時子も満面の笑みを返す。スマイルは掛け値なしと言わんばかりに。
文一朗は時子の笑顔が大好きだ。59才の文一朗はいわゆるイケてるオヤジでは無いが、同い年の時子も美魔女ではない。風貌は美男美女ならぬ、駄男駄女だからお互いに夫婦は永く続いている。というのが二人の認識だ。男女の外見と言うと、顔など容姿だけと捉えられる。しかし、上戸夫婦の出会った頃のお互いの第一印象は【雰囲気や空気感が似ていた】だった。顔や容姿に惹かれたわけではないから、お互い惹かれ合った理由の説明を求められても難しい。単に魑魅魍魎と思われがちだが、文一朗からすれば「恋は盲目で、惹かれ合った理由など必要はない」そうだ。本当の夫婦になったのは、御縁があって一本の糸で結ばれたのは18才で恋を知らない初恋同士だったからという至極単純な理由だったのかもしれない。
文一朗が朝食を摂り終わり、歯を磨きながら洗面所で手際よく寝癖髪を直す。
文一朗は豊髪だ。もうすぐ60才で定年退職を迎えるというのに、豊かな黒髪は若さそのものだ。というか、日々、髪質の艶は輝きを増し毛量は今だに増えてるのではと周囲が期待をするほど。しかし、顔や風貌はどこにでもいるごく普通の59才なので、若々しい髪と顔の皺とはあまりにもアンバランス過ぎる。見た目には漫画の世界から飛び出してきたのかと想像力を掻き立てる。
寝癖髪を直したら、ドライヤーで髪を乾かしその上から資生堂のムースで前髪を斜め45度ぐらいまで逆立てる。垂直に逆立てると、毛量の少ない年上の役員から嫌味と捉えられる懸念があるからだ。嫌味は嫉妬に変化しがちだ。
二階の自室でスーツに着替える。いつもは濃いグレーのスーツを着ている文一朗が、今日は黒のスーツに着替える。
何となく、今日は黒のスーツで部員達に接しなくてはならない気がした。後ろめたさなのか、後悔の念なのか、はたまた一種の罪悪感に近いものなのか、忘れたはずの昨日の記憶がスーツを見た途端に甦ってきた。
時子が一階から自分の名前を呼ぶ声がする。
その声に応えて返事をするなり、テレビから流れる文一朗の今日の運勢は第一位だ、という内容だった。
文一朗は、よき日であることを心から祈り、ネクタイをいつもよりきつく結んだ。
鞄を持って一階のリビングのソファーに腰掛ける。やはりリビングのソファーは落ち着く。朝のこの数分と帰宅してからの夕食後の数時間の為にソファーは存在意義を発揮し、ややもすると、仕事を勤続している本当の理由は時子のためではなく、この柔らかいソファーのためなのではないかと思わせた。
いつものように時子が名残り惜しそうに文一朗を玄関で見送る。
「今日は帰宅少し遅くなりそう?」会社勤め経験のない時子であるが、女性の勘とは忘れた頃に鋭利さをもってやってくるものだ。
なんでそんなことを訊くんだ、と言いそうになった文一朗は背後から何か透明な見えないもので時子から刺されたことに気づいていない。普段は仕事の様子を見られるなんてなかったが、リモートワークという時代が産んだ新しき悪き、いやいや新しき憎き産物を文一朗は恨んだ。コロナさえなければ恥ずかしい姿を時子に見られずに勤め人を引退出来た、と時代を呪詛せずにはいられなかった。
心配そうな顔で見つめる時子が何かを発することを聞くのが嫌になった文一朗は靴ベラを使わずに靴を履いた。半ば逃げるように玄関の扉を開けた文一朗の靴は5年ほど前に雨の日用に購入した少し安い革靴だった。いや、そんなことはどうでも良かった。
文一朗が徒歩で自宅最寄り駅である大川駅に向かう途中に突然の小雨が降ってきた。「今朝観たテレビでの天気予報は快晴だったはずなのに・・・」文一朗は空に文句を呟き、何かに騙されたような気がしていた。
【了】