さよなら、雨
カーテンの隙間から見える外の世界は、どんよりと曇っていた。
テレビでは昨日見ていた『エターナル・サンシャイン』のラストシーンが流れていた。
どうやら途中で眠ってしまったらしい。
隣にはか細い寝息をたてながら眠る美月がいた。
白いキャミソールの肩紐が二の腕辺りまで落ちている。
僕は人差し指で肩紐を肩にかけてやった。
指に触れた美月の肌は滑らかで、大理石のようだった。
「えっち」
「何がだよ」
僕の指で起きた美月が、小悪魔のような笑みを浮かべる。
僕が頭を撫でると、彼女は目を閉じ、何事もなかったかのようにまた眠り始めた。
美月の寝付けの良さに感心しながら、掛け布団を彼女の肩までかける。
テーブルには食べかけのポテトチップス、酎ハイとビールの空き缶が四、五個置かれている。
これを全て片付ける自分を想像すると、少し頭が痛くなった。
頭の痛さに耐えながら昨日の事を思い出してみる。
確か、外は土砂降りの雨だった。
*
サービス残業から帰ってきた僕が慌てて洗濯物を取り込んでいると、インターホンが鳴った。
ドアを開けると、そこにはずぶ濡れの美月がいた。
「ごめんね急に」
そう言って美月は作り笑いをした。
「入っていい?」
雨粒に紛れていたが、彼女は確かに泣いていた。
「もちろん」
僕は美月を部屋に招き入れた。
僕と美月が別れたのは、去年の冬だった。
サークルの飲み会であまり馴染めず浮いていた僕に声をかけてくれたのが美月だった。
群衆のざわめきの中、彼女が僕の耳元で、二人で抜け出さないかと囁いたことで全てが始まった。
出会いはロマンチックだったにも関わらず、別れは意外にもあっけなかった。
お互い社会人になり、会える頻度が徐々に減って行き、最後は『友達に戻ろう』の一言で全てが終わった。
もう会うことはないだろうと思っていたが、彼女は今、僕の家でシャワーを浴びている。
「お風呂ありがとね」
美月はタオルで髪を乾かしながら、ぶかぶかなスウェットを着て僕の前に現れた。
「どういたしまして」と僕は答えた。
「お酒とポテチあるけど」
「え、良いの?」
「うん。昨日の宅飲みの残りだから」
映画はDVD棚から美月が選んだ『エターナル・サンシャイン』を見ることにした。
僕たちが酒を嗜み、ポテトチップスをつまみ出してから、少し時間が経った。
「聞かないの?」
沈黙を破ったのは美月だった。
「何を?」
「何があったか」
「何がって?」
「彼氏が浮気してたとか、家にタイガージェットシンがいたとか」
おそらく前者だろう。
「元彼のあんたの家に突撃しちゃってるんだから、それくらい気になるでしょ」
「美月が『友達に戻ろう』って言ったから、てっきり友達だと思ってたけど?」
「…ごめん」
「冗談だよ。今のは性格悪かったね」
見た目の割には生真面目で、何事も正面で捉えてしまう。
彼女の性格は、今でも変わらない。
「もし僕が美月の立場だったら、何も聞かずに隣にいてほしいからね」
我ながらキザな発言だと思う。
夜が更け、外の雨も少し収まってきた頃、僕たちは真っ暗な部屋で体を重ねた。
美月の荒い息遣いや身体のくびれが、付き合っていた頃を鮮明に思い出させた。
ふと、彼氏のことが頭をよぎった。
萎えそうな僕に気付いたのか、美月は僕を手繰り寄せ、耳を噛んで、小さく囁いた。
「何も、考えないで」
アスファルトに打ち付ける雨音に紛れて、僕たちは水で薄めたような愛をひたすら舐め続けた。
事が終わっても、『エターナル・サンシャイン』はまだ終わっていなかった。
「この映画、好きなの」
美月が僕の肩に頭を預けながら、そう言った。
「小学校の時、この映画を見て『私もいつかこんな恋をするんだ』って思ってた」
美月の声は、段々と震え始めた。
「こんなはずじゃ、なかったのに」
僕は彼女の顔を見ずに、ただ頭を撫でることしかできなかった。
*
目が覚めると、彼女の姿はなかった。
テーブルに散乱していたゴミは跡形もなく消えて、その代わりに律儀に畳まれたスウェットが置かれている。
その隣にはメモが残されていた。
『勝手に帰ってごめんなさい。
何を言えば良いか分からなかったの。
辛い時だけ頼って何も言わずに出て行くなんて、最低だよね。
でもそうせずにはいられなかった。
多分私、まだあんたのこと好きなんだと思う。
何も聞かずに側にいてくれるところとか、肩まで布団を掛けてくれるところとか。
でも、好きって気持ちだけじゃ駄目なんだね。
もう小学生の私はいなくなっちゃった。
あんたの人生に、私は邪魔でしかないから。
そんなことないって、あんたは言ってくれると思うけど。
どうか、私より幸せになってね』
メモの右端に後書きが書かれていた。
『P.S. 昔忘れた下着は持って帰りました笑』
所々、美月の文字は涙で滲んでいた。
外は昨日が幻かのように見事な晴れ模様だった。
こんな素晴らしい日なのに、隣に彼女はいない。
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