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大正落語三人旅
口上
「結局私たちの商売と言うものは箸にも棒にもかからないような人間がなっているんですな、大概は。さんざ浮世の苦労を舐め尽くして酸いも甘いも知った人間が聞くべきものなんです。それが落語と言うものなんですよ。話してえものは親の財産なんぞたんまりもらって、ぼーっとなんの苦労もしねえで暮らしてきたような人が聞いても本当の落語の面白みというものが分かるもんじゃないんですよ。言っちまえば、ほんのある1部の人間が聞いて喜ぶものなんです。もともと落語っていうものは、面白いと言うものじゃなくて粋なものも、おつなもんなんですよ」
落語家とは日本の古くから存在するストリーテラーのことである。たった一人で映画監督、役者、脚本家を同時にこなし、舌先三寸、口と舌と上半身の動きだけで、観客に想像の世界を見せる。使う道具は扇子と手ぬぐいのみ。衣装は着物。日本的ダンディズム、ペーソス、エスプリの世界に誘うのだ。一人の人間が座ったまま、ただお話しをする。新しい話をするよりも同じ話をすることが多く、そこに演者の違いがあり味がある。何故そんなものがいく時代も続いているのか、不思議である。
まくら
そもそも落語の始まりは江戸時代。もともは道端で面白い話をしゃべる辻噺から始まったが、寛政十年(一七九八)に岡本万作が神田に「頓作軽口噺」の看板をかかげて寄席興行が始まる。まもなくして三笑亭可楽、三遊亭圓生、林家正蔵、朝寝坊むらく等の噺家が登場、活躍すると落語は庶民の娯楽の一翼を担うようになった。
やがて江戸時代は終わりを迎える。
明治になって落語が残ったのは三遊亭圓朝(明治33年(1900年)8月11日に死す)という一人の噺家がいたからだろう。江戸時代から明治に変わりゆく中で西洋化が良きものとなっていく。日本の物は時代遅れで野暮なものと疎まれる。三遊亭圓朝は落語家の子に生まれ、幼い頃、歌川国芳に絵を学び、成長して落語家になってからは色男で若い頃から才能が豊かゆえに師匠にさえ妬まれ、いじめを受けた。円朝が道具まで用意して口演する予定だったネタを師匠が知らん顔で先に演ってしまい、苦肉の策で、自作の落語を拵えた。創作に才能を発揮して新時代を生き抜く。若い頃の円朝は殿様のような大たぶさの髷、黒羽二重の羽織に人並みよりも太い紐をしめ、燃えるような緋縮緬の襦袢の袖口、そのキザな姿はたいそうご婦人方を迷わせた。政界にも人脈を作り落語の地位向上に努め、知識階級にもその技倆が認められた。性格は温和で争いごとを好まなかったという。普通3銭の木戸賃を圓朝は4銭取り、それでも客は集まった。他の噺家とは格が違った。速記という新しい技術が生まれ、その最初のヒットが円朝の高座を文字起こしした速記本だった。日本近代文学が模索していた言文一致、つまり今では当たり前の話し言葉と書き言葉を一致させる文学に大きなインスピレーションを与えたと言われている。明治33年に62歳で死亡。近代の名人と言われた。柔らかくしんみりとした語り口だったと劇作家で小説家の岡本綺堂は思い出として書いている。
その円朝師匠をしのぐ人気になったのは三遊亭円遊。嘉永3年5月28日(1850年7月7日) 生まれ、明治40年(1907年)11月26日)死去。彼は明治の落語界においてまさに中心人物であった。明治になり江戸は東京となり、地方出身者が多く住む街に変わっていった。すると江戸ッ子には当たり前に伝わっていたことが、そうでなくなり、また江戸ッ子だけを商売相手にしているわけには行かなくなってきた。大きい鼻で「鼻の圓遊」と呼ばれていた。明治十三年、落語の後の余興で行った大きな鼻をもいで捨てるような振付けで「捨ててこ、捨ててこ」と言いながら、着物の裾をまくって踊る「ステテコ踊り」が大受け。円遊はこのステテコ踊りという珍芸と古典落語の改作でこの時代の変化に挑んだ。陰気な「野ざらし」や「船徳」を陽気に面白おかしく変え人気が爆発的に出た。全盛期には1日36軒の寄席を掛け持ちしたという伝説がある。しかし人気は反感と軽蔑を生んだ。師匠の圓朝は様々に手を回して、その反感を和らげる。
聴衆の中でも圓遊は異端との意見を持つ粋人も多かった。代表は作家の夏目漱石で圓遊よりも本筋は小さんだと書いたり話したりしている。しかしその漱石の「吾輩は猫である」や「坊ちゃん」には円遊の影響が濃い。例えば「坊ちゃん」に出てくる野だいこは円遊の「野ざらし」のたいこにそっくりだった。夏目漱石は祖父は放蕩し家を傾かせ、兄の中には吉原通いの末に勘当された者もおり、歌人の正岡子規との友情もお互いに寄席好きがきっかけとなっていた。
日露戦争前後には不景気も重なり寄席の不入りが続き圓遊の人気も落ちその後中風で病み、手の小刻みの震えが止まらなくなっていた。不遇であったが亡くなる1か月前まで高座に上がった。
大正時代に三人の若い落語家がいた。
1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)に日露戦争があり景気は冷え込んでいた。大正時代には落語界の東西交流が盛んになり、笑いの多い上方落語が次々と東京落語に移入された。
1907年(明治40年)に東京市が明治末に編集発行した、当時の東京を知るのに右に出るものはないとされている『東京案内』には東京市内・近郊で寄席の数は計141軒。 内訳は、まず講談が、24軒。 落語の定席は、人形町の末廣亭や神田・立花亭、上野・鈴本亭 など75軒。寄席の開演時間については昼席公演は少なく、夜席が多く、その終演は「午後10時から11時に至るを常とし」とある。
初代柳家小せん(1883年4月3日 - 1919年5月26日)は、落語家。本名は鈴木万次郎。父親は浅草福井町の提灯屋を営んでいた2代目三遊亭萬橘(元:4代目七昇亭花山文)。1897年に4代目麗々亭柳橋の弟子になり柳松となった。師匠の柳橋は美男子で人情噺のうまい人気者。万次郎はやせて、色黒で目のぱっちりした親孝行と評判の少年で、15歳だった。
翌年のこと、父と子揃ってチフスにかかった。二人ともが40度以上の高熱が幾日も続いた。
息子の万次郎がうわごとに、
「足袋と扇子出しておくれ、これから寄席にいくのだから」と言えば、父が
「陽気にトーンと打ってくんねえ。都々逸をやろうじゃねえか」と続けて唄いだした。
医者は、「ことによると、おとっつあんは助かるが、倅のほうは難しいかもしれません」といった。しかし逆になり、父は死んで息子の万次郎が生き残った。それからは芸の修行を一心にやった。ところがその2年後、今度は師匠の柳橋が死んでしまう。
父が死に、師匠にも死なれた小せんは人格者と有名な三代目柳家小さんに拾ってもらった。万次郎は小さんの弟子になり、名が小芝になった。
そこで小芝は馬楽と出会った。年は20近く上で破戒僧のよう坊主頭。目はぎょろりして、人相が良くない。
「小芝ってえのかい?俺も外様の先輩だ。なんかあったら言ってきな」と馬楽が小芝に声をかけた。
小芝は馬楽のよくない噂話を聞いていた。馬楽は芝の袋物商(またはセリ呉服)の本間要助の子で、若い時から放蕩に身を持ち崩して勘当される。馬楽は奔放な性格でやくざなタチ、止む無く博徒新場の子安の元で居候となる。道楽の末に落語家になった男だった。この頃から落語や講談の真似をしていた。落語家を目指したのも、四代目三遊亭圓生の粋な着物姿に憧れたというものだった。ハイカラなものは嫌いで、いつも下駄を履いて、巻煙草は絶対に吸わず煙管をふかす。江戸趣味の男。1886年頃、一家の余興で演じた物真似が偶々居合せた3代目春風亭柳枝に見出され、噺家となる。最初の名が初代春風亭千枝。才能を認められ僅か一年足らずで二つ目昇進。仲の好かった兄弟子春風亭傳枝(本名:金坂巳之助 後の5代目桂才賀)と組んで「モリョリョン踊り」という珍芸で売り出す。だが、飲む打つ買うの道楽が納まらず、賭博の現行犯で逮捕される事も度々、1か月の間懲役刑となる憂き目に合い、ついに師匠柳枝から破門される。1897年頃、一時桂市兵衛と名乗るが、翌1898年、3代目柳家小さん一門に移籍し、同年3代目蝶花楼馬楽襲名。しかし、襲名を巡って2代目蝶花楼馬楽の遺児であった顔役「森定」が挨拶も無しにと寄席に殴り込まれるトラブルが発生する。ばくちが好きだか、馬楽は俳句が得意で読書趣味な男でもあった。
「本間さん、『高野聖』読みましたか?」
「なんだ、お前さんもあの本好きかい?」
「へえ」小芝も読書趣味。それがきっかけとなって小芝と馬楽は仲良くなる。共に別の師匠についてから今の小さん門下に入った、いわば外様の境遇も互いを近づけた。
「今晩、体は空いているか?」
「へえ、時に用事はないんですが?」
「魂の市があるんだが、いかねえかい?」
「あるんですか?魂の市」
「あるともさ、そりゃあ賑やかでおもしれえから」
「それで一体その市はどこに立つんですね?」
「ああ、そりゃおめえ、わかってるじゃねえか。吉原よ」
吉原は遊女三千人、綺麗の上にも綺麗を重ねた江戸時代には幕府公認の遊郭。
54,5位の坊主頭で頬のそげた目のぎょろりとした落語家馬楽。
そんな二人の仲間入りをしたのが昭和の名人と言われた八代目桂文楽が憧れた古今亭志ん馬だった。小助六時代に落語研究会に出る様になり、その才能を見とめられる。共に一時代を築く初代柳家小せん、3代目蝶花楼馬楽とはこの頃落語研究会で知り合うようになり、同じ若手として良く遊ぶ。
生来のぞろっぺいな性格や酒からしくじりを繰り返し地方の寄席に廻されるのなどの不遇の時期を過ごす。噺家は東京で食えなくなると他府県に旅に出た。修行にはなるが、落語を初めて聴く客も多く分からせようとくどくなるから、芸がクサくなって、それが癖になり東京に戻ってくるとウケなくなるという。
「お前さんにはフラがあるからな」と馬楽は志ん馬に言った。
フラというのは噺家の符丁で、独特の可笑しみを持っている噺家の素質と言う意味で、フラがなくっちゃ噺家にはなれないと言われていた。
三人とも貧しく、浅草にちいさな家を借りて一緒に住んだ。裏に池があるから夏は蚊の多さに辟易とした。
そこでなけなしの金を出し合って蚊帳を買うことに相談がまとまったが、馬楽が蚊帳のかわりに『三国志』を買って帰ってきた。
「バカ野郎!本で寝られるかいっ」と二人は怒ったが馬楽は平気な顔で
「大丈夫だよ。蚊にくわれなきゃいいんだろ」と一晩中『三国志』を読みながら二人をうちわで、あおいでいた。
しかし、ふたりも読書好きであるから、最後は仕方ねえなと納得していびきをかいた。
金が入れば吉原に行った。当時、遊びと言ったら何があるわけでもない。呑んで「行くよ」と言えば吉原に相場は決まっていた。
吉原に行くと、馬楽の悪口が始まる。
「一体、おれはあの××ってやつが大嫌れえなんだ。嫌に髭なんぞ生やして大きなツラをしていやがるが、なんだい、あいつの落語と来たら、まるで芸にも何にもなっていやしねえじゃねえか」
この悪口が不思議と気持ちがいい。寄席では客も小せんたちも馬楽のこの悪口に聞き入っていた。嫌な奴らの悪口を聞くと、胸がせいせいするのだ。
「だいたいまともな商売が、つとまらねえヤツばかりが集まってやがる」と寄席のことを言い始めた。
「そりゃよ、兄さん、俺たちだってそうじゃないか」と小せんがいえば
「はは、ちげえねえ。だからよ、せめて話しくらいは・・」
「吉原来てする話じゃないよ、色っぽくないね」
「芸のために来てんだぜ、ここには」
「にしちゃ、随分勉強し過ぎたんじゃねえかい」と小せんがいうと。
馬楽は坊主頭を撫ぜた。
小助六はあんまり話にはいらず、女の方ばかり見ている。
「ちょっと色っぽくていい女じゃあねえか」と張見世で顔を見せている遊女の一人を指差して言った。
「何がいい女なもんか」馬楽とケチをつける。
「しかしありゃ中々なもんだぜ」
「馬鹿、お前の女っていやあ大抵そんなもんだ。相変わらずお前は女にかかると、だらしがねえんだな。」
「じゃあ、噺の女だったら誰が一番いい女ですね?」小助六が聞き、
「『紺屋高尾』の高尾太夫がいいね」小せんが言い、
「『三年目』の女房もかわいいじゃねえか」と馬楽。
「『厩火事』の年上のかみさんも、いい女だよ」小助六が言い、
「『替り目』のかかあも、いいに決まってるな」と馬楽が言った。
三人とも噺の話となればどこからでも始まった。
金と暇があれば三人は吉原に繰り出していたが、暇しかないときは、こんな遊びをしていた。
ある日、昼間っから上野の銭湯に三人で行き湯船で話してるうちに興が乗った。
「もと湯ってものは熱いがね、あすこへ徳利をほうりこんで、お燗をつけたら旨いだろうね」と小せん。
「そうさなぁ、じゃあ、どうでい、酒を取り寄せようじゃねえか」馬楽が受けて立つ。
そこの銭湯のオヤジが話のわかる粋な人ですぐに燗をつけて持ってきたので、すっかり調子が出て、三人はさしつ、さされつ浮かれだした。
「どうでい、この流しで、三味線弾いて、都都逸かなんか唄おうじゃねえか」と馬楽。
「そいつぁいいや」と志ん馬。
三味線の得意な志ん馬の爪弾きで都都逸ごっこがはじまった。
三人とも真っ裸でのこの騒ぎ。後から来た客は驚いたが、「こいつはおつだ」と仲間に入る猛者もいて裸の大宴会が大いに盛り上がった。
「湯屋の宴会だから、これがホントのユカイというもんでえ」と小せんがしゃれのめした。
貧乏な若い噺家の破れかぶれな青春。そんな中でも芸を磨きに磨き、そんな中とうとう、彼らが陽の目をみる機会が近づいてくる。
明治三十八年に落語研究会が始まる。商業目的でなく、純粋な本式の落語を聞きたいしてみたいという有識者や噺家が発起人となり、発足。明治になって噺の内容よりもウケばかり狙う落語に嫌気がさしてしたのだ。その理念の高邁さから、後に落語家たちにとって、出演することがステータスになる。
当時のもっとも実力のある噺家が6人選ばれた。
その6人とはー
円右、初代三遊亭 圓右(万延元年6月15日(1860年8月1日) - 大正13年(1924年)11月2日)は、落語家。本名は沢木勘次郎。武家の生まれだが芸事が好きで、12歳で圓朝の弟子になった。1924年10月24日、大師匠三遊亭圓朝27回忌に2代目圓朝の名跡を管理していた藤浦三周からその年の秋に名乗ることを許されるが、既に身体は肺炎に冒されていた。結局病床で襲名するも間もなく死去。享年65。2代目圓朝となったのは事実であるが、圓朝としてはほとんど活躍せずに没したため「幻の2代目」と言われる。禿げ上がった大きな頭をしていた。
噺の呼吸のうまさなんてものは、実に天才的だったと6代目圓生は証言している。
円左、初代三遊亭 圓左(1853年(嘉永6年) - 1909年(明治42年)5月8日)は明治期の落語家。本名:小泉熊山。
風貌からあだ名を「狸の圓左」という。売れない地味な噺家だったが、仲間からはその実力を評価されていた。渋い芸風で、その渋さの中から一度発すれば、まばゆいほど輝く部分のあった芸と徳川夢声はいい、
おかしくっていて、しんみりした味があり、いわば笑いと涙の渾然とした落語家と四代目小さんが言った。芸熱心でよその弟子でも稽古にくれば自分の用事などそっちのけで教えるほど面倒見が良かった。
橘家円喬は師匠円朝を超える芸と噂の切れ味鋭い噺家。円喬は日本橋住吉町の玄冶店に住んでいて「住吉町の師匠」や「住吉町さん」や「玄冶店の師匠」などと呼ばれた。圓朝門下の逸材で師の名跡を継ぐ話もあったが、自信家で嫌味な性格のために人望がなく現実にはならなかった。例えば気に入らない者には、わざとその前の高座に上がって噺をみっちりやって次に出た者を困らせ、それを楽屋で聞いて冷笑していたり、4代目橘家圓蔵が高座に上がっている時、楽屋で「何でげす。品川(円蔵のあだ名)のはア。ありゃ噺じゃありやせんな。おしゃべりでげす。」と聞こえよがしに悪口を言うなど、仲間うちから嫌われていた。
しかし、ある真夏の暑いさなか、団扇や扇子が波を打つ寄席の中で、圓喬が真冬の噺「鰍沢」をかけ、寒さの描写を演じているうちに、団扇や扇子の動きがピタリと止んだという。円喬師匠の話が終わって、シーンと息をのむような静寂のあと、ドーと大変な喝采が上がった。
知らない客同士がタバコを吸いながら
「もうこれほどの噺家は出来ませんな」
「名人ですね」
とため息をしながらポンポンと煙管を叩いていた。
芸の力でねじ伏せ、かなう者がいなかった。だから若い噺家は皆、憧れた。
しかしこんな客の声もあった。
「こんちきしょう、はなしはうめえんだけど、どうも虫が好かねえ」と帰り際に大声で叫んだ客もいた。
小円朝、2代目三遊亭 小圓朝(安政4年12月16日(1858年1月30日) - 1923年(大正12年)8月13日)は、落語家。本名は芳村忠次郎。
1905年1月に三遊亭小圓朝に改名することになった。同年には「第一次落語研究会」発足に参加。また、5代目古今亭志ん生も2代目小圓朝門下で落語家人生をスタートとさせている(本人は最初は4代目橘家圓喬門下だったと主張していた)。卵のようにつるりとした輪郭の頭。
円蔵、4代目橘家 圓蔵(たちばなや えんぞう、1864年 - 1922年2月8日)は、明治・大正期に活躍した落語家。本名、松本栄吉。北品川に住んでいたため、「品川の圓蔵」、「品川の師匠」と呼ばれた。
立て板に水の能弁で、作家芥川龍之介は「この噺家は身体全体が舌だ。」と感嘆した。眠たげなのまぶたと大きな目、痩せていて鳥のような口をしていた。早口で立て板に水の話しぶりに畳み込むような爽やかな口調。6代目圓生の師匠にあたる。
三遊亭一派が6人中5人を占める中、そこに一人柳家系の小さんが入る。3代目柳家 小さん(やなぎや こさん、1857年9月20日- 1930年11月29日は落語家。本名は豊島銀之助。生家は一橋家家臣の家である。寄席によく通っていた小説家の夏目漱石は自分の小説の中で登場人物にこう言わせている。「小さんは天才である。あんな芸術家は滅多に出るものじゃない。何時でも聞けると思うから安っぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きている我々は大変な仕合わせである。今から少し前に生まれても小さんは聞けない。少し後れても同様だ。円遊も旨い。然し小さんとは趣きが違っている。円遊の扮した太鼓持は、太鼓持になった円遊だから面白いので、小さんの遣る太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だから面白い。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物が丸で消滅して仕舞う。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活発発地に躍動する許りだ。そこがえらい」。
漱石の弟子にあたる作家の内田百閒も小さんのファンだった。
あの滅多に人を褒めない円喬が小さんの『笠碁』を聴いて、「あんまり結構だから、私はもうやらないよ」と封印したという。
ただ人情噺と色っぽい女は出せなかった。
最晩年の1923年頃からは脳軟化症による認知症を発症したために同じ噺を続けてしまう、別の噺が混ざってしまうなど悲惨な姿を人々の前に出していた。1929年には自宅を出たまま行方不明になり、翌日世田谷の公園で発見された時には子供と遊んでいる姿が新聞に記載された。1930年11月29日死去。享年74。墓所は4代目橘家圓喬と同じ東京目白の雑司ケ谷・法明寺にある。一方で落語を地でいくような粗忽な面もあり、羽織を間違えて二枚着て、次の寄席に行ってしまったこともあるという。また銭湯に足袋を履いたまま入ったりしたこともあった。また地震が苦手であった。
6人がそろって競い合い、思う存分力を出し切る。客も入りを期待していなかったが大盛況。会は成功に終わり回を重ねていき、評価される。
しかしこの落語研究会が当時、随一の人気を誇った円遊の凋落を呼び込むこととなった。第一回の莱御研究会の出演依頼に売れない狸の圓左がやってきたので鼻の円遊はてっきりワリ(給金)のでない会だと勘違いし、無断欠席して横浜のお座敷に稼ぎに行ってしまった。そのことが知れ、新聞各社から一斉に攻撃されてしまった。
そんな頃、馬楽「好い気持ちじゃねえか。惚れた若い者同士を見てると、俺はもう堪らなく嬉しくなるね。」といい、小せんが口開けて、びっくりしていると
「なあにかまうもんか。惚れた同志で一緒になるのに何の不思議なことあねえじゃねえか」
小せんには何がなんだかわからない。
実はと言って、馬楽には惚れた女がいた。明治三十八年(1905年)、あと明治も七年を残すのみ。その頃、真打ちになった馬楽の横にはお若という押しかけ女房。
その頃には三人それぞれ別々に暮らすようになっていた。
その年の春、雨が降っているものだから馬楽が「商売にいくのはおっくうだが、稼がなにゃあ食えねえし」と愚痴れば
「それじゃあ、あたしがお座敷をしてあげるから、今夜はお休みよ」とお若は馬楽に二円を出して、十八番の『長屋の花見』を注文した。
馬楽もそれに乗って
「女房のお座敷かあ、こいつぁおもしれえや」と一席つとめる。
翌日のその二円で米を買ったというのだから、まことにのんきな夫婦だった。
しかし、そんな生活も長くは続かず、半年ほどで二人は別れ、馬楽は吉原のおいらんと深い仲になっていた。
小せんの方は浅草の森田町に住んでいたのだが、「鈴木万公」と表札を門口に出していたら巡査が戸籍しらべにやってきて「戸籍簿には鈴木万次郎としてあるが表札には鈴木万公としてあるのは、どういうわけだ」と言った。
「みんなが万公万公と呼びますから、それで鈴木万公と出して置いたんです」ととぼける。
「馬鹿なことをするな」と巡査は怒って帰っていった。
明治四十年。1907明治40年人気を落としたまま鼻の圓遊が死去した。
円喬が「円遊が良かったのは、芸に柔らか味があって、只何となく可笑しかったことです。他の人の滑稽は理屈がありますが、彼の滑稽は理屈が微塵もないのが身上で時々落語を突拍子も無い方へ持って行きますから、あんなことを言ってどうまとまりをつけるだろうと思って、楽屋でハラハラして聴いていると、不思議にちゃんとまとめておさまりをつける手際は、到底余人には真似の出来ない芸でした」
円遊が古典を改作し、現在の形にこしらたのは「船徳」「野ざらし」「花見小僧」「湯屋番」「つるつる」
馬楽の家に志賀直哉という文学青年が『坊ちゃん』という小説を届けに来た。放浪の歌人、吉井勇も頻繁に訪ねてくるようになっていた。
小せんのまわりにも、幼馴染の劇作家岡村柿紅、吉井勇、作家の久保田万太郎、江戸文人の流れにつながる通人、鈴木台水などが集まって来ていた。
自然、志ん馬、馬楽ともこれらの人々は懇意になってくる。
「ああ馬楽 汝とともに世を罵りし その夜思えば はるかなるかも」と吉井勇は歌にした。
落語研究会に若手落語家の出番がまわってくる。円遊の様に人気を落とすこともなく、講談や紙切りを間に挟むのは会の主旨に反すると、それならば実力のある若手を出そうということになり、にわかに注目を浴びてくる。中でも喝采を受けたのは、馬楽、小せん、志ん馬の三人だった。
評論家連の批評も好評で酒飲みの意地汚さをうまく表現した表現、遊び馴れた遊郭を舞台に新時代を風刺した文句などが馬楽は好評だった。馬楽は『長屋の花見』『雪てん』『居残り佐平次』『蒟蒻問答』が得意。
志ん馬は、味のある話しぶりが将来の名人を予感させるとの評。粋で、唄い調子のいかにも江戸前の芸であった。得意ネタは「うどん屋」「転宅」「三軒長屋」「妾馬」
小せんはきめの細かい演出と警句のまじった達者な口調で頭角を現した。明治中期から末期に育ち、廓遊びの中で芸人としての個性を見出した。時代の変化とともに古き良き江戸、吉原もいつか消えるさだめ。あきらめと愚痴が混じってそれが芸になる。耽溺した廓遊びは芸の肥やしとなり、すらっとしていて色の黒い好男子小せんは、なじみの芸者も出来て、ますますのめり込む。丁寧な演出と敬愛してやまなかった兄弟子3代目蝶花楼馬楽譲りの警句を交じえた巧みな口調が早くから注目されており、落語研究会の有力な若手として期待を集めていた。小せんは『居残り佐平次』『お見立て』『お茶汲み』『五人廻し』『とんちき』『白銅』などの廓噺を得意とした。
銭湯に小せんと馬楽は連れだっていくと、馬楽が本を持っているので
「兄さん、何の本を読んでるんです?」と小せんが聞くと
「相場の本だぜ」
「博打の方かい?」
「バカやろう」
相場の本を読んで、馬楽は自分が金持ちになるつもりらしかった。小せんは笑った。
「しかし、そうなると金持ちと貧乏人が戦争なった時に貧乏人の大将になれないのは困るな。貧乏人の味方でなけりゃあ面白くないし、第一金持ちの方じゃ大将にしてはくれないだろう」と馬楽はいった。
それを聞いて小せんは
「兄さんらしいや」
湯船につかって、客をからかったり、話し込んでいると小せんはなんだが具合が悪くなって来た。
馬楽「そうかい、おれもどうしてだか、今日はひどくのぼせていけねえ。湯当たりでもしたんじゃねえかな」
小せん「一体、お前さんの湯は長過ぎるよ。へえって来るやつを一人一人つかまえて、くだららねえ都々逸の講釈なんぞやっているんだから、あれじゃのぼせるのも無理はねえよ」
「みんな俺の講釈を聞いたら喜ぶぜ」
「そりゃ、喜んでんだろうが、お前さん長く入っていちゃあ体に毒だよ」
明治四十一年、冬。小せんは足の調子がおかしいことに悩まされていた。家の中で畳に躓いたり、梯子段の上り下りに不自由を感じたり、地面を歩いていると下駄が脱げたりすつようになった。
小せんは馬楽に「おい、師匠の粗忽がうつったのかい?」とからかわれた。
小せんはまあ、気のせいだろうと、思うことにしていた。
1909年(明治42年)翌四十二年、3月。
一向に足がよくならない小せんは医者に行くと「ターベス」だという。
「ターペス?なんです、そりゃ?」と聞けば医者は「脳 (脊髄) 梅毒」と答えた。思い当たる節はたんまりあった。
それまでのんきに過ごしていた小せんも、全身が冷たくなった気がした。足を叩いたり、さすったりして、服薬から電気治療まで、療養に努めた。それでも四月には前の年からの約束であり、京都にひとりで小せんは出かけなければならなかった。
4月16日から5月の末まで京都に行く。
足が悪いから見物にも行けず、だからといっていつまでも宿にもいられず、知恩院の石段を上り見物したが下りることが出来なくなり、連れも無いので遠い回り道をしてやっと宿に帰った。それからは外にいくのはやめた。
苦い薬ばかりで酒も飲めず、足が痛いから観光見物にもいかれない。階段も辛い。食べ物は合わない。友だちはいない。江戸前のあっさりした芸は上方のこってりした芸に馴染んだ客には受けない。寂しい。
そんな具合で三か月を過ごした。6月まで大阪にいて7月に東京に戻ったが寄席は休んだ。ただ、上方落語のいくつかは自分のものとして持ち帰ることは忘れなかった。そんな中、狸の円左が5月に死去した。1909年(明治42年)5月7日、牛込亭という席で弟弟子の初代三遊亭圓右と余興に「茶番狂言」を演じた後、「綱上」を踊って夜に帰宅後、脳充血の発作で倒れ、翌朝急死。享年数え57歳
8月に小さん師匠と例年の大磯に出稼ぎもかねて言ったが他の連中が面白そうに泳いでいるのを馬楽とうらやましく眺めていた。
八月には師匠の小さんと海水浴に弟子たち総出で出かけたが足の悪い小せんと、馬楽ははしゃぐ同門を横目に眺める事しか出来なかった。
小さん師匠が、子供と遊んでいる。
「ありゃ、どこのジャリ(子供)だい?」
「知らないが、師匠は子供が好きだからなあ」
「師匠は倅とうまくいってねえらしいな」
「借金があるとか、でも師匠くらい売れてりゃ」
「それでも足りないらしい」
十一月には寄席へ出るようになったが、人力車で楽屋入りし、よたよた歩きで高座に上がった。
行きも帰りも小せんは人力車での移動。なんだか情けない気分になった。
日を追うごとに足の具合は悪くなっていった。そこに馬楽が精神に異常をきたしたという知らせがとび込んできた。
翌明治四十三年。三月。馬楽の具合が段々と悪くなり深川の粋客鈴木台水と岡村柿紅と小せんが根岸の病院に入院させた。
小せんは岡村柿紅、鈴木台水と一緒に入院に付き添った。
馬楽「ちゃあんと、お前の魂にそう落書きがしてあるから仕方がねえじゃねえか」
「そうかい、本間さん」と小せんは曖昧な相槌をうち
「しかし、魂だってやっぱり病気になることがあるんだぜ」
「そうかい、そうかい」
「俺はもうしばらく席には出ねえぜ」
「うん、うん」
馬楽がよく話す。
「速記本じゃ感じが間が伝らない。やっぱり寄席に来てもらうしかねえ。読んでるだけじゃ、調子がわからねえ。噺なんてのは残せるもんじゃねえんだ、話して落とせば、それっきりのもんよ。野暮なこと言うねい」
1日置き、2日置きに見舞いにいったが、足が言うこと聞かないため車夫におぶさって病室までいくのだが患者が騒いだ。
「大人の癖におぶさって、いきやがらあ、いくじのない奴だ、よっぽど弱い奴だ、馬鹿だ馬鹿だ」
その声を小せんはつらい気持ちで聞いた。
病室にいけば先客がおり、馬楽と話している。小せんは相手を見舞客だと思っていたら急にその男が小せんの方を振り返って
「結構なお天気で、えへへ」と笑い出した。外は曇っていた。
男は見舞いにバナナが置いてあったのをいきなり革を向いてむしゃむしゃと食べ始め、小せんがぽかーんとしていると看護人が入ってきて
「また、あなたは。さあ、こっちへ」と連れていった。
またの看護人が入ってきて、さっきの男はほうぼうの病室に入っては食べ物を食べて回る患者なのだと説明して仕事に戻っていった。
馬楽はそんなことが起こっていることに興味がないらしく外ばかり眺めていた。
「万さん」と小せんが呼びかけると
「桐野利秋を知っているか、知らなければ紹介しようじゃないか」と窓を開け始めた。
桐野利秋と言えば、幕末に西郷隆盛と行動を共にした人呼んで「人斬り半次郎」という志士のことである。明治10年に死んでいる人物だと小さんはおぼろげな記憶を思い起こしていると
庭を隔てた向こうの病室の窓から
「誰だあ、桐野利秋を呼ぶのは」と怒鳴り声が返ってくる。別の部屋から
「黙れ、俺が加藤清正だ。貴様はなんだ、桐野利秋だと!」と怒鳴りあいが始まった。
桐野利秋の次は豊臣秀吉の家臣の加藤清正が出てきてわけがわからない。馬楽が振り返って
「万さん、隣の加藤清正は、あれはよたものだよ」と小せんに言った。
馬楽が、ああ本間さん、小せんは言葉が何一つ出てこなかった。
馬楽は髑髏が、窓の外で踊っているのがみえていた。
それから2,3日して塞いでたいた小せんは
起請文を書いていた。起請文とは遊廓でなじみの客に宛て遊女がつとめがあければ客と夫婦になることを約束するという内容の書かれた手紙のことで、客はこれを貰うことでのぼせていく。落語では『三枚起請』というネタの中で遊女が3人の客に起請文を渡してひと悶着が起こる。この起請文を模して
「私事お前様と夫婦約束致し候こと真事に候、其の上夢々心変わりなぞ致すまじく、八百万の神かけて堅く誓い申し候」と印刷したものを知り合いや友達に送った。
返事の中には小さなダンボールにしん粉で小指を作って切り口を、赤くしたのを入れて来て、まるで花魁と客のやりとりを真似したツワモノもいた。小せんの気持ちも少し明るくなった。
「昔の夢ってどんな夢なんです?」と小せんが馬楽に聞いた。
弟子も家族も無い馬楽はその言葉を聞いて喜ばしそうに「そんなことを聞いてくれるやつは、今日まで一人だってありゃしねえ。俺は嬉しいよ。ほんとに嬉しい。堪らなく嬉しいや」
馬楽はそれから病院を出たり入ったりを繰り返した。
馬楽の芸はすっかり変わってしまった。
そんな頃、小せんの芸はどんどん世評が高くなっていった。
1910年11月、3代目(俗に初代)古今亭志ん馬で真打になった。
小せんは芸人としての上がり調子の中、明治四十四年秋に兆しをみせ、寄席には出れなくなり、治療に専念するも病状は悪化。新聞を5,6行読むと目がかすみ、ぼんやりとしかみえなくなり、しばらくしてまた5,6行読むと目がかすみ、ぼんやりとなってしまう。そして翌月に本を読んでいる最中、半ばまで進んだところでまったく見えなくなってしまった。小せんは白内障により失明してしまう。
明治四十五年、「手紙を読むときと書くときは目がほしゅう御座い升」と小せんは言っていたという。
ある晩、何か聞きたいと思いたって、小せんは客席に回って、仲間の演芸を聞き、高座で働いている様子を寄席の雰囲気を耳で味わっていた。噺家が話して客の喝采するような笑い声が聞こえた。背中から冷や水を浴びせられた気持ちがした。息をのんでこんな姿は誰にも見られたくないと思った。
車屋に吉原に冷やかしに行こうと、昼間のぞくが、なかの若い衆は
「もしもし、ちょいとお遊びばいかが様で」も世話を焼き始めたが、それは車に乗っている小せんではなく車夫の方に声をかけている、ばかばかしくなって帰った。
小せんは目が見えなくなってから、白髪染の薬を売っている弟の店を手伝っていた。
退院していた馬楽が店に行ってみると、店も暇と見えて、弟に新聞を読ませて小せんがぼんやりと聞いている。
挨拶をすると、独演会のことを「いよいよ演るそうだね。xx町だっていうじゃないか」
「うん、実はその話で来たんだ」
馬楽は独演会でやるアイディアをすっかり小せんに話してやった。
「面白れえ。面白れえ」と小せんは言った。
小せんは目が見えなくなってからも、気の強いことばかり言っていた。それが小せんらしくていいと馬楽は言った。小せんは目が見えない方がいいと頑張っている。
「世の中が盲目だらけなら、戦争も刑務所もいらなくなる」と小せんは言った。
馬楽は「そりゃまったくだ」と言った。
そうして夕方まで二人で呑んで話した帰り、馬楽はおかしなものを見る。歩いている向こうから自分がやっぱり歩いてくる。
そっくりな人じゃない。まったくの自分なものだから、馬楽は冷水を背中に浴びた気がして立ち止まり、自分とすれ違った。
すれ違って後ろを振り向くことが馬楽にはできなかった。
その頃、二人のパトロンでもあった通人鈴木台水が破産したという。小せんは仲間の不幸がつらかった。
小助六に小せんは言った。
「あの時分は面白かったなあ。俺と本間さんとお前さんの三人で、随分いろんなことをして遊んだものさ。それが今じゃ俺は盲目になるし、本間さんは魂が病気になりやがるし、達者なのはお前さんばかりだ」
明治44年(1911)、吉原大火で全焼した。炎上する楼閣(4月9日)した話がでた。
「どうだい。吉原は?」
「随分、もとに戻ったてえ話だ」
「しばらく行ってねえあ、あのころは・・・」
「それは、昔のことだよ、お前の思ってるような東京は、もうありゃしないよ」と小助六は言った。
「見えなくても、俺には昔の東京がはっきり見えてるさ」と小せんは言った。
目が見えなくなってから初めての誕生日。明治四十五年四月三日。小せんは独演会と称して、前座なしの八席を「寿限無」から初めて、たった一人でやりきった。
しかし、小せんの体調は良くなったり悪くなったりでほどんど、寄席に出ることは少なくなっていった。生活費は師匠の小さんや兄弟弟子のつばめなどが、出していた。
また、何人かの噺家仲間が句会を小せんの家にきて開いたりして、冗談をいったりするのどかな会、この仲間たちのあたたたかい集りに小せんの心が慰められた。
小助六となった志ん馬と同じ年の十月二十三日には二人会を開き、来客三百人の盛況を見せた。
「東京にも、まだ江戸っ子がいらあ」と小せんは大いに喜んだ。これがきっかけとなり二人会や独演会が新しい興行形式として
認められるようになった。
その年は7月に天皇が崩御。年号は大正になっていた。
大正元年(1912年)11月22日)あの園喬が死んだ。
1912年12月に6代目金原亭馬生を襲名。既に大阪で5代目馬生がいたので、名古屋以西では名乗らないと言う条件付であった。(よって鶴本の馬生を6代目として数える。)
「なんだい、そりゃ厄介なことにならなきゃいいが」
「大丈夫だよ」と馬生になった小助六というが
「請け負うかい?お前さんの大丈夫はあてにならねーからなあ」と小せんは心配した。
「へへ」と馬生は笑っていた。(順風満帆の馬生であったが、1919年頃困った事が出来する。大阪の5代目馬生が東京に出演する事になったのである。)
それから二年後の大正三年、正月十五日。
岡村柿紅と小助六、そして破産して以来、姿を見せなかった鈴木台水が小せんの家を訪ねてきた。
失明した姿を見せたくない小せんと見たくない鈴木の気持ちが一致していたため、久しぶりの再会となった。
二人とも涙、涙、ただただ涙だった。
「こう、おもしろくもねえ。よせやい。酒の座敷で泣くなんて縁起でもねえ。せっかくの酒がさめらあ」と小助六が言った。小助六も泣いていた。
三人が小せんの家に来たわけはそれだけではなかった。
馬楽が胃ガンになっていた。病床の馬楽のために小助六と小せんで一席ずつ落語をやってくれというのが趣旨だった。
二人とも快諾した。
しかし翌日の十六日。馬楽が死んだ。
正月十八日の小助六と小せんの二人会は追悼会になってしまった。
小せんは「居残り佐平次」と「湯屋番」、小助六は「三人旅」と「あくび指南」を口演した。
馬楽の葬式では
「あの、江戸前の本当の咄家が、残念だ」と小助六がいい、
「落語家の葬式だ。泣いてねえで笑え」
と小せんは言った。
「馬楽さんを評して、奇人だとか、平凡な落語家だとか人の好き好きで、嫌いもあるのは自然の結果で仕方がありませんが、私からすれば大層な落語家というよりありません。チャキチャキの江戸っ子で、世の中の学問に長けていますし、本はたくさん読んでいて世間の粋も甘いも心得ている。物を知っているのに高座ではしかめ面しい事を言わない。友あり遠方より来る、また楽しからずや、というところを、久しく逢わない友達に往来であったと言うものは、なんとなくよい気持ちなもので、また遠いところから友達が、わざわざ訪ねて来てくれるなぞは、なんとなくおつな心持がするものですと、細かな味わいがありました。
小せんはその年の九月二十日、「小せん会」が発表された。会費は二十銭、別途入場料。毎月第三水曜日に開催と決まった。
人力車を楽屋口につけて、女郎屋あがりの恋女房、お時さんに背負われて小せんは楽屋に入る。
高座には御簾をおろして、釈台につかまって口演した。
小せんは時々、足がいうことを聞かないことに癇癪をおこしてはお時にあたり、どなったり、なぐったりしたが、お時はいやな顔もせず甲斐甲斐しく世話を続けた。
寄席に出れば台を置いて、身体に中心がないような具合でバランスがうまく取れない。前にのめったり後ろに倒れそうになるのを両手で釈台をしっかり掴んで話し出す、扇も使えず汗を拭くことも出来ないが話しはじめれば最後まで力が入る。汗びっしょりでサゲまでやり切った。
体は悪くなる一方だったが、人気は当代一だった。
やがてそんな小せんを慕って、若い噺家たちが稽古に詰め寄せるようになった。
通常、落語家の世界では稽古に金はとらない。しかし、からだの不自由な小せんは授業料を貰って稽古をつけた。
それは師匠小さんのアイディアだった。若い噺家たちはそれでも稽古にやってきた。
小せんは「あたしゃねえ、噺をおろす問屋だよ、三銭でおろしてあげるから、おまえさんたちは、そいつを五銭で売るように勉強するんだよ」といって聞かせた。
のちに昭和の名人と言われた五代目志ん生、八代目桂文楽、春風亭柳橋、六代目三遊亭圓生などがその稽古に来ていた。
円童と名乗っていた圓生は
「いき始めたのは13の頃でしたかね。こせんと言う人はなかなか頭のいい人で警句をはきましたが今で言うインテリの噺家で、我々若い噺家の憧れの的で、将来ああゆう話ができるようになりたいと言う希望を持ってみんな稽古に通ったもんです。私が来始めた頃はもう目が見えなくなってきたから蔵前橋の近所にいましたがまもなく厩橋の方へ越してそ声毎日通いました話を教えるのに月謝と言うものは消して取らない週間なんですけれどもこの師匠だけは月謝を取りました元は確か1月に1円でしたかね。それから2円になりおしまいには3円位なったような気がします。何しろ寄席に出られなくなったんで他に収入の道がないのだから若いものが稽古に来るについて月謝をもらおうと言うことでそれはとってくれた方がこっちも行き行きいですから月謝を払ってずいぶんたくさん稽古してもらいました。小せん師匠の教え方は話を切って教えてくれました長い話だってと3つあるいは4つ位に切って1つのところを1日に3回やってくれる。それで2日なりに3日なりして「えーもう覚えました」てと、「そう。じゃ、先をやろうか」ってんで、その先へ行く。「わかりません」てえと、そのおんなしところを何回もやってくれました。それですっかり覚えても、自分の前でやらせるということがありませんでした。「あたしのとおりには演るな」って言いました。「ぼくのとおり演るとね、師の半芸、といって半分しきゃ出来ないもんだ。噺は、なるったけ筋は覚えても、師匠のとおりには演らない方がいいんだ」
小せんは教えるのが好きでもあった。
「落語のいいところはどこで終わったっていいんだ。だけど、いいたいことは必ず一つは入れるんだよ、出なくっちゃ落語じゃなくてもおしゃべりだよ」と小せんは円童に言った。これら小せん学校卒業の噺家に渡したバトンが昭和落語黄金期へ繋がっていくのだ。
小助六は
「どうだい、見込みのあるのはいるかい?」と聞くと小せんはにやりとして
「うわばみの吐き出しみたいなやつとかが来てるよ」
「酷いのがいるね」
「お前さんにそっくりだよ、ぞろっぺえで酒と博打と吉原が好きで」
「なお、まずいや」
「まあ、馬の助は様子がいいし、筋もいい。円童はかわいいし物覚えが早いから末が楽しみだ」と小せんは嬉しそうに笑って、表情に影がさした。
「円童の真打姿は見られねえだろうな」
「なあに、またお前さんにだっていいことがあるよ」
「長生きしたって、もう見られねえか、はは」
それでも小せん自身、失明してからも死んで冥土へ覚えた芸を持って行きたいからと
探究心は失わず、師匠小さんからいくつもの噺を稽古してもらい、自分のものにしていった。「鰻屋の太鼓」「明烏」「淀五郎」などを自分のものにして行った。
研究熱心な小せんは、ある日、久保田万太郎といっしょに、ふらりとやって来た岡村柿虹に向って、いきなり話しかけた。
「ねえ岡村先生、あのう、白浪五人男の稲瀬川の勢ぞろいの場で、それぞれツラネのせりふがありますね。あのなかの忠信利平のはなんといいましたかね。餓鬼のときから手くせが悪く・・・・・・」
「抜け参りからぐれ出して」
「ああ、そうそう。旅から旅を稼ぎ廻り」
と、いいかける小せんのことばを受けて、柿紅は、すらすらと、
「碁打ちといって寺方や、物持ち百姓の家へ押し入り、盗んだ金の罪科(つみとが)は、毛抜けの塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなし・・・・・・というんだろう」
といってから、
「なんだい。なにかに、これを使うのかい?」
と聞くと、小せんの顔に微笑が浮かんだ。
「ええ、じつは、このつぎの小せん会で、居残りをやろうと思って、いろいろと工夫をしているんですが・・・・・・」と話しはじめた。
「しまいのほうに、女郎屋の主人が、すっかり佐平次をもてあまして、ひとまず金の算段に出ていってくれというところがあるでしょう」
「ああ、あすこね」
「こいつを使おうというんですよ。へえ、それがね、もし旦那、と芝居がかったせりふになってから、こちらの敷居をまたいで外へ出られないというのは、じつは旦那、人殺しこそしていませんが、夜盗、かっさり、家尻切り、悪いに悪いということをし尽くしまして、五尺のからだの置きどころのない身の上でございますというと、主人はおどろいて、そんな悪いことをしそうにも見えないといいます」
「うん、それから?」
「ええ、それからが、このせりふですが、すっかり調子をくだいてしまって、持って生まれた悪性で、餓鬼のときから手くせが悪うございまして、抜け参りからぐれ出しまして、旅から旅を稼ぎ廻り、碁打ちといっては寺方だの、物持ち百姓の家へ押し入りまして、盗んだ金の罪科は、毛抜けの塔の二重三重、重なる悪事に高飛びなしというと、主人が、なんだか聞いたような文句だといいます。いかがでしょう?ひとつ、こんどは、こういうふうにやってみようと思っているんですが・・・・・・」と小せんが話し終え、反応を待った。手答えはあったが、目が見えないから表情がわからない。ほんの一瞬の間だったが、長く感じる。
「なるほど、こいつあ、きっとうけるね」
「おもしろいよ」と、万太郎と柿紅が口をそろえていった、果たしてその通りで、当日になって、忠信利平のせりふまで来ると、寄席が、どっとひっくりかえらんばかりのうけかただった。
それから数年後の大正八年(1919)五月二十六日、小せんはその生涯に幕を下おろした。三十七歳だった。
小せんが亡くなった数ヶ月後に『廓ばなし小せん十八番』が刊行された。小せんが得意とした廓噺がほとんどをしめていた。その前口上は小せんの生涯と廓への挽歌のように聞こえるものだった。
「私は15歳で落語家になり、27歳で腰が抜け、30にして立つかと思ったら、立つどころか失明をしてしまいました。ですから、この種の落語を演るについては、その経験の浅いことは言うまでもありませんが、それでも、吉原で御内所というのを、品川ではお部屋と呼び、吉原でお職というのを、昔の品川では板頭と呼び、源氏名は吉原に限ったもので、品川では、おそめだとか、お芳とか、おすみだのと、おの字名をもちいた事などを、あるおじさんから教わって置きましたから、まさかにや大みせ遊びの話をして、初会に花魁が、お客様にお酌をするなんて、そんな間抜けな事は喋らないつもりで居ます。それに今の吉原は、張見世がなくなって、大みせを除くの外は、大抵バーになりましたが、自分は張見世のあった時代の気分で、おしゃべりを致しますから、どうぞ、そのお積りでご覧の程を願いますと、先づザッと廻しまくらを振って・・・オット振るは禁句、ならべて置きます」
一番長生きした志ん馬改め、志ん生の冒険の数々を語りたいところだが、それはまた別の機会に。
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四代目志ん生