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「小児性犯罪者は人間ではない」その考えは当然だと思っていた。


 別に、性被害の経験があるわけじゃない。
私が経験したことといったら、夜に電灯の下に全裸の男がいた。
駅のホームでニヤニヤしながら自慰行為を見せつけてくる男がいた。
って程度だ。
 なのに、そういったニュースがあると見てしまう。
凄まじい嫌悪感が湧く。
湧くと分かっているのに、見てしまうのだ。
気になってしまう。
 これは正義感なのか?
それにしては"見かけだけの美しさ"すらないと思うのだが。

 何に嫌悪するかって、成人からの未成熟な子どもに対する小児性犯罪にだ。
こういう人間達は、一体、人間と呼んでよいのだろうか?
あろうことか、小児性愛なんて言葉がある。
愛?怒りを超えて畏怖だ。

 成人男性から女児への口腔性交の強要。中年の教師が笑いながら小学生女児の首を締め上げ、田んぼに投げ捨てる。実の父親が娘に何度もレイプをする。トイレの中でわいせつ行為後に絞殺し、カバンの中に3歳女児の遺体を入れ、女児の親とすれ違い後に排水路に捨てる。

 そういった話しを見聞きすると、私は想像してしまう。
3歳の娘が、同じことをされたとする。
これらに、されたとする。
私はその時、これらへの殺意を抑えられるのだろうか。
 自分の子に"殺人者の子ども"というレッテルを貼らせてはいけない。
"自分のせいで親が殺人者になってしまった"と、罪悪感を与えてはいけない。
その理性を保つことができるのだろうか。
 想像だけでも殺意をもてるのに、実際に起こってしまった時、抑えることはできるのだろうか。
もし抑えれれなかったとして、私は果たして後悔なんてするだろうか。
でもこの私の感情は、きっと特別ではない。
親ならば、同じように感じる人は多いだろうから。

 実の父親や母親から、子への性被害があることを私は今まで知らなかった。
知った時には、頭がクラクラした。
しばらくの間、夫が娘と遊ぶ様子を目で追ってしまっていた。

 もし、夫が、娘にやったとしよう。
何一つとして、同情も、共感も、許しもなく八方塞がりだ。
私は夫をやらなければならない。
夫の母親になんと言われようとも、どれだけの言葉をかけられようとも、私は後悔しないだろう。


 ロシア人の親が、娘をレイプした男へ報復した話を思い出した。
レイプ男を泥酔か睡眠薬かで寝かせた後、男に去勢手術を施した。
そして駅のホームかどこか、元いた場所に戻した。
 なんてことを思いつくのだ。
そしてその財力。
一生、その男は去勢という事実に付き合って生きなければならない。
私はいい案だと思った。


 そもそも、奴らを数年の懲役で人間の世界に戻すのならば、何か印をつけるべきだ。
見える場所に残すべきだ。
人差し指だ。
人差し指のない奴は、性犯罪歴がある。
衣服で隠させない。
誰もが一目で見てわかるように。

このような妄想が、次々に浮かんでしまう。

 最近は、男児への性被害も浮き彫りになってきているそうだ。
先日、男の子の親になった。
言い出せず、苦しむ男の子が多いらしい。
いや、それは男女関係ないか。
 どうやったらそういう奴らが近づかないように生きていけるだろうか。
そして、息子が犯す側にならないだろうか。
もし、犯す側になってしまったとする。
そしたら、私は息子と共にこの世から消えなければならない。


 性犯罪への嫌悪感が、著しく強いのはなぜなのだろうか。

 私がレイプという存在を知ったのは小学生頃に観た「あずみ」という映画だった。
 主人公の女性と友人が野宿している時に、数人の男に襲われるシーン。
私は激しい嫌悪感で、きっと息を止めていただろう。
こんなことがこの世に存在しているのか。と恐ろしくなった。
男はそういうことができる生き物なのか。と知った。
 だが、その後主人公の女性は、レイプ男たちを惨殺する。
その斬り殺すシーンがなんとも艶やかで。
 きっと、小学生の私は「こうすべきだ」と思ってしまったのかもしれない。
自分を犯す奴を、攻撃する奴を受け入れてはいけない。
 児童養護施設を出てからの私は、何か悪意あるものに支配される事を必要以上に嫌うようになった気がする。
悪意ある支配とは、祖母のことである。
祖母は、私を支配したがった。
本人は「あなたの為」だと言い切っていたが、彼女が欲しかったものは、自分が思い描くように動く孫だ。自分を何よりも大切にしてくれて、周りに見せびらかせる優秀で美しい孫だ。
 だからよく反発した。
当時は正解が何かとか、どうでもよかった。
ただ、私を支配しコントロールできると思うな。という感情だけだ。
 攻撃的に見えるが、きっとこの根本は恐怖だ。

 人生で2人目の彼氏は、束縛の強い人だった。
最初はいい子のフリをして耐えたが、ある日糸が切れたように無理になった。
好きだったはずの相手を、虫けらを見るような目で見ていた。
相手がどうすれば傷つくか、私の耐えてきた期間をどうやって償ってもらおうか。私を支配しようとしたことをどう償わせるか。
そんなことを1日中考えてしまった時があった。
 でも私もそこまで暇ではないし、数日したら冷静になり、普通にお別れして距離をおいた。


 私はこんな妄想にふけるのは、父から受け継いだDNAからなのだろうか。
父は小学6年生だった兄の顔を、原形がなくなるぐらい何十回と殴った。
 私も弟も、何十回と殴られた。
 自分の罪を自分で決めろ。と言われたことがあった。
弟は涙声で「お尻叩き10回」と言った。
父と義母は「10回でいいのか?」と聞き直し、弟は泣きながら「追加でビンタ10回も」と言い足した。
 あれは、かなりの悪意と精神的支配が含まれていた。
私はあの時湧き上がった、嫌悪や憎しみや罪悪感や悲しみや情けなさをすぐに思い出せる。
 なぜあの時、湧き上がった憎悪を父や義母にぶつけられなかったのだろう。と時々思ってしまう。
なぜその感情の勢いにまかせ、台所に常に置いてある物を使用しなかったのだろうか。
なぜ私は冷静さを失って行動してくれなかったのだろうか。

 私もいつか自分の遺伝子に従い、父と同じように暴力を振るうことができてしまうのかもしれない。
 自分の半分以上は、遺伝子によって決まるというのは、本当に事実なのだろうか。
事実だと仮定してみる。
 ただ、自分の祖先をたどっていって他人に暴力を振るったり、他人の人生を終わらせたことがない人など存在するのだろうか?
 父の父。つまり私の祖父。
祖父は戦時中、特攻隊に所属していた。「自分は敵国民を一人でも多く殺し、日本のために死にます!」という価値観をもっていた。

 共に訓練を重ね、寝食をともにした仲間。
上官の号令で一列に並ぶ。
「次の特攻は誰が行くか?」と上官が、並んだ若者(祖父達)に尋ねる。
全員、一歩前に出る。
一歩前に出たら決まって同じ言葉を全員が叫ぶのだ。
「自分こそが、お国のため死にに行きます!」と。
そこから上官が数名選ぶ。
祖父が選ばれる時が来た。
その直後、終戦の知らせがきたと。

 この話しは何度も何度も祖父から聞かされた。
 そんな祖父は、数年前に亡くなった。
祖父は最期までロシアのことを"ソ連"と呼んでいた。
 だが、私は知りたかった肝心な事は結局最後まで聞けなかった。
「おじいちゃんは、戦争で人を殺したことがあるの?」
この質問を何度も問いかけようとしては止めた。
なぜなら特攻隊の話しをしている時の祖父は、なんだか誇らしげだったからだ。
 もっと時代を遡ると、刀を持つことが許されていた時代もあったし、復讐で人を殺すことを法で許されていた時だってある。
 遺伝子で話しをつけるとしたら、日本人皆、該当してしまわないか?
皆、何かしらの狂気をもっていて、それらと戦っているのではないだろうか。


 性被害を受けた人、そしてその親たちはどれほど、耐えているのだろう。
殺意をどうやって押し込めているのだろう?
 そもそも、お前ら、私のような人間に殺される覚悟をもって、やっているのか?
それでも自分の欲求を抑えられないのか?
いや、その欲求が生まれた瞬間、お前らは自分の人生を終わらせるべきだった。
自分よりずっと小さく弱い幼児を犯すのはどういう気分なんだ。
自分で終わらせられなくて苦しいのなら、他人に任せよう。
そういう法ができたら、お前らは救われるんじゃないか?



 ここまでの私の思考は、平成・令和を生きてきた人間の、よくある、ありきたりな考え方なのではないだろうか。

 女性運動による性被害の情報開示。性被害を受けた者達の声を、様々なソーシャルメディアで見て知ることができるのが当たり前。暴力性の高い映画等の娯楽が人気を博しているのが当たり前。これからの時代は男女平等であるのが当たり前。女性の社会進出により、男性に負けないようにと考える人がいるのは当たり前。LGBTQによる多様な性について否定しないのは当たり前。(LGBTQに小児性愛を追加しようという考えがあるらしい)

 これらが少しずつ部分部分で吸収されたり刷り込まれたり。
私が生きていた時代による、価値観の集合体のようなものだと思う。

 まるで時代という洗脳の中にいるようだ。
 水飴の中にいる気分だ。
様々な価値観がドロドロに混ざりあって水飴のようになっている。
体を全て覆うほどの大きな水飴の中から、うっすらと外を見ている。明瞭に見えている気になっていたが、実は形すら危うい理解度なのだ。
問題は、この水飴を上から垂らしているのは一体誰なのだろうか。自分か?それとも自分以外の何かか?
 教養のない人が増えたと言われている日本の、私は典型的な人形なのだろう。
しっかり流されて、想像力豊かで、敏感で、少し扱いづらいがなんとか社会で普通を生きている。そんな人は実は沢山存在していると、私は勝手に思っている。

 心の底で感じていた違和感が、調べていくうちに確定的になりつつある。
私は時代に影響され翻弄されているだけだ。
 そして、この思考のままでは根本的な解決には決してならない。
根本的解決にならないなんて、心の奥底では分かっていたが「それを上回るほどの悪なのだから解決という言葉すら浮かばなくて当然」と思っていた。
 だが、ある事件を知り、私は考えを変えなければならないと感じた。そうは思っても私の中心にあるこの胸糞悪いものを消すなんてできないし絶対的悪の認識も、「奴等は人間ではない」を変えられない。輪郭しか分かっていないのが、恐怖を増長している原因なのでは?輪郭が明瞭ではない理由は明らかだ。今まで知ろうとしなかったからだ。知ることに耐えられなかったからだ。
 今だって耐えられるか分からないが、事実を知っていこうと思う。
これから私が調べていくものが、事実を誇張したものでないことを願う。情報を知る行為は、身近で起きた時と同等に近い衝撃感を人は受けてしまう気がするからだ。その衝撃が恐怖となり、思考が止まってしまわないように。


 ある程度共有された価値観が自分の価値観になっている。
その自分の価値観になったつもりで持ち続けているものを、壊さなければならない。
 この水飴の中から出なければならない。
 私の求めない結果が発生したり、私の求めない私にならないためにだ。





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