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その悩み、哲学者が答えをすでに出しています

1週間に1回の投稿が遅れております。すみません。やはりまとめるって時間が掛かりますね。今日は「その悩み、哲学者が答えをすでに出しています」について記載いたします。いや〜悩みますね人生。直近で悩んだのは転職するか否か。転職しようと考え、転職活動をし、内定を貰い、現職にも辞める旨を伝え、残り4か月頑張るぞ!ってなってから給料30%アップの提示、、金ではないけど金の暴力でここ1週間くらい悩んでおりました。よく「軸に沿って」とか「重要なものから順位付けして」とかの話が出ますが、仮に1億出すから残ってくれって言われたら残りませんか?軸とか重要な指標とか関係なくなりますよね、一般人には。まぁ1億は極論ですが、人間なんてよく分からないからそれっぽい理屈をつけて生きてるんだなと。今の仕事が嫌いな訳ではないし(ただ将来独立の事を考えたら難しいだろうな)、給料何%アップしたら残るって線引きもしてなかった(給料の順位が比較的低かった)から悩むはめになったんですが。なので直近悩んで、友達とかにも聞いたけど「金だろ」の答えしか出なかったので、同じ様に悩んだ人はいないかなと思いこの本を見つけました。
正直自分の悩みに直結する回答ではなかったですが、応用はできるかなと。
また本書を通して、自分なりに解釈して、やはり転職する事に決めました。
では、それぞれの偉人の哲学を見ていきましょう。哲学なんてその人の角度の違った見え方と考えているため、参考程度に見てください。また私にとって特に大事に思えた所は太文字にしてます。

総論
何か好きなことに没頭すれば生きやすくなり、自ずと自分の欲しかったものも満たされる。もし好きな事が見つからなければ、自己受容、他者信頼、他者貢献、所属感の共同体感覚があれば人は幸福になれる。そのような所を見つけ出すのも幸せの形である。役に立ちたい、見栄を張りたいという感覚を捨て、日々の行動を丁寧に受け入れること、悩むのは当たり前だと認識し、その答えが常に正しいか、時には第三者に聞きながら前に進んでいく。承認欲求はとても強いものだが、今回の本読みである種、承認欲求の正体を知った。神に認められる以外満たされる事がないのであれば、あきらめがつき承認欲求とも上手に付き合える気がする。
ニーチェ流のアップダウンのある人生を受け入れてこそ、幸せは多く感じるのだと思う

アリストテレス 将来が不安
アリストテレスは将来の不安に対して、不安を感じない様に下記の様な言葉を残しました。
「将来の目的や計画をいったん忘れ、今この瞬間のやりたいこと、やるべきことに熱中せよ」
「快楽は本来、『活動』にほかならず、それ自身目的なのである」
「今、自分にとって楽しく充実しているという状態」がそのまま「すでになしとげた成果」
目的を度外視してプロセスにのめりこむことが、(それとは逆の)「目的達成を優先する思考」が追い求める「よい結果」を、あくまでも結果的に、みちびいてしまう経験なのです。
結果はどうあれ、無欲にプロセスの作業を楽しむ。手抜きをせずに、一生懸命楽しみきるという人にこそ、高い──時には最高の──パフォーマンスが生まれ、自然と結果がついてくるのです。いい結果を期待する考えや、「あわよくば成功したらいいな」という欲は人間にはつきものですから、頭のどこかに置いておいてよいのです。だけど一方で、その下心をどこかに置き忘れ、今・ここのプロセスを楽しみつくしてみる。
目的重視の「キーネーシス的思考」とプロセス重視の「エネルゲイア的思考」。両者をバランスよく発揮させることが現実的には最もいい活動のしかた、ということになります。
自分が向いていると心から感じられる作業に全力で打ちこみ、充実した手ごたえを感じながら毎日を生きている人を、世界が放っておくことはないでしょう。
今の自分自身が目的である」ようなエネルゲイアな生きかたこそ、偶然にさらされ、明日をも分からない人間が今を生きるうえで最も正しい「賭け」なのです
明日を最も必要としない者が、最も快く明日に立ち向かう」

アンリ・ベルクソン 時間と自由
ベルクソンが批判を投げかけるのは、現代人が時間を空間的にとらえている、まさにそのことです。通常の時間感覚を忘れるような主観的で濃密な時間こそ、時間を生きる私たちにとっての「自由」ということなのではないだろうか。
本当に自由な時間とはごく主観的な時間
眠っていた過去の記憶は、ふとしたきっかけで今・ここのことのように甦るのだから、人間の時間には過去も未来もないのだという時間論をテーマとしている
岡本太郎の名言でもあるように、
本当の作家は、必ずまた批評家であるという言葉がある。これは分析や批評からは何も生まないというアンリ・ベルクソンの対比でもある

デカルト 行動
デカルトは入手できるすべての本を疑い、いっさいを白紙にして、これ以上土台としてゆるぎようのない、自分が本当に本当だと思えるところから出発して、学問のすべてを一から建て直そうと考えました。その方が、かっちりとした堅牢な建物を建てられるだろうと、広大な学問の世界に対して徒手空拳で挑む、鼻っ柱の強い漢でした。
「明らかに真であると認めないかぎりは、いかなるものも真として受け入れない」という「明証」。 「私の思想を順序にしたがって導く」という「総合」。 「何も見落としていないと確信できるほど完全に数え上げることと、全体にわたって目を通すことを至るところでおこなう」という「枚挙」。  そして「分割」。「困難は分割せよ」小さなゴールを達成すれば、はずみがついて、また次の小さなゴールにいこうという推進力が生まれます。

ジル・ドゥルーズ 会社
ドゥルーズは「資本主義からの逃走」をとなえました。資本主義の逃走は会社を辞めても辞めなくても、穴を見つけのびのびとやれる場所を探ろうというもの。スーツを着て会社にいると、肉体も場所も資本主義を駆動させる(ドゥルーズの表現を借りれば)《整流器》に流しこまれたようなもので、ある種の惰性というか慣性で、どんないやな作業でもこなしてしまう「高級作業員」になってしまう傾向は否めません。資本主義からの「逃走」を提唱しましたが、それは必ずしもスタイリッシュな逃走であるとはかぎりません。会社での冷や飯のような業務や、そこで受けたくやしさをバネにして、孤独にやるべきことに熱中する、それだけの覚悟が必要な「逃走」ということでもあるのです。孤高を恐れぬという考えようでそこからいくらでも「逃げ」出すことのできる、やりようのあるスキマにみちた希望の場所だということに気がつく

道元 人生の虚しさ
道元は、日常の行為一つ一つが修行であり、坐禅と同じ意味をもつことを理解しました。他に目的をもたない作業は、坐禅と同じ効果をもつという意味です。禅寺で料理や掃除などの作務が坐禅と同様に重視されるのはこのためです。作務がそれだけで充実した行為であるということは、「何かに役立てるという考えかたをやめる」ことであり、「今ここ、この私に徹する」仏道のめざすところは「自己とは何か」を本当の意味で理解することです。それは自分を何かと定義するようなことではありません。実は、自分を「忘れる」ことなのだと道元は説きます。この仕事、意味あるんだろうか?」と意味を考えるのでもなく、ただもう無心に、徹底的に、丁寧にやってみるのはいかがでしょうか。

ダニエル・カールマン 人生の選択
プロスペクト理論の実験からわかることは、人は選択肢が多ければ多いほど自由が増すように見えて、実は選択できなくなってしまう、選ぶこと自体を放棄してしまう。自分で物事を決めてしまうと、その決断をひきずってしまい、その決断にその後の人生がとらわれてしまう傾向があるということです。これは自分が決めたことの「一貫性」に縛られているのです。もし、何もかも「自分が選択することは主体的で立派なこと」という社会通念があるのだとすれば、それは行動経済学や選択の心理学に見るように、その局面自体が合理的とはいえないこともあるのです。なぜなら。人間が自分で決めることには限界があり、常に非合理の危険が伴うから。資本主義が発達したこの世界では、選択肢が多すぎるがゆえに逆に選べなくなってしまう「 more is less」状態になりがちです。
人間には「確固とした本質」としての自我があるのではなく、「その時その時の知覚の束」でしかないと考えました。そして「火に指がふれたら熱くて火傷するからと言って、また別の火に指がふれたらそうなるとだれが決めたのだろうか」という懐疑的な人間観を打ち出しました。 16世紀のモラリスト、モンテーニュもまた、人間一人がわかることなどたかが知れているとして、「独断をさしひかえよ」という懐疑主義の立場をとっています。よくわからないことには、へんな類推をめぐらせず、決着をつけないことも──科学的にも、また人生の決断においても──大事な態度です。

ジャック・ラカン 他人に認められたい
人間の承認欲求というのは業が深いもので、「小文字の他者(現実の個人)」だけでなく、「大文字の他者」に認められるという実感を得ることがなければ、十分に満足することができないと考えました。「小文字の他者」の概念はシンプルです。「現実に存在する個人」のこと。自分と同じ時間を生き、現実に存在している個人たち。大文字の他者」は抽象的な概念ですが、ひとことでいえば、象徴的な、大きな他者であり、「神様」のこと。 実際には存在しないけれど、私たちがついその存在を考えてしまう、大きな権威といいかえることもできるでしょう。「人も車も見当たらない真夜中の交差点で、つい信号を守ってしまう」のも、「大文字の他者」の効果です。イスラムの過激派が、何の罪もない人々をその名のもとに虐殺してしまう「イスラム原理主義」みたいな「大義」も、「大文字の他者」の一例です。100年後の歴史に残りたいとか、後世の歴史教科書に載りたいといった「高尚」な承認欲求もありますが、これらも「想像された後世の人々」という「大文字の他者」です。ラカンによれば、そうした「大文字の他者」に認められないことには、人は真に承認欲求をみたすことができないのです
そうしてオリジナルに創り出した価値こそが真に「大文字の他者」の承認にたえるものであり、そのことで自分でも心の底から満足できるのです。エネルギーをひとりで燃えあがらせ、自分では手に負えないぐらいの課題に取り組むこと。そのためには、安易で刹那の承認ゲームとは距離をおくことも必要でしょう。自分の関心を長い歴史の中に置きなおし、知る人ぞ知る資料を求めてひきこもる。そのような地道な行為が求められるのです。それは非効率もいいところでしょう。傍目には変人に映るかもしれません。しかし熱中している当人にしてみれば、孤独で地味ではあっても、時を忘れるような愉快な行為なのです。
たとえば哲学者スピノザ(参照)は、現代の聖書といわれる『エチカ』を生前に発表することなくせっせと書き残しました。彼は「お金や性欲や見栄が気にならないぐらい、本当に楽しいと思う作業をみつけた」と言っているほどです。長大で難しい事業を進めるとき、ラカンのいう「大文字の他者」と同じ働きをもつ「ことそのもの」が内面化するのだと。 これは、どういうことでしょうか。「ことそのもの」とは、人が取り組むその事業やプロジェクトのこうあるべきだと思う姿、あるいは理想形のこと。当事者の頭の中にそのイメージがあり、そのイメージと一体化したいという思いにみちびかれて、人は作業に専念できるのです。理想像を追い求め、各ジャンルの表現が洗練される終りなきプロセスこそ、現代人が生きがいを求めることのできる道です。
大文字の他社を理解するために絵師の伊藤若冲の例を取り上げてみましょう。
大文字の他社の存在は誰かに認められたいが、それが他人であった場合一時的な承認にしかならないなと、こと俺が評価する立場であっても同じ事が言える。だから大文字の他者に認められるのは、あえて生前には認められないだろうと気概を持つ事が必要である。また生きている時に大きなことをしたとしても、何か悪いことをしたら帳消しになる風潮もある
生きてくには困らないくらいのお金があるうえで、他者承認とは別な所で働かないと行けないが、生きていくには評価されなければならず、そこは単純に割り切れない
おれが今まで「ことそのもの」に向かっているのか、そのプロジェクトの理想像を見出しそれに向かって進んでいるのか、でもすくなからず自分がの中に引きこもってそういう経験をした事がある。ことに向かった経験が。でもそれはラカンの言葉を使えば小文字の承認欲求となり、そこが起点になっていると勘違いしていた。
小文字の他者は後からついてくるものだ。この順序を忘れないようにしよう
人間は大文字の他者に認められたくもあり、大文字の他者に平伏しているのだろう

トマス・ホッブス 不安
トマス・ホッブズです。人間の感情において最も根源的なのは恐怖であり、不安であると。ホッブズによれば、人間というものは、ただ自分がいい思いをするため、自分が幸福になるためだけに生存する身勝手な生きものです。しかも、個々人にそのための力量の差があるわけではなく、チャンスはまったくの同条件(平等)であるというのです。 だからこそ、お互いに命や財産が奪われるんじゃないか、他人に出し抜かれるんじゃないかと、いつだってびくびくしている。そういう状態こそ、人間本来の姿、つまり「自然状態」なのだとホッブズはいいます。万人の万人による戦争状態。理性的な打算」が、人々が戦争状態を調停するきっかけになる、とホッブズは考えました。そこでみんなが、あるひとりを自分たちより頭ひとつ抜けた「主権者」とし、その人に自分たちのすべての権限を明け渡して服従するかわりに、身の安全を保障してもらい、各自にらみ合いの戦争状態を脱する。これが「社会契約説」です。後者の、多数の人間によって構成され、「国家」という人格をもつ「人々の合議体」のことを、ホッブズは旧約聖書の『ヨブ記』に登場する怪物リヴァイアサンになぞらえました。かれの主著『リヴィイアサン』の扉絵には、全身を国民という鱗に覆われ、剣と牧杖を掲げた怪物が描かれています。世俗と宗教の権力を統合した国家主権のシンボルを擬人化してみせたのです。
現代の「自然状態」で生きるルールを、シリコンバレーという熾烈な競争の場を生きぬく企業の CEOの言葉を借りていえば、「病的なまでの心配性だけが生き残る( Only the Paranoid survive.)」ということになりますが、これはまさにホッブズです。成功に浮かれていたら、失脚してしまう。舞い上がっていたら、足元をすくわれてしまう。 であるならば、油断もせず慢心もしない。腰は低く、敵はつくらず、脇が甘くなっていないか、たえず前後左右を点検する。そのような「恐怖の力」は生きながらえる上で不可欠であり、現代もホッブズの語る自然状態と変わらず、「臆病であること」が生き残るための条件なのです。

ニーチェ フラッシュバック
永劫回帰故に苦労をずっと繰り返すけど、たまにの幸福で人間って生きられるよね。
倫理 世の中の善悪の判断基準。社会概念。
道徳 善悪の善の行動をするために、守り従わねばならない規範。個人的な行動
歳を重ねるにつれ分別もついて、手痛い失敗を恐れて傍観者をきどり、危ういことには手を出さない、現状維持的な、身の丈に合った生き方におちついてゆくものです。喜びも苦しみもある、振れ幅の大きい、自分の背負った運命に翻弄される生きかたを「ディオニュソス的な生」と呼びます。このディオニュソス的な生は生き方に落差があり大変な人生なように思われますが、もし私たちがある夜、自分には無理だと思っていた素敵な恋人と結ばれたとか、思いがけない仕事での成功や称賛を受けたりして、「この幸福がずっと続けばなぁ、ああこの瞬間よ、また来てほしい!」と思ったとしたら──すべての出来事は、環っかのように因果でつながっているのだから、また再び起きるだろう不幸の体験に対しても、「しょうがない、また来い!」と言っていることになるのだよ、とニーチェは説きました。これが「永劫回帰」の思想です。不幸な体験がなければ、いい思い出もないわけで、両方があるから人生はつらく、そして楽しい。その振れ幅の大きい人生をこそ愛し、楽しめ! というわけです。ではどんなに不条理としか言いようのない、むごたらしい悲惨な運命でも愛せるか? ということが問題になるわけです。愛せる、とニーチェは言います。不幸な体験こそ、ある場合には幸福な体験以上に財産に変わるのであると。失恋や失業、人に裏切られた経験、自分の力ではどうにもならなかった災害や事故の体験、酔ってやらかした大失敗、仕事の手痛いミスの思い出はその最中にあるときはただ、つらい。自分が悪いとしかいいようのない若気の至りは、思い出すだに恥ずかしい。 しかし、それをなんとかやりすごし、乗りこえてみて、のちに過去としてそのときを振り返ってみたならば、ただよかった、あるいは楽しかっただけの経験よりも、そのことがあったから、いま、がんばろうという気持ちになれている。なにくそ、やってやるぞと思えている。そう、人生をふりかえったときにつらい記憶はいまを生きる私たちになつかしい潤いを与え、またこれから頑張ってやろうと思えるガソリンになったりするのです。敗北しているにもかかわらずそれがいささかも記憶となり膿んだ傷口となることがない」者(を真の「強者」であるとして、「弱さ」をひとつの哲学的なコンセプトに昇華しました。

チクセントミハイ 他人と比べる
チクセントミハイはフロー体験を提唱しました。「する」 =実力の価値観がまざりながら、それでも「である」 =ステイタスの価値観がいまだ根強いニッポン社会。する「フロー体験」「人生をどうしたら幸せなものにできるか」というテーマに生涯かけて挑んだチクセントミハイは、人が生きていることを実感し、自己肯定感を感じられるのは「チャレンジとスキルのバランスがとれている時」であるという結論に至りました。この状態にあるあいだ、人は時間の流れを忘れて没頭します。能力を限界まで使うので他のことに関心がむかわず、そののめりこみから静かな高揚感と幸福を味わうのです。ふだんから能力に合った課題に熱中している人は、「フロー体験」を身をもって味わっているので、自分の内部が肯定感や有能感でみたされ、ステイタスを他人と比較するようなことが気にもならないし、必要にもなりません。「集中して取り組むべき何かをやりとげている時は、同時に自分の存在を感じるほどの注意力は残っていない」
人間の能力は使用されることを求めてやまず、人間は使用の成果を何らかのかたちで見たがるものである」としています。「ある能力を持った人間が、その能力を使わないように制限されることに、人間として一番不自然な苦しさ、つらさがあることを知らなければならない」。われわれの社会は、努力にモラルを置いている結果、能力のある人間をわざとのろく走らせることを強いるという、社会独特の拷問についてはほとんど触れるところはない」。そう、三島由紀夫のいう「われわれの社会」でどうやって「チャレンジとスキルのバランスがいい経験 =フロー体験を味わえる仕事環境」をつくれるか。今度はそれが切実な問題になってくるのです。

アドラー 人からバカにされる
他者の課題には立ち入らず、自分の課題には誰にも立ち入らせない。この「課題の分離」ができるだけで、対人関係の悩みは改善するとアドラーはいいます。それだけ画期的な視点だというのです。他人の課題が自分の課題であるかのように錯覚してしまう。アドラーはまた、「人は自分に価値があると思う時にだけ、対人関係の中に入っていく勇気を持てる」といっています。自分ができることは努力すべきだが、どうにもできないことはどうにかしようとしない、ひどいいじめに遭い、「私は生きている価値がないんだ」と追いつめられてしまったとき。そんなときは、両者を自分から無理やり引きはなすために、その環境から思いきって逃げてしまった方がよいのです。「より大きな共同体で考えればいい」とアドラーがいったように、学校や会社に無理に行くことは考えず、とにかくシェルターのような場所(図書館でもどこでも、居心地のいい特別な場所)に逃げこんで、生き延びることです。共同体感覚。「大切なのは、他に対してプライドをもつことでなく、自分自身に対してプライドをもつことなんだ。他に対して、プライドを見せるということは、他人に基準を置いて自分を考えていることだ。たとえ、他人にバカにされようが、けなされようが、笑われようが、自分がほんとうに生きている手ごたえをもつことが、プライドなんだ。相対的なプライドではなくて、絶対感をもつこと。

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