『 まだ宵ながら、あけぬるを 』
26時48分。
呼び鈴が鳴った。
夜でも暑苦しい日だった。
がちゃと音を立てて扉が開ける。
勿論君が来ることなんて分かってなかった。
「今日、いい?…」
震える声で彼女が言った。
僕の頭上に浮かぶ疑問符。
「始発で帰るから」
なんでよと僕が言う。
「浮気された…」
あ、と思った。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
幼稚園からの付き合いで、気づけばもう数十年になる。
クーラーの設定温度を1度下げた。
「結局あいつもクソ男やったわ」
気丈に振る舞っているのが見て取れる。
「上手くいってたと思ったんやけどなぁ」
僕は何も言い出せずに缶をなぞる。
「あんたやったら浮気されたらどうする?」
何を聞かれているかもよく分からない質問。
答えられずに黙っていると、貰うでー、と聖来は僕の家なのに我が物顔で僕の冷蔵庫からお酒を、1缶取り出してテーブルに置いた。
「なんで僕なんだよ」
「いやなんとなーく」
彼女が僕の前のテーブルに座る。
「うーん。」
聖来が、まあ、と言う。
「まあ、あんたそんなん興味無さそうやもんな。」
「そんなことないけどね。」
僕はいつも、ほんとはね…と言いかけて辞める。
辞めて、後悔する。
多分、言っても後悔するんだと思う。
「はいはいどうせ高校以来恋愛してないですよっと」
「あれ、もうそんなに?」
「うん。」
「大学では出会いとかないん?」
僕は、まあ、と言って缶を1口。
「てか高校の時の彼女ともすぐ別れたし」
「そういえばそうやったな」と聖来が笑う。
いっその事、と聖来が言う。
「私と付き合う?」
「……」
うん、と言えたら。
言えてしまえたら、どんだけ良かったのか。
「冗談やって」
「なんだ」
ふふっと聖来が笑う。
分かってた。
全部全部分かってた。
「そういえばあの時覚えてる?」と僕が聞く。
「ん?」
「いや、ほら、高校の時のさ」
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
放課後空いた教室。
揺れるカーテンとガラス窓。
適当な席に座って話をする。
「彼女できた」
僕がそう打ち明ける。
「うわ、抜かされた…」
「残念だったね」と僕が笑う
「くそー狙ってたのにぃー」
聖来がそう言った瞬間、心臓がドキッとした。
「えっと…?」
どういう意味なのか分からず困惑する僕を真っ直ぐ見る。
「冗談やって」
僕はなんだと笑った。
当時の彼女のせいなのか、聖来のせいなのかは分からないけれど、胸がどっか痛かった。
冗談だったら良かったよ、と僕は苦し紛れに言う。
胸が、どっか、痛かった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
「あったね〜」
「うん。あれ結構びっくりした」
「一番驚いてたね」
聖来はうん、と言う。
「数ヶ月は悔しかったわ」
他の子と付き合ったのは
忘れるためだった。
ってこんなの後付の理由だけど、
今思えば、全部忘れるためだった。
そういえばさ、と僕が言う。
「もう、別れたの?」
「まだ……」
聖来は缶を置いた。
「別れないの?」
静寂が、生まれる。
聖来が俯いて、消え入りそうな声で言う。
「別れ…たい」
聖来は泣きそうな目でなんとかそれがこぼれないように上を見上げる。
僕は精一杯の優しさでそれに気付かないふりをする。
聖来に、心を奪われる。
綺麗に泣く姿に、胸を、撃たれる。
「でもなぁ…まだ好きやねんなぁ…」
好き
そんな言葉を聞いた瞬間に驚くほど冷静になった。
ほんとに幼なじみって厄介な関係だな
そう思い続けてもう数十年。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
夜も更けて、そろそろ、明るくなってきた。
他愛のない話の内容も、今となってはもう覚えてない。
ただ、泣きそうな君と、笑った君が目に焼き付いただけ。
駅まで送ろっか、と僕は言う。
「うん…」
家の外に出ると、空が水縹に染っていて、それもそれで悲しくなる。
「もう恋なんてせえへんわ」
「へぇ」
「恋なんて辛いだけやん。どうせ上手くいかへんし」
「かもね」
「あんま興味ないなぁ」と彼女が笑う。
その度にそんなことは無いと言うけれど本当はあまり聞きたくなかった。
チャンスはもう無いって言われてるみたいで。
「やっぱ、ほんまに決めたわ」
「うん」
「もう、恋はせえへん」
僕は黙って俯く
全部が憎くなって、小石を蹴った。
4、5回コロコロと転がったのはいいものの
僕の精一杯の抵抗は、誰に何の影響も無く、歩道脇の溝にころっと落ちた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
改札前に2人。
「なんか、ありがと」
「いやいや、良いよ全然」
「こんな良い幼なじみ持ててよかったわ。」
ただの"幼なじみ"。
そう。ただの。
彼女が笑う。
彼女の笑った顔が好きだった筈なのに。
何故か今はとても締め付けられる。
思わず、僕は、と声に出す。
ほんとはね。
ほんとは…
「僕は、好きだよ」
そんな言葉が口走った。
だめだ、
これじゃあ、励ましの言葉みたいじゃないか。
僕が言いたかったのはそうじゃなくって────
一瞬だけ聖来は悲しそうな顔をして、微笑んだ。
「優しいよな。あいつとは、違って…」
ちがう、そんなんじゃない。
ほんとに違うんだ。
悔しさと悲しさと切なさと。
言葉を付けようと思ったらいくらでも付けれる。
そんな感情。
僕が「そうかな」と言う。
聖来は声を上げて笑った
何笑ってんだよと言いたくなった。
あんな、と聖来が言う。
彼女は僕の方向を見ているけれど、目を合わせてはくれない。
「ずっと似てるなって思っててん」
君と僕が、なのか、浮気したそいつと僕が、なのかは分からない。
なんとなく後者な気がしたけど
どっちでもいいとすら思う。
ただ、感情は嫌に掻き立てられるばかり。
駅の改札のライトがちかちかと点滅する、始発列車の発車の直前。
「そう、なんだ。」
なんて言ったらいいか分からず途方に暮れる。
胸の中で渦を巻く悲しい感情が、刺さる。
「うん。ずっと似てるなって思ってた。」
そんな悲しい顔、僕ならさせないのに、
そう何回も思う。
でもな、と彼女が笑って付け足す。
「でも、やっぱあんま似てへんわ」
僕は、そりゃそうだよと強がって鼻で笑いながら後ろにあるビルの方を向いた。
始発は後2分ほどで今駅に着く。
空から差す光が、明るくなったのに気がついて、自分の体から声が消えた。
少しあわてんぼうの蝉が鳴き始める。
ますます夏だねと聖来が言う
「だね。」
「いややなぁ」
「だね…」
意味の無い会話。
最近、雨が降らなくなってからか頭痛も少しマシになった。
「もう電車くるから行くわ」
何歳の頃から君を想ってたのか分からないし、分かりたくもない。
この気持ちが、純愛じゃないとは、言わせない。
誰にも。
聖来が口を開く。
「じゃあ」
そう言って改札に向かって歩く。
「また、どっかご飯でも…」
僕がそう言っても聖来はもう、振り返らず、ひたすら僕の視界の真ん中を歩く。
また、こんな夜があるって思うだけで、嫌になる。
こんな夜が、無くなるって少しでも考えるとただただ死にたくなる。
ほんとは、君が大好きだった。
ほんとは、もっと、ちゃんと好きだよと言いたかった。
君の彼氏に似てるとか似てないとか知らないよ、そう言いたかった。
ほんとは、そんなの知らないよ、と泣きたかった。
泣いて泣いて、叫びたかった。
声が枯れるまで、泣き叫びたかった。
『まだ宵ながら、あけぬるを』