見出し画像

リアリズムとユートピアニズムのひと・小澤征爾(前編)

1997年、茨の道を歩んできた日本フィルハーモニー交響楽団が記念すべき第500回定期演奏会を迎えた。曲目はマーラーの千人の交響曲、指揮は小林研一郎。大学1年のわたしは市民で編成された日本フィルハーモニー協会合唱団の一員として第2コーラスで参加した。開演の直前、指揮者の真下の最前列席に誰かが駆け込んできた。小澤征爾だった。日本フィルと因縁(後述)のあるこの世界的指揮者がやって来たことに場内はみんな驚いた。わたしにとっては目の前の指揮台に立つ小林研一郎と共に十代の頃のスターが視界にいるので、興奮したのと同時に、小澤らしい情の厚さを見たような気がした。

その小澤征爾が2024年2月に亡くなった。小澤ほど日本において一般的に知られているクラシック音楽の指揮者はいなかったはずだ(かつては岩城宏之もそういう存在だったかもしれないが。いまなら佐渡裕?)。小澤に対する追悼の記事は硬軟あらゆるメディアに掲載され、また当然ながら死人に鞭打つようなものはほとんど見当たらなかった。それはそうだろう。小澤は政治活動をしていたわけでもないし(岩城宏之や黛敏郎とかと違って)、彼と関わったことのあるひとならば皆その人柄の良さを称えている。

新聞等の追悼記事では、小澤にまつわるエポックメイキングな事件として、決まってN響事件が取り上げられていた(詳細は検索してみてください。簡単に言うとN響が小澤をボイコットした騒動)。N響事件こそが、一般的なメディアが扱ったややネガティブな小澤征爾に関するネタであると言ってもよいかもしれない。しかしこの事件は当時のマスコミの論調も小澤贔屓のところがあったようだし、井上靖、三島由紀夫、中島健蔵、大江健三郎や石原慎太郎など作家、文化人たちが小澤を擁護し旧態依然の体制的なN響を批判したように、戦後民主主義社会華やかりし頃の世間も小澤を悲劇のヒーローとして見立てた。しかし小澤の師である斎藤秀雄が後にN響事件の頃の小澤を振り返って「あの頃は思い上がったところもあっただろうし」という意味合いの発言をしているのをなにかの書籍で読んだことがあるが、師弟関係だからこそ言える率直な物言いは案外と客観性を帯びている気もしなくはない。それでも、あの事件の内実は、1960年代日本における戦後新世代VS旧世代という構図の力学が働くことによってぼやけてしまい、当事者しか真相はわからないところがあるだろうし、小澤とN響のどちらが良い悪いというのは判断できないというのが、現在の視点からの真っ当な評価ではないだろうか。むしろN響事件は、小澤が海外を拠点に活躍する契機となった成功譚の序章として言及される傾向にあった。

小澤にまつわる「事件」はN響事件だけではない。小澤が首席指揮者を担っていた日本フィルの解散事件も挙げなければならないはずだ。文化放送とフジテレビをオーナーにしていた日本フィルは、1972年に援助金を打ち切られ財団は解散、楽団員は全員解雇となった。直接的な理由としては1971年暮れの第九演奏会のストライキがあるとされている。小澤は「労働組合の旗を下ろせばスポンサーが見つかる」と主張したが、結局、組合派と非組合派に分裂し、非組合派の新日本フィル立ち上げの中心にいたのが小澤である(新日本フィルはかつてのスポンサーから様々に優遇されたという)。組合派の日本フィルは新日本フィルと同じく自主運営の道を選び、文化放送とフジテレビを相手取り争議を続けていくが、1984年に和解をもって日本フィル争議は一応の終止符を打つ。争議の間、日本フィルは全国の労働組合や市民団体を中心に支援を受け、労使闘争のシンボリックな存在となったし、解散騒動そのものもマスコミは大きく取り上げたので一般的に広く知られた事件であった。

しかし小澤が亡くなった後に、この件についてとりあげたメディアは、しんぶん赤旗(2024年3月11日「朝の風」欄)くらいだったのではないだろうか。少なくとも新聞媒体で(政党機関紙とはいえ)この件を通じて小澤の過去を批判的に評価していたのはこのコラムだけであったと思われる(ちなみに当紙は小澤の功績を称える追悼記事もきちんと掲載してるし、音楽通で知られる当時の志位委員長は小澤を讃えるツィートをしている)。件の新聞の性質上、組合側に立った視点で書かれていることは当然で小澤が非組合派と工作した事実を指摘している。他にもSNSやブログで日本フィル争議に関わった支援者や当事者からこの件への言及を幾つか確認はできた。この事件については日本フィルハーモニー協会が編纂した『日本フィル物語』(音楽之友社)に詳しいが、この本はあくまでも組合側の視点の記述である。かつて日本フィルハーモニー協会にも入っていて同協会合唱団にも在籍していた私としては心情的に組合側の立場でこの件を理解しているが、小澤征爾の当時の判断、選択、行動については、安易に批判もできないという立場だ(かと言って肯定も賛同もできないが)。

小澤が日本フィル解散が危ぶまれているときに、園遊会だか何かで昭和天皇に「陛下、日本フィルを助けてください」と直訴した話は有名だけど、このひとはこういう純粋さというか単純さを持っているんだろうな、ということは様々な発言などでよくわかる。当然かもしれないが、小澤にとってストライキよりも何よりも音楽をする道を選ぶことが最優先に大切なこと、ということだ(全然適切な喩えじゃないかもしれないが、長嶋茂雄が現役時代に「社会党政権になったら野球ができなくなる」と言ったとかいう逸話を思い出す。長嶋にとっては野球がなにより大切。まあでも、長嶋の逸話の場合は刷り込まれたノンポリの反共思想なのでちょっと違うけど)。

小澤は発言が率直で日本語でも英語でも語彙は必ずしも豊かではなかった。また特定の政治的立場を表明することはなくニュートラルであったことと、しかしその一方で父親の小澤開作の満洲での政治活動や、よく知られているように征爾の名前が板垣征四郎と石原莞爾から取られていたこと、そして何より前述の日本フィル解散騒動でとった立場がバイアスとなって、やや保守的と解されるきらいがあったかもしれない。 

例えば、武満徹との対談集(『音楽』新潮文庫)でも、国家や民族、アイデンティティ、そして七十年代当時の中国への思い、NHK批判など、当時四十代の小澤はかなり「政治的」な発言をしている。しかし彼のある種の純粋さによって、ときにハッとする表現が発せられることがある。わたしの好きな、印象に残っている小澤の言葉として、武満徹との対談で語られた以下の部分を引用してみる。

「日本」と言って愛しているものはいったい何か?(中略) 結局、帰巣本能みたいなものだろうね。それは多分、僕が子どもの頃からなじんできた、食習慣であったり、文化的伝統であったり、感受性であったり、友人たちであったりするものの総体だと思うんだよ。だからいわゆる国粋主義ではないんだよ。(中略) 日本国でも、歴史上、幾多の政治勢力が交替してきた。しかしみそ汁はあまり変わってないし、四季の変遷も変わってないのね。それが日本人の血というものだと思うんだ。だから、僕の日本に対する愛は、みそ汁に対する愛国心みたいなものだよ。
              『音楽』(小澤征爾、武満徹・新潮文庫)より

「日本人の血」という表現には、わたしは忌避感を持つが、文脈によってはちょっと危うい表現もシンプルに使ってしまうところが小澤っぽい。この「みそ汁に対する愛国心」という表現は、読み方によっては、本人は否定しているものの国粋的にも解せるけれど、わたしは好きな表現だ。この一連の小澤征爾の言葉に、天皇への「直訴」や「組合の旗を下ろせばスポンサーが見つかる」などのシンプルな言動の背後にある彼なりの〈正しさ〉が垣間見れる。

リアリズムとユートピアニズムが同居し、世事や政治あるいは歴史的な蓄積への疎さがありながらも、時に無自覚にそれらを重んじることもある。一方で、個人的な体験や直感に従うという姿勢もある。これって小澤の音楽解釈にも見受けられるんじゃないかなとわたしは考えている。(後編に続くかも)


いいなと思ったら応援しよう!