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川の前で佇む美女に声をかけた

 こんなに暑い中、スーツで仕事に行かなければならない。
頭がどうにかなってしまいそうだ。うだる暑さで眉間にシワが寄る。
 コンクリートから感じる熱は気持ちが悪いし、暑さのせいで普段より一層と町並みがごちゃごちゃとしているように見える。
 この町並みが嫌いだ。
立ち並ぶ家の間にある、人工の堀川も気に入らない。
汚い灰色と黒が混じった色のコンクリートの間に流れる川の水が、夏の強い日差しに反射してきらきらしてる。
そうはいっても実際の水は汚く、触ることもおぞましい。
生臭い匂いがしていて、もし水に触れてしまったら数日間はパンや果物といった手づかみのものは食べられないだろう。
そう考えてはみたものの、この川の水に触るには5メートルは下まで降りなければならないし、水に触れる機会などないのだが。

 町並みが嫌いなのは、なにより13年も見続けているからだ。会社に行くだけでも気が重いのに、この景色のせいで一層憂鬱な気分にさせられる。
 会社の給料は悪くないし、別に嫌な上司がいるわけじゃない。
環境や条件の整った職場を選択した。だが何か違うんじゃないか。人生の7割は仕事なのだから、その7割をこんな気持ちで過ごすのは勿体ないのではないだろうか。もっと我武者羅で夢中になれる仕事があるのではないだろうか。自分の得意と好きが合致する場所を見つけられずにいる。
 自分に合っていない仕事だと思いつつも、気がついたら13年もこの会社に通い続けている。
 だからこの景色には、辟易している。
こんな憂鬱な気持ちで職場に通わなくて済むような居場所がどこかにあるはずなんだ。
自分は行動しないで、守りに徹しているからダメなんだ。
 ずっとそう思っているのに、結婚や子どもを言い訳にして時だけが流れてしまった。

 ふと、父親の言葉を思い出した。
父が10年ぶりに故郷に帰省したら田んぼも池もなくなり、全く違う街になっていた。
「懐かしさを微塵も感じなかった」と、虚しさと悲しさを含んだ目をしながら、ぼやいていたのを思い出した。
 そう思うと、13年間変わり映えしていないこの景色は、別にそこまで悪くないのかもしれない。
 いつかこの会社を辞めた時、この景色に対して感慨深くなるかもしれない。 

 いや、ただ一つ、変わった景色があった。
それは、1週間前から。
やっと、つまらない通勤路の13年に変化が現れた。
 普段、川に沿って道沿いを歩く人といったら、同じ職場に向っているであろう、くたびれたスーツを着ている人と、地元に何十年も居続けている老人ぐらいだ。
 この老人達はきっと、もう何十年もこの街から一歩も出ずに生きているのだろう。そんな目をしている。

 そう、見慣れない女性を見つけたのだ。
川沿いの道に立っている。
 腰まである黒い髪で、身長は私と同じくらいか少し小さめ。165ぐらいってところかな。
綺麗な濃いグレーのスーツを着ている。
パンツスタイルのスーツを格好良く着こなせているのに、猫背なのが勿体ない。
いつも少しだけ下を向いているから顔がしっかりとは見えない。
でも美人の雰囲気が漂っている。
美人への嗅覚が私は鋭いのだ。
 ただ、カバンを持たずに立っているのが不思議だ。
最近はミニマリストが流行っているから、決算はすべてスマホ、財布を持っていたとしても手のひらサイズって感じか。
必要最低限の物しか持ち歩きませんってスタイルなのかな。そんな香りがする。
 もう1つ、不自然な点を上げるとしたら、いつも同じ場所に居るということだ。
私がその道を通るたび、同じ場所に立っている。
1週間、同じ場所。
 そろそろ、不自然というより違和感や不信感に変わってきている。
そして、私の中で確定事項になりつつある。
 きっと、あれは生きていない。
 まあ、とはいえ私は幼少期から霊感があると思っていた。
なにか決定的な出来事があった訳では無いが、なんとなくだ。
なんとなく、私は見える側の人間だと思ってたんだ。
 女性を見つけてから、2週間が経った。
やっぱり、どう考えても私にしか見えていない。
周りで歩く人達から存在を消されているような感じがする。
 同僚に「最近、川沿いの道にスーツ姿の黒髪ロングの美女を見かけるよね」と言ってみたが、皆見ていないと言っていた。
 これで確信できた。やっぱり、私だけだ。
 3週間目になった。
毎日見ているせいで、最初に感じた不気味さは微塵も感じなくなった。
むしろ興味が湧いてきた。
私は普通の人には見えないものが見えている。


 彼女が私の見立通りに、人間じゃなかったとする。
そして会話ができたとする。
できたとしたら、そのネタで飲み会は大いに盛り上がる。もし人間だったとしても、それはそれで美女と会話ができるし友人になれるかもしれない。逆にビンタでもされたのならば、同じように飲み会で盛り上がるネタとなる。
 少しは悩んでみたものの、どっちに転んでも私に損はない。
 今日は暑さが遠ざかるほどに気持ちの良い綺麗な青空で、雲一つない。何かを新しく始める日にはもってこいの空模様だった。
 青空の下、私は声をかけてみることにした。
「あの…。毎日、ここに立っていらっしゃいますね」
声をかけると女性は驚いたような顔をして、大きな目で私を見た。
やっぱり、思った通りだ。凄い美人だ。
はっきりとした二重で、深く黒い黒目が綺麗で見とれた。
恍惚としながら見ていた。
時が止まったのだろうか。音も風も消えてしまったような気がする。そう錯覚しているのだろうか。
見とれていたら、小さな音が聞こえてきた。

「やめ…い!おちつき…な…い!」
遠くで誰か何かを言っているようだ。
徐々にその声は大きくなっていく。
「やめなさい!やめろって言ってるだろうが!手を離しなさい!だれかー!」
 今、目の前に、あの汚いきらきらした川の水が5メートル下で流れている。
 私は、川に身を乗り出している。
3人の男性が凄い形相で私を取り押さえているみたいだ。
 なにが起こってる?
これは自分なのか。自分は何なのか。私は何者なのか、全てが曖昧だ。
 私の力が弱まったのを感じとったのか、3人の男が川沿いの道に一気に私を引っ張り上げた。
 ずっと息を止めていたのだろうか。
息が切れる。どれだけ空気を吸っても苦しい。手足の先が痺れている。
 さっきまで、女性と会話を交わそうとしていただけなのに。
尋常じゃない量の汗をかいている。汗と言っても油のような粘調さだ。
 「どうして川に飛び込もうなんてしたんだ?すごい力だった。ずっと俺より小柄なのに」
と1人の男性が聞いてきた。
「え?飛び込む…?」
 私はこんな汚い川に飛び込もうと思ったことなど一度だってない。
死にたいと思ったことだって勿論ない。
 女性の目に見とれていた後からの記憶がない。
あの綺麗な女性は人間じゃなかったんだ。
死後の世界の人だったんだ。
引き込まれるところだったんだ。
連れて行かれるところだったんだ。
 そう自覚した途端に身震いし冷や汗が出始めた。
 なぜ自分なら、なんて考えたのだろうか。
自分は人とは違う才能があると、なぜ勘違いしたのだろうか。

 助けてくれた3人の男性に、女性のこと、記憶がないことを話した。
すると男性達は驚きながらも、こんな私の話しを聞いてくれた。信じてくれた。
「君は運がある」
「神様が助けてくれたんだ」
「日頃の行いが良かったのだろう」
「ここで死ななかったということは、君は何かやり遂げる人間なんだよ。君の命に何か意味があるんだよ」
 私に寄り添い、笑顔でそういった言葉をかけてくれた。
 彼らのおかげで私は死ななかった。助けてもらった。神様のように優しい人たちだ。
 彼らの言う通りだ。
私は運がいい。
私が死んだらパートナーも子どもたちも悲しむじゃないか。
仕事だってまだまだこれからなんだ。まだ私にぴったり合ったものに出会っていない。
私はこんなところで終わる人間じゃないんだ。


急いで家に帰る。早く家族に会いたい。家に入るまで心が落ち着かない。
家についた。
いつもの我が家だ。
いつものようにドアの鍵を開け、ドアノブを引く。
子どもたちが走って来てくれる。
子どもたちの後にパートナーが私の元に来てくれる。
"おかえり"と言ってくれる。
ああ、良かった。家族のいる家に帰れた。
空気が暖かくて仕方がない。
愛おしくて仕方がない。本当に良かった。生きていて良かった。私は運がいい。私の人生はこれからなのだから。私は何者にだってなれるんだ。何かを成し遂げる価値ある未来が待っているはずなんだ。
おもわず子どもたちに抱きつく。
強く目を瞑り、噛みしめた。


充分に子どもたちの温かさを噛み締めたあと、ゆっくりと目を開ける。
体が横になり浮いている。ゆっくりゆっくりと、上にいったり下にいったり。
すごく静かだ。
少し上をみてみると、青色だ。きらきらしている。
心地がよくて、私はまたゆっくりと目を瞑った。








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