沢木2.2 ネパール編

19.SHETS
飛行機が雲を抜け、眼下に広がる山々が見えてきた。まるで地平線が歪んでせり上がってくるような光景だった。その中に、ひときわ高く聳える白い峰が目に入る。僕は思わず見とれた。これがエベレストだろうか。いや、確かめる術はない。ただ、その瞬間、子供の頃から世界の最高峰に憧れてきた記憶がよみがえり、胸が高鳴った。
空港に降り立つと、最初に感じたのは、どこか緩い空気だった。入国審査では「日本人か!こんにちは!!」と陽気な笑顔を向けられ、まるで近所の知り合いと挨拶を交わすような感覚で手続きが進む。この国の空気が、すでに僕の肩の力を抜いてくれているようだった。
到着ロビーでふと耳にした日本語に振り向くと、話しかけてきたのは愛媛大学の医学部生だという青年だった。どこか安心感を覚え、軽く会話を交わすと、今度はドイツ人とのハーフという青年も合流してきた。彼は流暢な日本語を操りつつ、ネパールで暮らしていた経験を話してくれた。その手際の良さに驚いたのは、彼があっという間にタクシーを交渉し、僕たちをカトマンズの市内へ連れて行った時だった。
ホテルに荷物を置き、街歩きを始めた僕たちは、まずタメル地区へ向かった。この街で最も発展しているというその地区は、目に映るすべてが異国だった。インド系の顔立ち、デーヴァナーガリー文字、ヒンドゥー教の寺院。どこを見ても初めて目にする光景だ。それと同時に、通りにはトレッキング用品の店がひしめいていて、山々へと挑む旅人たちの足音を感じる。ここは「世界の屋根」へと続くゲートのような場所なのだろう。
そんな中、ふとした偶然で再び医学部生とハーフの青年に出会った。ここはそんな風に人が自然と集まる場所なのかもしれない。彼らと笑顔を交わしながら、このタメルがバックパッカーたちの聖地と呼ばれる理由を少しだけ理解できた気がした。
歩いていると、ダルバール広場についた。「ダルバール」とはネパール語で宮廷を意味するという。ガイドのビシュヌが教えてくれた話によると、かつてこの盆地には3つの王国が存在し、それぞれが美しさを競い合ったという。石畳の道や、歴史を語る建造物の数々に触れながら、遠い過去の王たちの足音が聞こえるような気がした。
「クマリの時間だ」とビシュヌが言い、僕たちはクマリの館へと足を向けた。クマリとはネパールで「生きた女神」として選ばれる少女のことで、彼女は国の象徴であり、祝福をもたらす存在だという。特定の条件を満たした少女がその役目を担い、カトマンズのクマリは特に有名らしい。その特別な存在の話を聞きながら、僕はどこか現実感を失ったような気分になっていた。
館の前には大勢の人々が集まっていた。12時ちょうど、窓が開くと、そこから小さな少女が顔をのぞかせた。彩色された目元が異様なほど美しく、その静かな眼差しには威厳すら漂っていた。彼女が生きた神であるという説明に、僕は言葉を失った。あの目に映る世界は、一体どのようなものなのだろう。
その日の夕食は、ダルバートタルカリというネパールの国民食だった。豆のカレーや野菜が乗ったプレートを前にして、素朴な味わいに満ちた料理を噛み締める。食事を終えたレストランで、日本語で「葉っぱ吸うか?」と話しかけられたときは思わず笑ってしまったが、丁重に断った。異国の自由さと日本人観光客の多さを改めて感じた。
トイレを借りたとき、そこが水洗でないことに気づいた。首都でさえ水洗トイレがないという現実に、この国の貧しさを少しだけ理解した気がしたが、同時にそれ以上の豊かさが人々の笑顔や空気にあるのではないかとも思った。
翌日、髪を切ることにした。散髪屋での料金はたったの200円だった。その安さに驚きながらも、切り終わった髪型を見ると、どこか南アジアらしい風合いが漂っていた。鏡に映る自分の顔を見ながら、旅の途中で変わっていくのは、自分自身なのだと感じた。
翌朝、ホテルを出て散歩に出かけた。まだ眠りの残る街に、少しずつ日常の息吹が戻り始めている。スクールバスが停まり、制服を着た高校生たちが笑いながら降りてくる。その表情はどこか飾り気がなく、まっすぐな輝きを放っている。小さな空き地では少年たちが卓球をしていたが、目を凝らすとネットの代わりに煉瓦が置かれている。僕は思わず足を止め、その手作り感と工夫のたくましさに微笑んだ。
街の映画館に掲げられたポスターを見ると、そこに描かれているのはインド映画の派手なアクションシーンだ。この国ではインド文化の影響が色濃く、エンターテイメントの中心も自然とそちらに寄っているのだろう。
しばらく歩くと、大きな寺院の前に出た。ヒンドゥー教徒ではない僕でも中に入れてくれるというので、許しを得て境内に足を踏み入れる。寺院の静けさと重厚な雰囲気に圧倒されながらも、祈りを捧げる人々の姿に心が和らいでいく。不思議な安心感を覚え、僕も手を合わせてみた。正しい祈り方はわからない。ただ、この場所ではそれが自然に思えた。
街の景観に目を向けると、ところどころに高層ビルが建っているものの、その多くは未完成で骨組みがむき出しだ。それはこの国が発展途上であることを雄弁に語っているようだった。一方で、完成されていないその姿に、未来を模索する人々の息遣いを感じ取ることもできた。
コインを集めたいので、露店でガムを買ってみた。だが、渡されたおつりは硬貨ではなく飴玉だった。思わず笑いながらその飴を手に取り、ここではこれが「おつり」ということなのだと小さな文化の違いを楽しんだ。
前日案内してくれたガイドのビシュヌが、残りの世界遺産も見せてくれるというので、彼に頼ることにした。最初に向かったのはパシュパティナート。4大シヴァ寺院の一つであり、バグマティ川が流れるこの寺院は、ヒンドゥー教徒にとって聖地とされている場所だ。
敷地内に入ると、そこには火葬場があり、その光景は僕がこれまで見てきた葬送の文化とはまるで異なっていた。近くの火葬場も含め、この場所で火葬されるのは身分の高い人か裕福な家系の者に限られるという。遺体はバグマティ川の水で洗われ、火葬された後、灰は川に流される。その過程は死者の魂を解脱へと導く神聖な儀式であり、遺族にとっても重要な意味を持つものだ。
遺族の姿を見て、僕は驚いた。日本では葬儀に礼服を着て涙を流すのが一般的だが、ここではジーパンや普段着のまま淡々と作業をこなす。泣き叫ぶ人はおらず、むしろ雑談をしている者もいる。その姿に、生と死に対する価値観の違いを感じた。
僕は宗教というものを、これまで単に信仰する神の違いだと捉えていた。しかしこの国の火葬の儀式を目にし、宗教は生死観や日々の習慣、価値観をも含むもっと大きな枠組みなのだと気づかされた。文化の中に根付くこうした生死の捉え方は、僕の視野を広げてくれる。
敷地内を歩いていると、サドゥと呼ばれるヒンドゥー教の修行者たちに出会った。オレンジ色の衣をまとい、髪を伸ばしっぱなしにしている彼らの姿は、どこか現実離れしている。灰を体に塗り、瞑想にふけるその姿は一種の厳かささえ感じさせた。シヴァ神の信奉者である彼らの中には、大麻を精神的覚醒や瞑想の助けとして用いる者もいるという。禁じられたそれを政府から贈られたという話を耳にし、この国の宗教が持つ力の大きさを垣間見た気がした。
ボダナートに着いたとき、その壮大さに思わず足を止めた。目の前には、ネパール最大のストゥーパがそびえ立っている。その白亜のドームの上に、まるで世界を見渡すかのように描かれた仏の目が、静かに僕を見下ろしている気がした。ドームの周囲には無数のタルチョが風に揺れ、五色の布が空中に祈りの言葉を紡いでいる。ここはただの建造物ではない。祈りと信仰が物質化したような場所だと感じた。
ストゥーパを囲むように並んだ巨大なマニ車が目を引いた。僕も試しにその一つの持ち手をつかんで回してみたが、思いのほか力強く動き、体がぐいっと引っ張られる。思わず「これがスイングバイか」と、大学の地球惑星科学の授業で聞いた言葉を思い出す。だがすぐに、単に回転する物体のトルクを受けただけだと気づいて、少しだけ苦笑した。やっぱり物理はよくわからんと思った。
この場所は、チベット併合後に多くのチベット仏教徒が移り住み、巡礼地として栄えてきたという。周囲には仏教徒たちが絶えず巡礼を続けている。手にタルチョを掲げたり、マニ車を回したり、あるいは額を地面に擦りつけて祈りを捧げる姿が見られる。彼らの祈りに込められた情熱に圧倒されながらも、僕の頭の片隅には失礼な考えが浮かんでいた。
日本の仏教の「さぼり方」を思い出したのだ。お経を読むのが面倒だから題目だけを唱えるとか、仏の名前をひたすら唱えるとか。しかしネパールでは、その「さぼり方」がさらに進化していた。経文が書かれたタルチョが風に揺れれば、それで一回経を読んだことになるとか、経文の書かれたマニ車を回せば読んだことになるという仕組みだ。そして、そのマニ車に重りをつけたり、持ち手をつけて回しやすくしたり、挙句の果てにはソーラーパネルで自動で回るものまで売っている。簡単なほうへと流れていくのは、どの文化でも人間の本質なのかもしれない。
だが、その一方で、寺の修行僧たちは真剣に仏典を音読している。彼らの声は低く、まるで空間に響く振動のようだった。その姿を見ながら、「本当の信仰とは何なのだろう」と考えていたところ、ある一人の女性の姿が目に入った。サングラスを頭に乗せ、ジュースを飲みながら、顎に手をつき、iPad Proで経を読んでいるのだ。そのカジュアルな姿に驚きつつも、その目の奥にある真剣さに気づく。彼女は文字そのものではなく、釈迦が伝えようとした教えの本質を探ろうとしているように見えた。その姿勢は、形式に囚われた音読をしている僧たちよりも、むしろ純粋な仏教徒に感じられた。
壁には一枚の絵があった。ニワトリが餌をついばむ様子が描かれている。それは執着や欲望の象徴だという。その絵を見て、僕は少し恥ずかしくなった。欲望に執着している自分自身の姿が、ニワトリの動きと重なったのだ。「強欲な僕は、まさにこの絵の中の鳥そのものかもしれないな」と苦笑しつつ、その場を後にした。
昼食は寺院の近くの小さな店で取ることにした。メニューを見ると、なんと「Japanese Chicken Curry」と書かれている。大日如来の目に見守られながら、それを注文してみた。味は日本のものとほとんど同じだったが、ここで食べるとどこか新鮮だった。目の前のストゥーパを見上げながらスプーンを口に運んだ。
パタン。カトマンズからバグマティ川を挟んで南に位置するこの街は、「美の都」という異名を持つ。その名に違わず、訪れた瞬間から、街全体が芸術品のように感じられた。石畳の道、複雑な木彫りの窓枠、そして広場に点在する寺院や仏塔。それらが織りなす風景は、どこか静かで穏やかだった。中世の王国がそのまま息づいているようなこの街は、歴史の層が積み重なり、その重みを感じさせてくれる。
まず向かったのは、パタンのクマリの館。カトマンズのクマリとは異なり、ここではお金を払えば直接クマリに会うことができる。入り口で料金を支払い、中に入ると、思わず足が止まった。建物そのものは、正直なところ古びていて、僕が暮らす家賃2万円のマンションよりも驚くほどおんぼろだった。しかしその空間に漂う静けさと神聖さは、何とも形容しがたいものだった。
そしてついにクマリと対面する。彼女は小柄で、彩色された目元が印象的だった。しかし、その目は虚空を見つめており、終始一言も発しない。その静謐な姿に、不思議な圧倒感を覚えた。彼女の背負う伝統と、その重さをほんの少しだけ垣間見たような気がした。
次に訪れたのは、パタン博物館。内部にはネパールの豊かな文化と歴史を物語る展示が並んでいた。アンモナイトの化石や仏教の曼荼羅に描かれた世界図。その一つ一つが、この地の宗教と自然、そして人々の暮らしを紡いでいるようだった。館内で、何気なく「Excuse moi」と声をかけた相手がたまたまフランス人で、彼が驚きの表情を見せたのには笑ってしまった。大学でフランス語を学んだ影響で、つい癖になっていたのだ。
博物館を出ると、ビシュヌの姿が見当たらない。しかし、不思議と焦る気持ちにはならなかった。この街の穏やかな空気が、どこか心を落ち着かせてくれるのだ。通りを歩きながら、50ルピーで売られている何かを目にした。それは焼かれていて香ばしい匂いを漂わせている。「骨髄じゃない?」と獣医学部の匠吾が指摘しながらも、僕は試しにそれを食べてみた。思ったよりも濃厚で、素朴な味が舌に残った。この街の物価の安さには驚くばかりで、カトマンズの1/6ほどに感じたが、ここではさらに1/10のような気がした。
ふとビシュヌに誘われ、水補充装置を見てみるかと言われた。「見たい!」と興奮気味に応えると、彼はコインを取り出した。コイン流通してるじゃないかと思いながら、その装置で水を満タンにする。たった2ルピーでたっぷりの水が手に入り、物価の低さに改めて驚いた。
その後、スワヤンブナート、別名モンキーテンプルへ向かった。この寺院は丘の上にあり、そこからカトマンズの街を一望できる。周囲には名前の通りサルが多く、人々の間を縫うように駆け回っていた。山の上から街を見下ろすと、古い建物は茶色のレンガ造りで整然と並び、新しい建物は白や派手な色彩をまとっている。それらが混在し、過去と未来が共存する光景が広がっていた。遠くのトリブバン空港には、ちょうど一機の飛行機が着陸しているのが見えた。「あの飛行機には、マッサンたちが乗っているのだろうか」とふと思う。
マッサンは北大の実習としてネパールを訪れると聞いていた。その計画に僕も誘われ、さらに獣医学部の匠吾も二つ返事で加わることになった。しかし実習の日程が曖昧だったため、僕は早くカトマンズに到着してしまい、この後予定していたインド行きの飛行機も既に予約済みだったため、実習には途中までしか参加できない。それでも、この旅の形が少しずつ変わっていく感覚を、どこか楽しんでいる自分がいる。
友人との三人旅、一人旅、そして妹との日常と、これまでの旅は全て異なる形を持っていた。これから始まる大学の実習では、また新しい体験が待っている。そう考えると、僕の心は静かに期待で満たされていった。
実習は北大だけでなく、他の大学とも合同で行われるというのが新鮮だった。その日の晩、島根大学の酒井先生と島根大学の学生たちと一緒に晩御飯を食べることになった。酒井先生はコロナ禍以前から頻繁にネパールを訪れていたらしく、久しぶりの訪問だという。街並みを眺めながら、「ネパールはこの3年間でこれだけ発展したんだよ」と教えてくれた。僕が今見ている景色の背景には、ネパールが歩んできた新しい時代の一歩が刻まれているのだと思うと、街並みが少し違って見えた。
夕食の場で、酒井先生がネパール語を教えてくれた。ただ、その内容が「愛しているよ」とか「君と口づけしたい」とか、妙にロマンチックで使い道に困るフレーズばかりだった。場が和む一方で、「いったいいつ使うんだよ」と思わず心の中で突っ込んでしまった。
ホテルに戻ると、知った顔がたくさんいた。同じ学部のマッサン、幹太、ケイシロウ、そしてサークル仲間のリョウタ。僕は北大の授業にはほとんど行っていないし、地球惑星科学科の実習に参加したこともなかったが、久しぶりに顔を合わせた彼らに、懐かしさを感じた。
翌朝、ゴンドワナ地質環境研究所(GIGE)の会長、吉田勝さんに初めて対面した。この実習の主催者で、事前にメールでやり取りをしていたときは、その厳しい口調から少し怖い人を想像していた。しかし、実際に会ってみると普通のおじいちゃんで、どこか柔らかい雰囲気があった。
その後、トリブバン大学に向かった。これまで訪れた海外の大学は台北大学やシンガポール国立大学だったので、トリブバン大学の古びた建物は非常に印象的だった。歴史の重みを感じさせる反面、おんぼろ感も否めなかった。授業は英語で行われたが、僕が「deepLを使いたい」と提案すると、他の大学の学生も賛同してくれて、大学生なんて考えることは皆同じだなと思った。
授業の後、トリブバン大学の学生たちと一緒にカトマンズを回ることになった。昼食には「モモ」と呼ばれるネパールの名物料理を食べた。それは小籠包や肉まんに似た料理で、中には水牛の肉が入っているらしい。「これ、牛みたいなやつ?」と尋ねると、「いや、牛じゃないから!」と返された。ヒンドゥー教では牛を神聖視するため食べられないが、水牛は別物という認識らしい。この違いに宗教の奥深さを感じた。牛が歴史的に農作業や乳の提供など経済的に重要だったことを考えると、働かない水牛が食べられるというのも納得できた。
その後、マイクロバスでスワヤンブナートへ向かった。昨日も訪れた場所だったが、匠吾やガイドと一緒に行くのと、全く知らない人たちと行くのでは、また違った楽しさがあった。道中では退職している鴻内さんや不二子さんと社会の話をしたり、東北大学のマサキと昆虫の話をしたり、トリブバン大学のSwostikaとコイバナで盛り上がったりした。山の上に着くと、誰かが突然「Resham Firiri」を歌い始め、ネパール人たちが踊り出した。その光景に、インド映画さながらの賑やかさを感じた。僕も負けじと「ソーラン節」で応戦し、山の上でネパールと日本の踊り文化が奇妙に混ざり合った。
その日の夜、トリブバン大学の学生たちと懇親会を兼ねて晩御飯を食べた。全員が英語で自己紹介をする中、僕は翻訳したネパール語の文章を音声で読み上げ、場を笑いに包んだ。「メロナーメアキゾンコーノホ!」と間違ったイントネーションも手伝って、受け狙いは大成功だった。ネパール語を勉強していたマッサンが英語で自己紹介をする羽目になり、少し申し訳ない気もしたが、それもまた一つの思い出だと思った。
食後、Swostikaに教えてもらいながら手でカレーを食べてみた。「郷に入れば郷に従え」という言葉通り、ネパールの習慣をそのまま受け入れると、ダルバートタルカリの味わいがどこか深く感じられた。
その後、匠吾やマッサン、リョウタ、幹太とカジノに行こうという話になった。途中、コンビニで見つけた「Red Blue」というドリンクが妙にツボだった。パッケージにはブルではなく虎が衝突していて、これはこれで個性があるなと思った。いざカジノの目の前に到着したが、マッサンが「俺、ビール買いに来ただけだから」と言って帰っていったのには呆れつつも彼らしいなと笑った。しかし、最小ベットが1000ルピーだったため、僕たちも結局カジノには入らなかった。
カトマンズからポカラへ向かうハイウェイと聞いて、舗装された快適な道路を想像していた僕の期待は、すぐに裏切られた。ハイウェイと呼ばれているが、その実態は、舗装も何もない砂利道だった。バスは土ぼこりを巻き上げながら、ぐらぐらと揺れながら進む。それでも、この道がカトマンズに続く交通の要所だという事実に、改めてこの国の厳しい自然条件を実感した。
道中、崖をすれすれに進むバスの窓から外を覗くと、山肌に設置されたコンクリートの壁が目に入った。これは、土砂崩れを防ぐための対策だという。しかしそれだけでは不十分なのだろう。崩れやすい性質の岩が多く、長期的な対策として植林が行われていると聞いた。自然の力に対抗するためには、こうした忍耐強い努力が必要なのだと思った。
道端には、赤みを帯びたアルミニウムの石がごろごろと転がっていた。その鮮やかな色合いが、単調な山道の景色に一瞬のアクセントを与えている。バスは時折、崖すれすれを走り、そのたびに「よくこんな道で落ちないな」と感心するほどだった。
途中で見えた山火事には驚いた。山の斜面から煙が上がり、火が赤々と燃えている。その光景に珍しがっていると、「これぐらいの火事は珍しくない」と現地の人が教えてくれた。乾燥した気候や人々の生活の中での小さな火種が原因で、しばしば山火事が起こるのだという。
200キロ進んで、ついにポカラに到着した。ネパール第二の町と言われるだけあって、活気があり、散策するだけで楽しい街だ。市場やカフェ、湖畔の風景に心を奪われ、時間を忘れて歩き回ってしまった。ホテルに戻ると、セミナーが始まっていたようで、匠吾と一緒にタイミングを見計らいながら侵入しようとしたが、結局セミナーが終わるまで入ることができなかった。その時間さえも、どこかのんびりと楽しめるのが、ネパーリータイムなのかもしれない。
ポカラからさらに山間部のシャイカを目指す道では、風景が一層ダイナミックになっていった。車窓から見えたのは「マチャプチャレ」。その名は「魚の尻尾」を意味する。鋭くとがった山頂が、確かに魚の尾びれを思わせる形をしていた。この山は宗教上の理由で未踏峰だという。人間の力が及ばない山を信仰の対象とするその思想に、どこか神聖さを感じた。
道中では地形の壮大さに目を奪われた。吉田先生によると、かつて氷河が地震で崩れ、大量の氷と岩が流れ込んで、200メートルもの深い谷間を作ったのだという。その谷の壁には、さまざまな種類の岩が積み重なっている。「さざれ石」という言葉が頭をよぎった。一つ一つは小さくとも、長い時の流れの中で固まり、巨大な壁を形成する。この景色を前にすると、人間の歴史がいかに短いものかを感じずにはいられない。
バスはHigher Himalayaの入口へと近づいていった。標高が上がるにつれて、空気が薄くなるのを肌で感じる。日が暮れる頃、疲れがどっと押し寄せ、バスの中で眠りに落ちた。目が覚めると少し体調が悪い気がしたが、「高度に慣れていないだけだろう」と自分に言い聞かせ、しばらく休むことにした。
シャイカに到着すると、今回のセミナーが始まった。ポカラでサボった分を取り戻そうと、ひたすらボケ倒していた。会場の雰囲気はどこか和やかで、僕の冗談も自然と受け入れられた。
朝、目が覚めた瞬間から、体調が悪いのが分かった。頭が重く、全身に力が入らない。昨夜の疲れが取れていないどころか、むしろ増しているように感じた。もしかして高山病かと思い、ダイアモックスを飲んでみたが、状況は何も変わらなかった。念のため血中酸素濃度を測ってみると、正常値だったので高山病ではなさそうだ。だが、その安堵も束の間だった。前日に体調悪化で急遽帰国した人がいたのを思い出し、このまま報告したら「実費で強制送還」となるのではという不安が頭をよぎる。それはそれで嫌だった。
椅子から立ち上がろうとした瞬間、ふらついてその場にへたり込んだ。脱水症状のような感覚だった。なんとかトイレにたどり着いたものの、そこで吐き気に襲われた。胃の中のものを全て吐き出したが、体調は全く良くならない。鏡に映る自分の顔は青白く、今にも崩れそうだった。専属ガイドのジャビに相談すると、彼は脱水症状用の薬を取り出してくれた。藁にもすがる思いでそれを飲むと、少しだけ体が楽になった。
それでも不安が完全に消えたわけではない。バスに乗り込む頃、匠吾曰く僕の顔がどこかクマリのように見えた。神聖というよりも、虚空を見つめるあの静かな眼差しに似ていた。自分が弱っているからそう感じたのだろうか。
さらに追い打ちをかけるように、山奥でトイレに行きたくなった。バスを降りてネパール人のスタッフを引き連れ、トイレを探す冒険が始まった。山中のどこにトイレがあるかなんて分かるはずもない。だが、探し回っているうちに、なぜか自分が無理やり元気を振り絞っていることに気づいた。体調が悪い時ほど、誰かに頼ることすら申し訳なく感じてしまうのは人間の性なのだろう。
ようやく辿り着いたのはカグベニと呼ばれる村だった。標高の高さを感じさせる冷たい空気が、頬をかすめる。村で目にした光景はどれも素朴で、心にじんわりと染み入るものだった。石垣で囲まれた畑が広がり、羊飼いのおじいちゃんが羊たちを引き連れて歩いている。トタンの屋根に石を載せただけの簡素な家々が並ぶ一方で、その隣には古めかしい石造りのストゥーパが堂々と佇んでいる。
道端では洗濯板で洗濯をするおばあちゃんが忙しそうに動いていた。その姿に、ここでは時間がゆっくりと流れているのだと感じた。だが、そんな風景の中で、僕の泊まるホテルにはWiFiが飛んでいるというギャップに驚かされた。現代的な生活が、この山間部にも少しずつ浸透しているのだろう。
それでも、体調は万全ではない。高山の空気に適応できていないのかもしれないが、僕にはこの地に立っていることそのものが試練のように思えた。弱っている自分と向き合いながら、この旅の中で得るものを探し続けるしかないのだと、そう自分に言い聞かせる夜だった。
この2日間、ひたすら寝てばかりで、標高約3000メートルにおける睡眠時間の日本記録を狙えるんじゃないか、なんて冗談じみたことを考えていた。体調が悪化しているくせに、こういう変な方向に頭が回るのは、僕の悪い癖だ。ふと、沢木耕太郎の旅と自分の旅を重ね合わせてしまった。沢木は「ガヤ→カトマンズ→バラナシ」で体調を崩したが、僕は「カトマンズ→体調悪化→ガヤ→バラナシ」と、その順序が少し違うだけで似たような展開だな、なんて考えた。こんな時でも旅に関する本のことを思い出している自分に、どこか呆れてしまう。
バスに何日揺られていたのか、もはや時間の感覚が薄れていたが、カロパニの同じホテルに戻ってきたことで、ようやく折り返し地点に到達したことを実感し、少しだけホッとした。旅が進んでいるのか、それとも停滞しているのか、自分でもよく分からない状態だったが、「戻ってきた」という事実が、今の僕にとっては小さな希望だった。
ホテルのベッドに横たわりながら、日本に帰れるチケットを調べてみた。表示された金額は14万円。帰るに帰れない現実が、スマホの画面に突きつけられる。「これ、値切れないかな」と真剣に考えている自分が少し怖い。体調を壊している状況すら、どこかでネタとして楽しもうとしている部分があることに気づき、自己嫌悪が押し寄せる。
母に体調を崩したことをLINEで伝えると、「帰ってこい」でも「インドには行くな」でもなく、「それもいい思い出になるよ」と返事がきた。その軽やかさに拍子抜けしつつ、どこか救われたような気もした。
カロパニからタトパニに移動すると、そこには温泉があると聞いた。正直なところ、体調が完全に戻っていない僕には、お湯に浸かる元気はなかったが、どんなものか見てみたい気はした。ふらりと温泉の入り口に近づき、中の様子を覗こうとしただけなのに、店員に「入るのか?」と声をかけられた。「金がないからいいんだ」と答えると、「気にするな」と笑顔で言われた。その言葉に、なんとも言えない温かさを感じた。
結局、温泉に入った。入ったら体調がよくなる気がした。タトパニの空気はどこか柔らかかった。旅の途中で感じるこうしたささやかな優しさが、僕を少しずつ元気にしているような気がした。旅は思い通りに進まない。体調を崩し、戻るべきか進むべきか悩む日々。それでも、こうして小さな出来事が重なり、僕の心に刻まれていく。それもまた、旅の一部なのだろう。
体調がようやく回復した。あの辛かった日々が嘘のように、体が軽い。バスに揺られながら、何気なく開いた会計学の本に意外なほど熱中してしまい、隣のリョウタにひたすらその内容を語り続けた。貸借対照表やキャッシュフローがどうのと延々話している僕に、リョウタは半分聞き流しながらも「で、それ、どう役に立つの?」と相槌を打ってくれる。この旅の中でこんな話をするとは思っていなかったが、会話の楽しさが心を軽くしてくれた。
ポカラという文明のある街に帰れると思うと、力が湧いてきた。久しぶりに目にした街は以前よりも発展しているように見えた。舗装された道、明るい看板、そしてどこか洗練された雰囲気。それでも、のどかさは失われておらず、ポカラらしい穏やかさがそこにあった。
自由行動になり、仲間たちと街を歩いていると、「ディズニーランドに行こう!」という話になった。もっとも、それは本家のディズニーランドではなく、地元の遊園地に「ディズニーランド」と名付けられたものだった。観覧車が目玉らしいが、そのスリルは本家以上。なんと、ドアがなくスピードも速い。みんなで「乗ろうぜ!」という話になったが、僕は何かが引っかかり、結局乗らなかった。降りてきたみんなの、死にそうな表情を見て「引く勇気も必要だな」と改めて思った。
その後、成都レストランという中華料理店に向かった。久しぶりにダルバートタルカリ以外の食べ物を口にできることに、どこか贅沢な気分になった。チャーハンやスープの味わいが、旅の疲れを癒してくれるようだった。
翌日、ポカラ観光が始まった。最初に訪れたのは川辺だった。吉田先生が変成岩について説明していたが、正直それよりも、リョウタの水切りの腕前に心を奪われた。川幅がかなりあるのに、彼は石を12回も跳ねさせて対岸に届かせている。「どうやるの?」と尋ね、教わったコツを試すと、生まれて初めて3回の水切りが成功した。思わず声を上げて喜び、それを見たリョウタも笑顔を浮かべていた。
次に訪れた国際山岳博物館では、山岳よりもネパールの各民族の伝統的な衣装や生活道具が面白かった。それぞれの民族の文化が細やかに展示されており、衣装の色彩や意匠が、その土地の風土と歴史を雄弁に物語っているようだった。山にまつわるエピソードよりも、人々の暮らしに触れることで、この国の多様性を実感できた気がする。
午後は、日本山妙法寺を訪れた。その名前から日本らしさを期待していたが、実際には全く違い、ネパール風のパゴダが建っていた。軽いハイキングコースとして設計された参道は歩きやすく、「これくらいがちょうどいいな」と思いながら登った。頂上から眺めた湖とヒマラヤの対比には、思わず息を呑んだ。青い湖面が空の色を映し、白銀のヒマラヤがその背景に雄大に広がる。その景色には人の手が入り込んでおらず、ただ自然の美しさだけがそこにあった。
下山後、湖畔でボートに乗り、対岸のポカラの町へ戻った。水面を切るオールの音だけが響き、穏やかな時間が流れた。
晩御飯は各自自由ということで、僕は迷いに迷った挙句、KFCに入った。どう考えてもダルバートタルカリを食べたほうが面白かっただろうが、もうどうしてもダルバートタルカリだけは食べたくなたった。しかし、ここで食べたチキンは日本のそれとは違い、驚くほど辛かった。ポカラの街を歩きながらその辛さを引きずりつつ、何となく「終わりが終わって、終わりが始まった」と感じた。
翌朝、仲間たちに見送られ、匠吾と共にカトマンズへ向かうバスに乗った。どこか旅の終わりが近づいているような気がして、少し寂しさも感じながら窓の外の景色をぼんやり眺めていた。そのとき、後ろの席の3歳くらいの男の子に話しかけられた。彼の父親は、迷惑になるのではと止めようとしたが、「いいんですよ」と笑顔で返し、話を聞くことにした。
男の子は、驚くほど流暢な英語で話しかけてきた。そして、いきなり「地理のクイズを出してくれ」という。仕方なく、「世界で一番高い山は?」と聞くと、間髪入れずに「エベレスト」と正解を言い当てた。それは当然だろうと思ったが、次に「じゃあ二番目は?」と聞くと、「K2」と答えた。彼がヒマラヤに住んでいるからこその知識かもしれないが、3歳児がこれほどスラスラ答えるのは驚きだった。
さらに、「一番面積が大きい国は?」と問うと「ロシア」、二番目は「カナダ」。次に「じゃあ人口は?」と尋ねると、迷いなく「中国」と言った。「いや、今はインドに抜かれたんだよ」と教えると、彼は少し考え込みながらも、「信じられない」と首を振った。
その純粋な反応に、どこか微笑ましさを覚えた。彼がこうして世界について学び、知識を広げていく姿は、ネパールの未来そのものに見えた。バイリンガルで、物怖じせず話しかけ、しかも自分の興味を率直に追求するその姿勢に、この国を背負うリーダーの可能性を感じた。
バスがカトマンズに入ると、心の中で「文明だ」と叫びたくなるほど感動した。舗装された道、賑やかな街並み、店の明るい看板が疲れた体に希望をくれた。バスを降りるとすぐ、七歳くらいの女の子に物乞いをされた。その小さな手が僕のシャツを引っ張る感覚に胸が締め付けられた。ふと、さっきの3歳の男の子の姿が頭に浮かんだ。ネパールは後発途上国とはいえ、格差の存在感があまりにも鮮明だ。先進国の格差より、ここではその落差が目に見える形で現れる。それが何とも言えない重さとして心に残った。
昼食は日本食レストランでそばを食べた。これまで口にしてきたどの料理よりもおいしく感じたのは、懐かしさのせいだろう。東京海洋大学の教授も来ていて、少しだけ言葉を交わした。日本人の顔を見るだけで、どこかほっとする自分がいた。
しかし翌朝、腹痛が再発した。手近な店でビタミン剤を買って飲んでみたが効果は薄く、スーパーに行っていろいろ買い出しをした。ユンケルもリポビタンDもなく、代わりにタイ製の謎のエナジードリンクを手に入れ、それを飲みながらベッドで「深夜特急」を読んでいた。少し読んでは寝る、その繰り返しの時間が妙に心地よかった。
夜中、ホテルの電話が突然鳴った。フロントに確認しても「知らない」と言われる。再び鳴り出すと、さすがに腹が立ち、電話のコードを引き抜いてやった。それでようやく静けさを取り戻した。
翌日は王宮を訪れた。ガイドが説明してくれたのは、ネパールの王族殺人事件についてだった。この事件では、王族10人が射殺され、ディペンドラ皇太子が実行犯とされているが、ガイドは「誰も信じていない」と言った。特に、右利きの彼の致命傷が左のこめかみから入っているという話には、明らかに不自然さを感じた。ガイドは「きっとアメリカか中国かインドだ」と囁いた。この地政学的に重要なネパールは、周辺大国の影響を受けやすい国だ。そんな不安定さが、歴史の暗部として刻まれているのかもしれない。
王宮の中を巡る間、時計をホテルに置いてきてしまい、スマホも入口で預けたため、今が何時なのか全く分からない。時間の感覚を失ったまま、ただゆっくりと歩いた。
昼食はピザハットに入った。無難な選択だと思っていたが、出てきたピザは驚くほど辛かった。この辛さが「これから行くインドの前哨戦か」と思うと、妙に緊張感が高まった。
長いと思えたネパール実習は気づけばすぐに終わってしまった。観光客で賑わう場所を巡るだけでなく、誰も行かないような山奥へ足を踏み入れた体験が、この旅を特別なものにしてくれた。体調不良や文化の違いに翻弄されながらも、見たもの、出会った人、味わった瞬間が全て心に刻まれている。旅の終わりが近いことが少し寂しくもあるが、インドへの新しい一歩を踏み出す準備はできている。
あのヒマラヤの壮大さや、山奥で見た素朴な暮らし、道端で交わしたささやかな会話。その全てが、ネパールという地を唯一無二のものにしてくれた。きっと、これからの旅でも同じように、地図には書き込まれていない場所を見つけていくのだろう。それが旅の醍醐味であり、僕がここに来た理由だったのだと、今になって気づく。

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