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自分と向き合うのは結構しんどい
退職してから数週間、無為徒食に生きても、自己存在に疑問を抱かず自己蔑視に苛まれず前を向いて歩き出せた理由は、自分を受け入れられていたからだと思います。
一時的にではありますが、私個人の小説家への挫折や反省点を可視化して全て投げ出す訳でなく、次に繋げようと失敗のままで終わらせず前向きに検討し奮闘するまでは、私自身も自分と向き合えていると思いました。
故に自己憐憫の顔を一切覗かせず、前向きに現実と向き合う様を皆様にも披露していたかと思います。
しかし、あれは…。
本当に自分と向き合っていたのか、錯覚とすら感じられます。
小説家の挫折を段階を踏まなかった事を理由にし、それでもnoteで自分の言葉で表現しようとアイデンティティの確立、すなわち自分の固有性を担保にし、自分はまだ敗北していないんだぞと夢を出し合いにし(ここですら等身大の自分と向き合えていなかったと思われます)、自尊心を保っていました。
そして農家への転身を考えました。
アスパラ農家のマネをして自分の畑を持てば、人の顔色に左右される事なく少しは自分らしく生きていけると思っていました。
しかし、いきなり営農するに当たって家族や一部の先輩農家から考え直すよう促され、そこから歯車が狂ってきました。
私は自分の意志が言えない社会不適合者だったので、自分の畑を持てず自主的に生きられず、自分らしく生きていけない危惧が私に降りかかりました。
それに囚われてしまってからもうダメです。noteを通じて自分と向き合うはずが、目を背けたくなる自分を直視できなくなっていました。
過去のトラウマ、自分の不全ばかりに焦点を当て、noteを書く当初の目的も忘れ、現実逃避を繰り返し、不全を浮き彫りにする過去を責めて現実の自分と一切向き合えなくなっているのでした。
社会に、他人に拠り所を、安心感を感じ得ないのは第一の小さな社会、すなわち家庭が機能不全で私は居心地の悪さを感じていたからと思われます。
こういう具合に自分と向き合えず自分の不具を見つけると、本で得た知識も相まってより実証的な過去に固執するようになりました。
等身大の自分と向き合うのは結構しんどいです。
自分と向き合えない自分に非があるのも自明で、しかし、自分以外の作用も確実に受けています。
そのどっち付かずに振り回され、踏ん切り付かず疲弊しました。
自分と向き合う覚悟が足りなかったんでしょう。
過去も変えられないし、自分の生きづらさを他人に言った所で無理解に終わるだけだし、加えて同質の人間と思い上がっているが故に、その無理解に怒りが汲み上げ人間不信になり、人に優しくなれなくなります。
他人は変われないのなら、自分が変わるしかないようです。
割に合わないと憤りを喰らいますが、このままでも納得できないのでしょう?
八方塞がりの中導き出される答えは、自分を変えるしかないと言う事です。
この賛否両論ある記事を投稿してみます。
私も書いていて気分の良いものではありませんでしたので、もしかしたら消すかもしれないです。
悪しからず。