TOKYO BIZARRE CASE(第十五話)
α
(十二時まであと五分、十二時まであと五分)
ベッドに寝転んでいた岡島可奈は、スマホから目を上げると、わざわざ壁掛け時計を確認した。
時計は小学生のときにディズニーランドで買ったお気に入りだ。文字盤のプーさんが、「はやくはやく」と優しく急かした。気持ちを落ち着かせるようにスマホに戻る。
沙希から聞いたのは、子どもじみたおまじないの噂だった。満月の夜、意中の人を思い浮かべながら、呪文を唱える。たったそれだけで、想いがかなうというのだ。
なんて子どもっぽい! でも、由紀も麗も同じ話をしていた。二人の方は少しバージョンが違っていて、満月と呪文は同じだが、恋愛だけでなく、どんな願い事もかなう、という話になっていた。
彼氏なんか欲しくない。
でも、他の願い事ならないこともない。
机の引出しに眠っている原稿に胸が痛む。
マンガを描いていることは誰にも、親友の沙希にも言っていない。理解し辛いことだが、世間ではマンガを描いているというだけで、「キモイ」だの「陰キャ」だのと囁く輩がいるのだ。
例えば妹の葉奈がそう。
可奈がこっそりと原稿を描きためていることを知っていて、あからさまに嘲笑する。まるで、自分にはそうする正当な権利があるかのように、何一つ疑わず。その度に可奈は反発を覚えつつも、どこか肩身の狭い思いをするのだ。
好きなことをやっているだけなのに。
でもそう言いながらも、可奈が自分から、マンガを描いていることを告白することはないだろう。それどころか、時には一緒になってマン研の子たちを指差し、ひそひそと笑いあったりするのだ。
だから可奈は早くプロになりたかった。プロになってしまえば、立派な仕事だ。周りも認めざるをえないだろう。葉奈も両親も友達たちも。
しかし現実は、そうは上手く運んでいなかった。去年は一回、今年に入ってすでに一回、某少女漫画誌の新人賞に応募し、落選している。机の中の原稿の束は、三度目の正直を狙った、渾身の作品だった。ペン入れもすんで、あとは応募するだけ。
しかし、そこで何故か二の足を踏んでいる自分に気がついたのだった。度重なる失敗の記憶が不意に押し寄せてきて、可奈を臆病にしているのかもしれなかった。
また駄目だったら、もう二度と描く気力が沸いてこないかもしれないーー。
そんな想像が頭の中をグルグルと廻って、今日こそ明日こそと躊躇しているうちに、どんどん締め切りが迫ってきてしまった。
また、プーさんに目をやる。
(あと二分、あと二分)
おまじないなんて信じない。真剣になってお祈りしている姿を誰かにーー特に葉奈とかにーー見られたら、恥ずかしくて死んでしまうだろう。でも。今日だけは、今夜だけは。
頬を高潮させ、意を決したように可奈は窓辺に立った。
グリーンのカーテンと白い遮光カーテンをいっぺんに引く。
夜空には青褪めた月が昇り、冴え冴えとした陰を四方に投げかけている。ガラス窓を開ける。密やかに夜気が忍び込んでくる。
可奈は両手をしっかりと組んで、目を瞑った。
どうかわたしをマンガ家にしてください。どうかわたしをマンガ家にしてください。
《ホロボ・ロンゴ・カカ・ヌイ。オロゴ・ロンゴ・ンチャヌ・グイ。ホロボ・ロンゴ・カカ・ヌイ。オロゴ・ロンゴ・ンチャヌ・グイ。》
可奈の口から静かに呪文が吐き出される。一度唱えてみると、奇妙な韻が不思議と唇に心地よい。可奈は何度となく唱える。
《ホロボ・ロンゴ・カカ・ヌイ。オロゴ・ロンゴ・ンチャヌ・グイ。ホロボ・ロンゴ・カカ・ヌイ。オロゴ・ロンゴ・ンチャヌ・グイ。》
繰り返される音韻は、やがて旋律めいて街を流れていく。
《ホロボ・ロンゴ・カカ・ヌイ。オロゴ・ロンゴ・ンチャヌ・グイ。ホロボ・ロンゴ・カカ・ヌイ。オロゴ・ロンゴ・ンチャヌ・グイ。ホロボ・ロンゴ・カカ・ヌイ。オロゴ・ロンゴ・ンチャヌ・グイ。ホロボ・ロンゴ・カカ・ヌイ。オロゴ・ロンゴ・ンチャヌ・グイ。》
その日、東京の様々な場所でその言葉は囁かれた。
家の中で。街角で。
少女たちは祈る。
恋人を。夢を。
ある者はブランド品を願い、ある者は生き別れた母を願った。命が助かるように縋る者。死を願い憎悪をぶつける者。それらは縒り合わされ、束ねられて、やがて大きなうねりとなって、〈界面下〉へと響いていった。
ーー〈それ〉の棲む世界へ。
Ω
〈それ〉の存在あるいは意識をひと言で表すならば〈飢え〉と言えばよいだろうか。
あらゆるものを飲み乾し、喰らい尽くしても満たされることのない、強烈な飢餓感。底の抜けた器に水を注ぐような、岩を押してひたすら坂を登り続けるような無間地獄。暗黒空間にさらに黒々と穿たれた、光さえ逃げられぬ暗渠じみて、果てしなく荒れ狂う欲求に苛まれ、片端から世界をむさぼり尽くさずにはおれない餓鬼魂。〈それ〉はーー。
〈それ〉は〈飢えそのもの〉なのだ。
〈それ〉は今、悶え苦しんでいる。長い身を捩り、暗く冷たい〈界面下〉をのた打ち回っている。
少し前まで、〈それ〉は薄明の世界を悠々と泳ぎ回っていた。尽きることのない欲望の赴くまま、自由気侭に獲物を食い漁っていたのだった。
自由といっても野放図ではない。〈それ〉は狂気に犯されながらも優秀な捕食者なのだ。必要とあらば、幾らでも慎重になることが出来る。
慎重さと欲望の奔流は〈それ〉の中では矛盾しないーー殆どの場合に於いては。着実に獲物を仕留めながら〈それ〉は、幼生からすくすくと成長していた。
はじめちっぽけだった身体は、際限なく大きくなりつづけている。成長に従い、〈それ〉の力も強大になっていった。今しばらくで〈それ〉は、この星で並ぶもののない力を身につけることだろう。ところがーー。
繰り返し訪れる衝撃が、〈それ〉を激しくくねらせた。通常の生物に喩えて言うなら、衝撃は外的なダメージではなく、神経系ーー動物でそれに相当するものが〈それ〉にあるとしてーーに直接働きかけてくる。
物理的な攻撃よりも遥かに激しく、且つ、気絶や死に逃げることもかなわない。
例えるならばーー。
剥き出しの視覚を襲う明滅する白光。
剥き出しの嗅覚を襲う脳天を刺す臭気。
全身にガラスの切片を差し込まれ、掻き回され、電流をひっきりなしに流される。
灼熱の炎に焼かれ、極寒の氷塊に閉じ込められ、あるいは微細な蟲に末端に至るまで食い破られる。
これらが同時に〈それ〉を苛むのだ。
衝撃は、こんな言葉の連なりで出来ていた。
《ホロボ・ロンゴ・カカ・ヌイ。オロゴ・ロンゴ・ンチャナ・グイ。》
激痛に身を焼き、嫌悪にのたうちながら、〈それ〉の本能は告げる。
この感覚は、かつて一度経験した痛みだ。
遥かな昔、〈それ〉をあの小さな揺籃器に閉じ込めた敵が、また現れたのだ。
〈それ〉は〈界面上〉に棲む、餌のくせに天敵でもある厄介なイキモノへ向けて、憤怒の咆哮を上げた。
Ω
「それじゃあ、遅くならないうちに切り上げてね」
母親の敏子がドアを閉めると、俊輔は数学の問題集から目を上げた。
カラーボックスの上に、魔法瓶入りの温かい紅茶と手作りのビスケット。いつもの科白。
俊輔は机のひきだしを開けると、レジ袋にビスケットを放り込んだ。次いで窓に向かい、紅茶を、音を立てないように慎重に屋根に流す。
ママの夜食も、いい加減あきた。でも、なまじっか残すと、ぴいぴい騒ぎ出すのでウザい。
俊ちゃん、どこか具合でも悪いの。大好物のママのビスケットなのに。
そして決まってこう言う。お勉強も大事だけど、子どもはきちんと眠らなきゃダメよ、と。
睡眠不足が、学習の最大の敵である、というのがママの持論だった。どうせテレビか、お受験仲間の受け売りだろう。一日最低七から八時間の睡眠を確保するためには、遅くとも十二時前にはベッドに入らなくてはならない。
「規則正しい生活を」とママや先生は簡単に言うけれど、これがなかなか難しいのだ。毎日の学校や塾の宿題に加え、英語やピアノといった習い事もある。その合間に、適度に周りと話を合わせるための、アニメやサッカーやゲームのネタも仕入れなくてはならない。小学生も閑ではないのだ。
気を取り直して、設問と格闘する。が、ほどなくシャーペンを放り出した。今夜はどうにも集中できなかった。ヘンに胸が騒ぎ、落ち着かない。
俊輔は机の上のタブレットに、電源を入れた。YouTube…Instagram…Twitter…blog…アダルト…死体写真…自殺サイト…爆弾や偽札の作り方からクラッキングの方法まで。お気に入りをひと通りチェックすると、見たいものもなくなった。
気晴らしに、とある掲示板に書き込もうとした時だった。
前触れもなくそれがやってきた。
「×ζ‡▼!*??¥@~~///;;;$」!!!!!!」
凄まじい衝撃が耳を強襲。
副担任の梶原の、ゴリラみたいな手でぶん殴られたときのように、一瞬にして意識が遠くなった。およそ、聞いたことのないような音ーーあるいは声。
ぎゅるるるるるるるるるるるるるるうという獣じみた咆哮。
ぐぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉという嗚咽にも似た声。
ごおおおおおおおおおおおおおおおんという轟き。
それらが混ざり合い、増幅しあって、必死に両耳に蓋をする俊輔に、いちどきに押し寄せてきたのだった。その非人間的なおぞましさ。聞いただけで嫌悪感をもよおす音の波が、壁といわず、窓といわず、家全体を震わせた。
定まらない焦点の中、液晶の画像が歪み、走査線が走ったかと思うと、ガラスに罅が入った。堪らず、目を瞑り、歯を食いしばる。ガチガチと上下の顎がぶつかる。身体全体が楽器になって、それと共鳴しているかのように、一緒に震えている。
起こったときと同様に、それは唐突に止んだ。俊輔はきりきりという顎の痛みで我に返った。自分がーー必死に歯軋りしていることに気づく。きつく閉じていた瞼をゆっくりとこじ開ける。
家鳴りはーー収まっていた。部屋の中は、いつもと変化したところはない。砕けたモニターを除いて。いやーー。
不快な感触で、俊輔は自分の足下に目をやった。ズボンの前に黒い染み。椅子からカーペットへ、下半身を濡らして生温かい液体が零れている。
俊輔は失禁していたのだった。