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鈴木結生『ゲーテはすべてを言った』を読んで。
久しぶりの小説。今回は、23歳で芥川賞を受賞された鈴木結生さんの『ゲーテはすべてを言った』を読みました。一個上だ。すごい。
まず、ゲーテというチョイスが面白い。『ブッダは・・』とかだったら「はいはい。」と言ってスルーしてしまいそうなところを、「ゲーテ?」と惹きつけられる。(もちろんドイツ文学におけるゲーテはブッダなんだろうけど。)しかも、かのゲーテのことを、ドイツ人の大半はあんまり興味がなさそうであることも踏まえて書かれているのがまた面白い。とにかくヨハンに会いたくなった。
聖典を写生をする芸亭(ゲーテ)、用語を済補(スマホ)で検索せず本のみで調べる統一、セリフを手の甲とサイトに記録する二刀流の娘。言葉に対する距離感が登場人物それぞれに違っていて、なんだか自分もそのことを問われているように感じた。最近、文字を読んでも、本を開いても、、とかなんとか言ってたのが、改めて言葉と向き合おうと思い直すきっかけになった。ありがとう鈴木さん。
物語の中盤で、統一が何も感じなかった大江の言葉によって娘が泣いた場面は唸った。うーーん。言葉は何よりも自分のものであっていいはずと思うが、その言葉を他の人が執拗に信仰したり、依拠したり、感動したり、はたまた侮蔑したり、軽んじたり、「そうね。」とか「あっそ。」とか言われたり。簡単に同調もされたくないし、享受してほしくないし、かといって理解されなさすぎることにも苛立ち、絶望するような、そんな言葉を介した自分と他者との関係が一番浮き彫りになる場面で(しかも家庭内で)、自分にとってはある意味でトラウマだ。な。
現代のインターネット社会において、言葉が溢れ出てくる社会において、言葉との距離感についてどのように考えればよいのか。これまでは(芸亭や統一は)、大切な部分(深層)とその型(スタイル)はおそらく一致しているものだったはず。芸亭は写生を通さなければ言葉は祈りにならないし、統一は全集や原稿を通さなければ言葉の信ぴょう性を確かめられない。しかし、そのスタイルを無碍にしたい破壊欲(然のような)やサッと飛び越えたい軽やかさ(娘のような)を人間は同時に有していること。多様の中の統一、か。
読後感として、文学って重厚で、堅苦しくて、教養的で、なんだか高尚ぶっていることと、人間に希望を与え、突き動かし、そして美しいことは、案外、乖離した二面性ではなくて、お互いに不可分であることを思った。
(ヘッセ的、というかファウスト的なのか、この場合は。)
ほんでちゃんと喜劇かーーー!愛については難しかった。