隣のおっさん
10月10日、入ったばかりの会計事務所を辞めた。
正社員になって一週間少し。最短記録樹立。
まだ入社して挨拶した記憶も残っている。
「みなさんにご迷惑をおかけすると思いますが、どうかご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。」
慣れない言葉でご鞭撻の後ろの方はモゴモゴ言っている。
だが、これだけ言えれば社会人合格。父親にそう教わったのだ。
最終日の記憶。
そういえば、代表が事務所に新聞を置くかどうか職員に聞いていたな。
「新聞、あれば、読む?」
「はい、そうですね!日経なら。昔は読んでいましたし。」
軽快に返事したのは、前髪をヘアワックスで軽くまとめあげ、真っ白なワイシャツに好奇心に溢れた両目をパチクリさせている快活で優しそうな青年だ。
いかにも。よそ行きでの私である。新聞なんているわけねえだろ。とは言わない。
ネット記事の信憑性について横の上司がつらつらと語るのをうんうんと真面目そうに頷く。
会社での私を第三者視点で見ていると、よもやこいつが入社一週間で辞めるとは思うまい。
会社員の毎日なんて大体が、平々凡々。湿っぽいドブをひたすら平泳ぎ。泣きっ面に蜂。朝起きては家を出るまでの時間をカウントし、「あー、仕事だりいな。」と思いながら電車の空いてる座席を狡猾に探し回る。心の中で「何言ってんだこいつ」と思いつつ、上司の機嫌を取る。疲れて帰って携帯を見ていたらもう23時である。また明日が始まる。家族がいない分、これはまだまし。
そんな鬱々としたサラリーマン諸君の前に彗星の如く現れ、つまらない日常にひとつまみのスパイスを加える、それが私。
もはや彼らにとって休日に観る映画と変わらない役割を果たしつつある。
閑話休題。
そうした湿っぽいドブをさらに煮詰めたドブが私の横に沈殿していた。
隣のおっさん(上司)である。歳は50過ぎか。
黒縁の眼鏡をかけ、よく見れば割と可愛い顔している。『安定』を具現化させたような一見害の無さそうな風貌である。
出身は大阪生まれ、大阪育ち。
それを誇りにしているようで、至る所に大阪マンセーが顔をだす。
この男、困ったことに、話のオチがない。大阪人というのは「よく喋る、話が面白い」がセットで大阪人と教わったが、この男はその「よく喋る」遺伝子だけを受け継いだ小阪人なのだ。
この男に教えを請うたところで、回答に至るまでに過去の自慢話、知識披露が含まれ、要点に至るまでゆうに40分は要する。「おっさん」という生き物は罪深い生き物だ。基本的に人は他人の話に興味がないものなのにおっさんの自慢話となるとその苦痛が冪乗される。
観察してわかったことだが、この男、朝はうつらうつら寝ているし昼は新聞を読んだり、私や他のパートを教えるフリをして時間を稼ぎ、一向に仕事が進んでいない。金食い虫だ。どうせ趣味はYoutubeで高校女子陸上を見ることだろう。
否、特筆すべきは、私を最も悩ませた頭痛の種、彼のゲップである。これがやたら臭い。長年培った私の嗅覚を持ってしても、屁なのかゲップなのかがわからないぐらい臭い。
しかも、私が他の仕事に追われメインの仕事が進んでいない時に限り、彼の屁ともゲップとも区別のつかないガス攻撃が私を襲う。
イライライライラ、クサッ。
ああもう臭い。帰りたい。
そしてこやつの会計関係の自慢話を散々聞いてはっきりしたことがある。
「会計つまんねえ」。
人間万事塞翁が馬。
こうして私は事務所を後にしたのである。
次回は「海賊編」。
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