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家庭料理のグルーヴ感はまさにライブ
料理に正解はない、よね?
最近は包丁とまな板を使うのが面倒なので、カットされた生の野菜を買ってきて毎日似たようなものを作っている。
野菜に肉と豆腐を加え、醤油、味醂などで煮て完成。
これで日本酒を2合飲む。
締めはきしめんを入れて、これで焼酎を半合飲む。
栄養的には問題ないはずだし、酒量も許容範囲じゃないかなあ。
それで全般的に思うこと。
家庭料理だから、重視するのは安定した品質よりも、その日の気持ちといかにシンクロするかだと思っている。
パンキッシュだったりブルージーだったり、その日の気分に寄り添うライブ感が重要だと思う。
そこに何が宿るのか?
パックされた完成品の惣菜は便利だけれど、食べ物に本来宿るべき生命力が足りないように感じる。
対して家庭料理は動的な過程そのものが直に完成品に反映される。
当初の手順は時として変更になるし、アドリブは当たり前、縦ノリ、横ノリを自在に行き交う。
そのグルーヴ感が出来上がりの料理に生命力を与える。
すべてのクリエイティブな行為がそうであるように、問題は作る側にエネルギーが必要なことか。
だから年老いた人達は料理から遠ざかってしまう。
クリエイティブという観点では、料理だけではなくて家事全般がクリエイティブな行為かもしれない。
つまり、食べて排泄して眠って目覚めて清潔に暮らすこと、それらを維持する作業のすべてが。
問題はクリエイティブな作業を苦しみではなく楽しみとして、どう生活の中に配置していけるかで、それは人それぞれなんだろうけれど、私の場合、最終的に晩酌できればどうでもいいので、その点は単純な人間で良かったと思っている。
お盆だし、人間として生きることの根本を少し考えた2024/8/13の夜。
それはそうとして、酔った後の洗い物だけは面倒だ。
これもまた家事なんだけど、晩酌の後だけになんかなあ、、、洗うけど。