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【ボスニア旅行記】紛争経験者ミルザさんに聞く紛争の現実とは

トンネル博物館ツアーやサラエボウォーキングツアーでは紛争経験者のミルザさんと共に紛争の傷跡を巡りました。

紛争時サラエボにいたミルザさんから聞くお話は、本を読んで得ていたものよりもはるかに胸に響くものでありました。

遠いボスニアの地で起こった紛争。そしてサラエボだけでおよそ12000人が犠牲になり、国中が荒廃した悲惨な紛争。

私たちはそれを「異なる宗教や民族同士で殺し合う紛争が起こった」という大きな枠組みの中で捉えてしまいがちです。

わかりやすい構図で語られる、紛争という巨大な出来事。

ですが、事実は単にそれだけでは済まされません。

民族や宗教だけが紛争の引き金ではありません。あまりに複雑な事情がこの紛争には存在します。

わかりやすい大きな枠組みで全てを理解しようとすると、何かそこで大切なものが抜け落ちてしまうのではないでしょうか。

なぜ紛争が起こり、そこで一体何が起こっていたのか。

それを知るためには実際にそれを体験した一人一人の声を聞くことも大切なのではないでしょうか。

顔が見える個人の物語を通して、紛争というものが一体どのようなものであるのか、それを少しでも伝えることができるなら私にとって何よりのことであります。

ミルザさんも「サラエボ市民の数だけ紛争体験のストーリーがありますが、私の体験が平和への気づきへと繋がり、平和な未来のためになるならいくらでも協力します」と快くインタビューを引き受けて下さりました。


ガイドのミルザさん(右)と松井さん(左)

ミルザさんは1972年、サラエボで生まれ、父と母、お兄さんの4人家族。

高校生の頃はアイスホッケーの選手だったそうで、ヨーロッパ中に遠征していたそうです。

そんな普通の高校生と変わらないミルザさんの生活が卒業と共に一変することになります。

「私は1990年にユーゴスラビア軍に入隊することになりました。

と言うのも当時ボスニアはユーゴスラビアの一部であり、高校卒業後すぐにユーゴスラビア軍に徴兵されることになっていたからです。

そのとき私は18歳でした。

そして私はユーゴスラビアからの独立を宣言したクロアチアとの戦地に送られることになったのです。」

―1990年当時、ユーゴスラビアは崩壊の危機にありました。

ソ連の崩壊後、社会主義国たるユーゴスラビアに民主主義と民族主義の嵐が吹き荒れることになったのです。

民主主義の原則に則って政権を取るには選挙で勝つことが必要です。

選挙に勝てる公約の王道は経済発展や社会保障。

しかしユーゴスラビアは長引く不況で誰もその公約に見向きもしません。

その公約が実現されることなど誰も期待していなかったのです。

そこで各政党は民族主義を声高に宣言するようになります。

「私達の民族は不当な扱いを受けている。悪いのは他の民族だ。これを変えなければならないのだ。私達は私達だけの国を持たねばならぬのだ!」

このような過激な発言によって民衆を煽り票を集めようとしたのでした。

ユーゴスラビアは多様な民族が共存していた連邦国家。

そしてそれぞれの民族がユーゴスラビアから脱退して自分たちの国を作ろうと蜂起したのがユーゴ紛争だったのでした。

その先陣を切ったのがクロアチアとスロベニア。

ユーゴスラビアは実質セルビアが主導権を握っていたため、クロアチアとスロベニアが独立するのは都合が悪い。

そこでセルビア率いるユーゴ軍がクロアチアとスロベニアと衝突しユーゴ紛争が始まりました。

「18歳で徴兵されて私は戦場に立つことになりましたが、戦い始めは『クロアチア』は平和を脅かす悪人だと教育されていました。

しかし、戦っている内になぜか軍とは関係ないはずのセルビア過激派武装組織が軍と合流するようになっていきました。

私は彼らと共に戦う軍のあり方に疑問を持つようになりました。

私達は本当に平和のために戦っているのだろうかと思うようになったのです。

そして1991年10月末、私は病気を装って戦地を離れサラエボに戻ることができました。

私はもう戦いたくなかったのです。

共に戦った仲間も私と同じように逃げ帰る人が多くいました。」

それにしても、18歳で軍に徴兵されいきなり戦場に送られるということだけでも衝撃的な体験ですが、そこでさらに過激派武装組織の存在から戦いそのものに疑問を持つことができたというのは、私にとっては驚異的なお話でした。

20歳にも満たないころから、軍から「クロアチアは平和を脅かす悪人だ」という教育を受けていたにも関わらず、自分で考えて戦いに疑問を持ち、そこから離脱することを選んだミルザさん。

これはなかなかできることではないと私は思います。

そして私は恐る恐る聞いてみました。

―戦場にいたということは、銃を持つ敵兵が見える位置までいたということですよね・・・?

「そうです。もちろん敵兵の見える位置で私は戦っていました。」

死の危険が目の前にあったのです。

戦場とはそういうものだと頭でわかってはいても、いざ目の前でこうして話してくれているミルザさんの口からそのことを聞くと、やはりショッキングに感じてしまいます。

「私は18歳、19歳という難しい時期にそういう時間を過ごしました。

水もない。食べるものもない。

戦争は何も生み出しません。

しかし何もない中で、私は生き抜く力、強さをそこで得ることができました。」

生き抜く力と強さ・・・

それがあるかないかでどれだけ人生が変わっていくのだろうか。

私もそういう力をいつか持てるようになるのだろうか・・・

「サラエボに戻ってきた後、私はサラエボにもいずれ危険が迫って来るであろうことを感じていました。

私は自分の目でクロアチアとの戦いを目にしました。

その経験からボスニアもきっと同じ運命を辿るであろうことを直感しました。

しかし、サラエボの人たちはほとんどそのことを信じませんでした。

その後しばらくして、私の家に軍から電話がかかってきました。

ちょうど私は外出中で、父が電話に出てくれました。

父はすぐに危険を察知し、私をドイツに逃がしました。

これが1991年10月末の出来事で、ドイツへはハンガリーを経由して難民ビザを利用して入国しました。私は間一髪で軍から逃れることが出来たのです。

ですがドイツでの生活は長くは続きませんでした。

ドイツに渡ってからおよそ3か月後の1992年1月末、私はバスでサラエボに帰国しました。

いよいよボスニアにも紛争の危機が迫っていることがわかったからです。

危険ではありましたが、私は家族のためにドイツを離れてサラエボに戻ることにしたのです。」

家族を守るために再びサラエボに戻ってきたミルザさん。

そしてミルザさんがサラエボに戻ったおよそ2か月後、恐れていた事態が現実のものとなります。

1992年4月6日 サラエボ包囲が始まったのです。

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それは突然始まりました。

この日を境にサラエボ市民は1425日にわたって、セルビア軍の包囲下で極限の生活を強いられることになったのです。

「私達も戦争は教科書で習った昔のものだと思っていました。

しかし現実にそれは起こってしまいました。

戦争は兵士と兵士が戦うものだと思っていました。

しかし多くの民間人が巻き込まれ、命を失ってしまいました。

セルビア人の攻撃が始まり、しばらくは何が起こったのかもわからず、茫然自失でした。

そして水もなく、食料もない日々に本当に苦しみました。

しかしそれが3か月、半年も続くとそれに慣れてしまう。感覚がマヒしてしまうのです。

生きるか死ぬかの苦しい日々が日常へと変わっていったのです」

紛争が起こることを予期していたミルザさんですら、サラエボ包囲が始まった瞬間はその事実を信じることができなかったそうです。

だとすれば、他の大多数のサラエボ市民はそれをはるかに超えるショックを受けていたのではないでしょうか。

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※今回の記事は2019年に公開した以下の記事を再構成したものになります。特に上の続きは下の記事の後編で語られていますので、ぜひご参照頂けましたらと思います。私にとってボスニアで学んだことは一生忘れられないものとなりました。改めてミルザさんに感謝したいと思います。

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