ポーランドの古都クラクフ観光~聖マリア教会や歴史ある旧市街を散策
イスラエルからポーランドの古都クラクフへ
イスラエルでは色んなものを目にした。
そして頭がパンクするほどたくさんのことを考えざるをえなかった。
「イスラエルでの10日間をまとめるとすれば」
これは本当に難しい。
だが、少なくともこう言うことはできる。
エルサレムは奥が深すぎてわからないことがあまりに多い。
時間があまりに足りない。
ということだ。
イスラエルとパレスチナの問題も考えれば考えるほどわからなくなってくる。
いや、「巨大な矛盾を突き付けられてどこにも進めなくなる」、そんな感覚と言った方がいいだろうか。
知れば知るほどわからないことが増えてくる。
今までこの旅に出る前も、本を読んでいる時にそれはつくづく感じることだった。
何か一つを知れば、その背景にある無数の存在を知ることになる。
一つをより知るには、その無数の一つ一つをまた知っていかなければならない。
そうするとその一つからまた無数の存在が広がってくる。
そんな悪夢のような無限のループを(もちろん、だからこそ読書することや学ぶことが面白いのだが)ここエルサレムで現実の世界として目の当たりにした。
知れば知るほど、無限に背景が広がってくる。
なぜこうなってしまったのか・・・
知ろうとすればするほど、その複雑さに頭を抱えることになる。
イスラエルは、「自分が本当は何もわかっていない」ということをこれでもかと突き付けてくる。
そういう厳しさがある国だったように私には思える。
もちろんそれを突き付けてくるのはイスラエルだけではない。
どこに行ったとしてもそうだし、日本で生活していてもそれは同じだ。
だが、改めてここイスラエルで頭と体を総動員してそのことを感じられたというのは非常に貴重な体験になったのではないかと私は思うのである。
さて、次に向かうは東欧。
アウシュビッツのある国、ポーランドだ。
ポーランド入国とクラクフ散策~旧市街とユダヤ人地区の街並み
2019年4月12日。
私はポーランドのクラクフという街にやって来た。
クラクフはポーランド南部の都市で、聖マリア教会を中心とする旧市街はコンパクトにまとまって非常に観光しやすい街として知られている。
クラクフは11世紀中ごろから16世紀末までポーランド王国の首都として栄え、プラハやウィーンと並ぶ文化の中心だった街だ。
そして、ポーランドの首都ワルシャワが東京に例えられるのに対して、このクラクフは京都に例えられる。
第二次世界大戦ではワルシャワがナチスによって壊滅させられたのに対し、クラクフは奇跡的に破壊を免れた。そのため中世からの古い町並みが現在も残っているというわけだ。
ホテルから出るとそこはすぐに色とりどりなヨーロッパらしい建物が並んでいる。
残念ながら小雨がぱらついている。
そしてものすごく寒い。5度にも満たない気温だ。
吹き付ける風が体を凍えさせる。
強烈な日差しと25度近くあったイスラエルとの差が心底身にこたえる。
だが、そんなどんよりした東欧クラクフの街並みも、それはそれでなんとも味わい深い。
こういう広場を目にすると、ヨーロッパにいることを感じさせられる。
旧市街の入り口からその街並みを見渡す。
ヨーロッパの古い町並みがここには残されている。
歩きながら私は思う。
「この街・・・いいな・・・」
はっきりしたことはわからないが、この街、なんとも絶妙なのだ。
まず、中世の街並みが美しい。
そして現代の生活ともうまく融合している。つまり、便利で快適。
さらに清潔。ごみもほとんど落ちていない。
おまけに、静かで落ち着いた街の雰囲気。
少し散歩しただけで自然と笑みがこぼれるような、そんな街だった。
旧市街の広場まで来た。
なんとそこには馬車が行列をなしていた。どれも立派な馬であり、堂々たる迫力。
石畳を闊歩する蹄の音が広場に響きわたる。
クラクフの象徴聖マリア教会
これが旧市街の中心、聖マリア教会。
この教会は1222年に建てられ、聖母マリアの祭壇が中央に飾られていることで有名だ。
建物の外にあるチケット売り場で入場券を購入する。
およそ300円ほどの値段だ。ポーランドは物価が安いので観光するのにも非常に助かる。
さて、聖マリア教会に入場してみよう。
外から見ても圧倒的な大きさだったが、中の様子は一体どのようになっているのだろうか。
そこには色鮮やかで豪華な世界が広がっていた。
中央の祭壇は残念ながら修復中であったが、それを取り囲む装飾の美しさも圧倒的だ。
一つ一つに恐ろしく手をかけているのがわかる。
そして特徴的なのは天井の高さだ。
首を限界まで反らさないと天井まで見えてこない。
壁面はステンドグラスで装飾され、外からの光がガラスの色を通して差し込んでくる。
天井は尖ったアーチ状をした形になっている。
天井に施された絵も精緻を極めている。
視線を横に向けると、大きな柱に沿って祭壇が供えられている。
目線と同じ高さにこれだけの装飾があると、なかなかの迫力だ。
エルサレムの時と違ってそれほど多くの観光客がいるわけではない。
そのため落ち着いて見学することができた。
先ほどよりも後方からの眺め。上の方にはイエスの十字架の像が飾られている。
そう。この教会は聖母マリアを崇拝する教会。
メインの祭壇に祀られているのは、イエスではなくイエスの母、マリアなのだ。
残念ながら修復中で中央祭壇のマリア像を目にすることが出来なかったが、イエスの十字架像との位置関係は非常に興味深い。
イエスが手前に来て、その奥の主祭壇が聖母マリア。
イエスを通してマリアを見るという構図。
まるで「イエスは聖母マリアのおかげでこの世に生まれることができた。マリアこそ私達の救いだ」と言っているかのようだ。
キリスト教は一神教だ。
よって、他の神様は祈ってはならない。
で、あるにもかかわらず神の子イエスよりも聖母マリアの方が人々から慕われるということがキリスト教圏では往々にして見られることなのだ。
私にとってこれは非常に興味深い。
一神教であるはずのキリスト教徒がイエス以外の存在にお祈りをしている。
また、聖母マリアだけでなく、「聖人」という形でも多くの人が崇拝されている。
最近の例だと、マザーテレサもその聖人の列に加えられている。
他にも、スペインではイエスの直弟子聖ヤコブが国の守護聖人として崇められている。それが世界的にも有名なサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼のきっかけとなったほどだ。
唯一なる神の他に、それぞれ得意分野を持った聖人がいる。
国を守る聖人、病気を治す聖人、学問の聖人、その他諸々の聖人が地方ごとに無数に存在する。
そして人々は自分の願いに合わせた聖人にお祈りするのだ。
ん?これはどこかで聞いたような話ではないか・・・?
そう。日本のお寺や神社の祈願と原理は一緒なのだ。
私はこのことが何より興味深い。
一神教というものの定義が壊れかねないこのあり方でもなお、やはり神を信じる一神教であるという懐の広い柔軟なあり方。
もちろんカトリックとプロテスタントでは解釈は異なるであろうし、同じカトリックやプロテスタント内でも考え方は分かれるだろう。
だがいずれにせよ、聖母マリア信仰が世界中で重要な位置を占めているのは事実に他ならない。
なぜ聖母マリアがそれほどまでに信仰を集めたのか。
私はまだ勉強不足なので正確なところはわからない。
ただ、イメージとして、威厳ある父親像である神、それに対して全てを受け止める慈悲深き母としてのマリア。
苦しみにあえぐ人々はどちらに慰めを求めるだろうかというのは、一つの鍵になるのではないだろうか。
聖母マリアの信仰は今後のテーマの一つとして日本に持ち帰ろうと思う。
※帰国後追記
ヨハネ・パウロ二世著『救い主の母』においてこの一神教と聖母マリアの関係性についてわかりやすく説かれていました。興味のある方はぜひご参照ください。
聖マリア教会の高層建築と鳴り響くラッパの音
引き続きこの聖マリア教会についてお話ししていこう。
改めて紹介するが、この教会は1222年に建てられ、塔の高さは82mにもなる堂々たる建築だ。
「まずは街に入ったら一番高い建物を探しなさい。その建物が街で一番大切にされている価値観を表します。」
そんなことをどこかで聞いたことがある。
旧市街で最も高い建物はこの聖マリア教会。
そしてこの教会を中心にしてこの街は作られている。
中世のクラクフにおいては、この聖マリア教会こそが最も大切にされていた「価値観」を提供するものだったのだろう。
つまり、「キリスト教の教え」ということだ。
では、現代の日本ではどんな建物が一番高いのか。
考えてみると、テレビ塔だったりビジネスビルといったところだろうか。
となると、「経済」が私達の住む現代日本では最も大切な価値観ということになりそうだ。
ちなみにかつての日本では大きなお寺や仏塔が一番背の高い建物だった。
奈良の東大寺や京都の東寺五重塔など、私達にも馴染みの深い建造物だ。
それがいつしか天守閣を具えたお城に変わり、現代ではビジネスビルに様変わりしていくのだ。
背の高い建物を見るだけで世の中の力の流れを知ることができる。
お寺は仏教、お城は武力、ビジネスビルは経済。
大雑把な見方ではあるが、「建物」という視点から歴史を見ていくのも興味深い。
さて、82mもあるこの聖マリア教会の塔、前もって予約すればそこに上ることができる。
というわけで私も4時間後に空きがあったので、その時間に合わせてまた戻ってくることにした。
塔の下の小さな入り口からひたすら階段を上っていく。
他の参加者も息が上がっている。私も足がぱんぱんだ。
すると、外の景色が見渡せるスペースにようやくたどり着く。
そこからは旧市街の広場を一望することができた。
かつてはここから敵の襲来を監視し、敵襲に備えていたということらしい。
それに伴って、クラクフ名物のラッパの物語がある。
かつてモンゴル軍がこのクラクフまで押し寄せてきた時に、敵襲を告げるラッパの音をここから吹き鳴らした。
しかし、モンゴル兵がこの哀れなラッパ吹きを弓矢で射抜いてしまい、彼はそのまま息を引き取ることになる。
その出来事を悼んで、今でも1時間ごとにこの塔からラッパの音を吹き鳴らすというのが伝統になっている。
実際にその時間に塔の前で待ち構えてみると、たしかにラッパの音が聞こえてくるではないか。
どこからかと探してみると、塔の上部の窓が開いていて、そこにラッパの先が見える。
これがクラクフ名物のラッパの音色である。
ラッパの物語もさることながら、私からすればモンゴル軍がこんな東欧の地まで押し寄せていたというのも驚きだった。
塔の上のスペースではおそらく今現在ラッパを吹くことを任されている方々の写真が飾られていた。
きっとものすごく名誉な任務なのだろうと思う。
クラクフにお越しの際はぜひ、このラッパの音色に耳を傾けてみてはいかがだろうか。
『シンドラーのリスト』で知られるクラクフのユダヤ人街へ
さて、旧市街を抜けて今度はカジミエシュ地区と呼ばれるユダヤ人街へと向かっていく。
クラクフには多くのユダヤ人が戦前まで暮らしていた。
しかしナチスドイツによるホロコーストでその生活も終わりを迎える。
映画『シンドラーのリスト』の舞台になったのもこの街だ。
そして戦後、ユダヤ人街だったこの街には住む人もいなくなり荒廃していたそうだ。
しかし現在、おしゃれなカフェやショップが軒を連ねるようになり、若者が集まるスポットとして生まれ変わっているとのこと。
歩いてみると、たしかにカフェやショップが多いことに気づかされる。
そして、シナゴーグの存在にも。
シナゴーグとはユダヤ人の祈りの場だ。
右の建物にユダヤ教のシンボル、ダビデの星が描かれているのがわかる。
この街最古のシナゴーグ、スタラ・シナゴーグは現在博物館として利用され、当時のユダヤ人の生活の様子を展示していた。
『シンドラーのリスト』にせよ、エルサレムのホロコースト記念館で見た映像にせよ、この時代の映像はほとんど白黒で撮影されている。
『シンドラーのリスト』は戦後の映画だが、多くのシーンを白黒で撮影している。
そのシーンがとても重々しく見えたのをぼくは覚えている。
戦前、そして戦後間もない時の映像は白黒だ。
だが、私が生まれて物心ついたころには、テレビはすでにカラーの時代だ。
白黒の映像となると、急に時代が違うように感じられて別の世界のように感じてしまう。
つまり、今ある私達の生活とは離れた、「歴史」という範疇にその映像はくくられてしまうのだ。
だから、あまり実感が湧かない。今の自分とつながった同じ世界のこととは思えない。
だが、この街を歩いていると様々な色彩が私の目の前に飛び込んでくる。
『シンドラーのリスト』の世界が色を持って私の目の前に現れてくるのだ。
色の存在が私の思いを呼び立てる。
ここで私と同じように生きて、生活していた人がいた。
そして悲劇に巻き込まれ、命を落としていった人がたくさんいたのだと。
歴史を見守ってきた中世の街並みが、そう私に語りかけてくるようだった。
さあ、これから私はアウシュヴィッツへと向かう。そこで私は何を思うのだろうか。
続く
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