包まれし花の香りの青空に 時を忘れてわれ風になり 風運ぶ濡れた大気が呼び覚ます あの日あの時センチメンタル 20年前、まだネットの世界に怖れを抱きつつ、込み上げる気持ちを抑えられなくて投稿した言葉の羅列。なのに気持ちは受け入れるよと添えられた言葉と共にボールは返ってきた。 やがて2人は恋に落ち、幾度ともなく歌を詠み、送り、返し、そして時には短いリレー小説をやり取りするまでになる。 出会ったのは桜の咲く季節だった。
ご縁というものは本当に不思議なものです。 色々な事が複雑に絡み合って 結果として今が有るというのが しみじみ感じられる毎日です。 その色々な事は、 嬉しい事も辛い事もごちゃ混ぜになって 結果を作り出していて、 それらのひとつでも欠けていたら また違った「今」になっている そんな不思議も感じます。 夫の後ろをついて行けば良いだけの生活から ひとりで歩く日々。 13も歳上なら 先立たれる事も分かってたでしょと 言われた事もありますが、 皆、そんなに潔く、 かけがえの無い
今年も月下美人が咲きました。 毎年なぜか、仲良くペア2輪、一緒に咲いてくれます。 ベランダに出したままにしていて、 気付かないうちに萎れているのを見つけた年もあったので、 それからは、早めにお部屋の中に入れるようにしていました。 何かにつけて、その時の夫の笑顔を思い出します。 12月のシフトが早くも出たので、 クリスマスに思い出の地のホテルを予約しました。 もう直ぐ11月。そしてあっと言う間に12月が来て、年末年始になると思うので、 夫が生きていた頃のように、 クリス
久しぶりにnoteを更新したけど、 朽ち果てない為に みたいに書いてるのを自分で読んで、 朽ち果てて良いんじゃない? って後で思った。 むしろ、朽ち果ててゆく方が至極自然で、 そういうものじゃない…って 心が反論した。 でも日々生活している時に 「ちゃんとしよう!」 と思えるのは、 少しでも綺麗にとか 少しでも元気で…とか 自然に抗う気力が大切な気がする。 実際はいくら抗ってみたところで ドンドン枯れて朽ち果ててゆく。 肉体はどうしようもない。 いや…お金かければ
秋晴れの空は 心まで軽やかにしてくれる。 朝の冷たい空気は 凛とした気分にさせてくれる。 ちゃんとお化粧をして 毎日、規則正しく起き まぁ、時にはゆっくり目に起きたりもするけど、 朝イチのシャワーに テレビ体操 仕事に行って、 お休みの日には映画を観たり 友達とお出かけしたり お部屋はきちんと整えてられて 誰がいつ来ても大丈夫… って、誰も訪ねて来やしないけど。 自由に自分都合で進められる日々 お部屋、ぐっちゃぐちゃでも キッチン洗い物しなくても 誰にも文句言われない
iPhoneの写真を整理。 つい遡って亡くなった夫の写真を見てしまう。 もっと動画を撮っておけば良かった。 いつも息子のサロンオープン直前のあの日、シャンプーしてもらってる動画にたどり着く。 久しぶりの夫の声。話し方。 大好きな夫の動く姿 どうして逝っちゃったのよ… 私を残して。
あまりにも時間が経つのか速くて 若い頃はまともに聞いていなかった 「あっという間に月日が経つ」 と言われる言葉を 今、しみじみ体感している私。 夫が亡くなってから 嘆き 怒り 哀しみ 疲れ 気合いを入れ 勇気を振り絞り 強がり 深く落ち込み 泣き 笑い 頑張る自分を慰め そして この気持ちは誰にも分からないと知った。 「今出来る事 今やりたい事をやる」 ただそんな想いで日々を過ごしてきて 早、2度目の暑いを連呼する日々。 やってみたかったことや 行ってみたかった
************** 潔く散ると願うはただひとり 残されし者重き背負いて 花の様に願えど我身花で無し 散れぬが真の姿なりけり 無きものに想いを馳せる花筏 流れるままに時を重ねて *************** 桜、美しいですね 散る姿も、美しいですね 潔いというか 見事というか それがまた刹那というか 桜のように散れたら良いのに 美しいまま 儚いとか 名残惜しいとか 思われながら 旅立てたら どんなに良いか 義母が亡くなって 義母の納骨の日の翌
泣いてどうなるわけでも無いけど 涙って溜まるんだな…と思う。 亡くなる瞬間を看取るというのは ほんとにキツイ事だったけど 私が先に逝く方だったら 家事一切できない団塊の世代の夫を残して いやぁー…謝っても謝りきれない。 そんな気持ちになっただろうなと思う。 もちろん夫だって 「(頼りない)お前を残して逝けない」 と言ってたから そりゃ無念だったと思う。 あの亡くなる直前の 息が止まりそうな夫の手を握り 遂に亡くなった時 私は涙も出なかった。 「あぁ…やっと逝けた。」
夫の残した膨大なデータの中の 更に膨大に分けられたフォルダの中の 「執筆記録」の中に残された 私と知り合った頃に交わしたメール あれ…こんなところに残ってる。 私とのやり取りの物は 他のフォルダに整理されているのに 数件だけ取り出してあって きっと特別な気持ちがあったのが分かる。 ラブラブなメール とても懐かしい 私からの長いメール 最後に 「愛しているわ」 なんて恥ずかしげも無く書いている。 夫からは 自分が生きてきて手に入れたものは みんな伝えてあげたい 何もい
ほんとのところはどうなってんのかなぁ… と、考える。 悪性リンパ腫だと分かった時、 結構あちこち酷くて、 治療しなかったら3ヶ月もたない… って言われたけど、 何とか抗がん剤治療で命を繋いだ日々。 治療はとても辛かっただろうけど、 3年余りの時間をもらって、 泣き、笑い、沢山話し、沢山ハグした。 あちらの世界やら、来世の話やら、 冗談みたいに真面目に話した。 もし教えられるなら 逝った先の事を教えて欲しいなどと 無茶なお願いもしたけれど… 未だ音沙汰無しなので、 多分
桜の季節を前に、夫が亡くなりました。 ここは夫の闘病中に始めた場所でしたが、 放ったらかしになってました…ので 気力がある時に使ってみようと思います。 亡くなって半年と少し。 強制的おひとり様生活の私です。 この場所がある事すら忘れていました。 介護、看病、仕事。 奇跡的に回復しての2人旅の数ヶ月。 そして最後は思いがけなく、 あっという間に逝ってしまいました。 亡くなった後の喪失感の中で やらなければならない手続きに追われ、 実際はやる事が片付いた後に ぞっとする
夫が再発してから、激痩せした私に、 「何キロまでダイエットするの?」 と問う人や、 「痩せたねー。大丈夫?」 と気遣ってくれる人がいる。 数名の人に、事情を話す必要があり伝えると、 「私もね…夫を亡くして大変だったのよ。」 と、乗り越えた感半端なく仰る。 皆それぞれに辛く悲しい別れを経験して来られた様子に、凄いなぁと思う反面、今、真っ只中に居る私には、それらの言葉が刀の様に斬りつけてくるように感じる。 励まそうとする善意の言葉も、相手との関係性や言い方、タイミングによっ
あくまで「本人の自立支援の為のもの」 家族が困っていることには使えません。 ケアマネジャーさんと初顔合わせした日、契約の事項説明を受けた後、言われた言葉でした。 そんな事、常識なのですかね。 皆んな知ってるの? 私が無知だという事なのですね? でも、一刀両断の言葉に、 「あぁ、これから誰も助けてはくれないんだ。」 と、もの凄く落ち込みました。 いやいや…当たり前でしょ。 家族なんだから。 まだ、あなた元気でしょ。 そんな感じなんですかね。 ケアマネジャーさんが見つ
抗がん剤の副作用で下痢が続き、オムツを使用するようになった。 汚い話しになるけれど、それが現実。 本人が1番辛いし、世話するこちらへの気遣いも計り知れない。 次の抗がん剤治療までの間に、外来で病院を受診しなくてはならない。 自宅の集合住宅前にタクシーを呼んでも、そこまで歩けるのか?車椅子を借りておいた方が良いのでは?と心配する私に、夫は大丈夫と言うばかり。 そして通院当日、歩けない。 当たり前だ。 殆ど寝たきり。殆ど食べられない。 そんな状態で歩けるはずも無い。 通院
愛する夫に先立たれ…かけている私。 遺される者の辛さ、不安、これから先どうやって生きていけば良いの? 逝かないで。まだ逝かないで。 置いていかないで。 一緒に連れて行って。 連れて行けるものなら連れていくよ。 この世のことなら、まだ想像できる。 それがどんなに酷い生活でも、どんなに寒々しい生活でも。どんなにつまらない生活だとしても。 こんな世の中だから、想像したくない悲惨な未来が待ち受けているかも知れない…と、想像は出来る。 逝く先の事は、結局は逝ってみなくちゃ分からな