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Ⅰー41.文献篇(3)デーヴィッド・チャノフ、ドアン・ヴァン・トアイ著『「ベトナム」 戦争でのその人々の肖像 向こう側を理解するー将軍・農民・僧侶・ゲリラ・幹部・犠牲者の言葉におけるベトコンと北ベトナムの経験』(1996年)
文献篇(3)デーヴィッド・チャノフ、ドアン・ヴァン・トアイ著『「ベトナム」 戦争でのその人々の肖像 向こう側を理解するー将軍・農民・僧侶・ゲリラ・幹部・犠牲者の言葉におけるベトコンと北ベトナムの経験』(1996年)
David Chanoff and Doan Van Toai, ' VIETNAM ' A Portrait of its People at War Understanding the other side - the Vietcong and North Vietnamese experience in the words of generals and peasants, monks and guerrillas, cadre and victims, L.B. Tauris & Co Ltd, New York, 1996. 全215ページ。
Ⅰ.著者について
本書はアメリカ人とベトナム人の二人の共著である。デーヴィッド・チャノフはアメリカ人の国際問題に関する著作家でブランデイス(Brandeis)大学で教鞭をとっていた。
もう一人のドアン・ヴァン・トアイは1945年にベトナム南部のヴィンロン(Vĩnh Long)生まれ。本ブログの文献篇(1)でインタビュイーとして登場している。ベトナム戦争中は南部の学生反戦運動家として活動し、当時のティエウ政権によって投獄されている。ベトナム戦争終結後、彼はベトナムにとどまり、臨時革命政権のスタッフとなったがほどなくして意見の対立で辞職し、その後、28か月間投獄された。1978年にベトナムを出国しフランスに渡った。本書出版時はアメリカに在住。
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トアイの最初の著作は在仏当時に出版した『ベトナムの強制労働収容所(le goulag vietnamien)』(1979年)で、共産主義者からの転向をつづった彼の自伝的作品である。この本はフランス語で書かれ、その後ドイツ語版が1980年に出された。英語版はデーヴィッド・チャノフなどの支援により1986年に出版された。第二作目は『いかに北は南に共産主義を押し付けたか(on how the North imposed Communism on the South)』。その間、彼はチュオン・ニュー・タン(Truong Nhu Tang)が『ベトコン・メモワール(Mémoires d'un Vietcong)』(1985年)を執筆するのを手伝った。第三作目は、1986年秋に実施した多数の元「ベトコン」などへのインタビューをもとにした『敵の肖像(Portrait of the Enemy)』(1986年)である。
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『敵の肖像』が1996年になってタイトルが変えられて『「ベトナム」 戦争でのその人々の肖像』として発行された。したがって本書は元々は1986年に出版されていたものの復刻である。ただ1995年の米越国交樹立などを反映してか、タイトルから「敵」という言葉が外されている。
Ⅱ.本書の構成
以下では、本書の構成を筆者なりにまとめて紹介する。
導入
●革命ベトナムは単一体ではなく、複雑性・多様性をもつ。
戦争中のプロパガンダ・アートは単一の意志をもつ社会だと描こうとし
た。西側でもたれている一般的イメージも、献身的で単一の精神をもつ
社会というものだ。しかし実際は異なる。さまざまな政治的・社会的・
エスニック的グループがあり、戦争の考え方も異なる。革命が求めてい
た理想主義、勇敢さ、不屈さとともに、幻滅、シニシズム、家庭内コン
フリクト、精神的トラウマもあった。
●「向こう側」である「ベトコン」と北ベトナムのオーラル・ヒストリー
聞き取りは、ベトナム国外に在住の元「ベトコン」・北ベトナム軍に限
定した。ベトナム国内での聞き取りは公平無私さを欠くおそれがあり、
またベトナム難民が多く流入しインタビューしやすかったという背景も
あった。
●オーラル・ヒストリー(First-person histories)の問題
語り手が潤色したり、隠し立てしたりするし、記憶は曖昧で変わりやす
い。証言は科学的・客観的ではなく、個人的見方にすぎない。しかしフ
ァースチハンドの直接性をもち、インパクトがある。ヴィヴィッドな経
験を伝えようとし、同時にインタビュアーとインタビュイーの文化的裂
け目を乗り越えようとするものである。
●本書の証言者
本書のインタビュイーの全員がベトナムを出国し、アメリカもしくはフ
ランスに在住している人である。しかし彼らの政治的考え方は多様で、
多くは共産党に批判的であるが、なかには共産主義を依然として信奉し
ている人もいる。
本書の証言者には上記のインタビュイーのほかに、『ニャンザン』紙の
ようなベトナム国内の公刊物から採録したものや、捕虜の尋問記録も含
まれている。尋問記録は断片的な情報は取れるが、本書が求めているパ
ーソナル・ナラティブにはなっていない。
●本書の構成
3部構成。①いかに、なぜ彼らは戦争に関与したか、②戦時の経験、③
闘争への結論。以下の3人が3部を貫く主軸となる主要登場人物。
・スアン・ヴー:従軍記者、プロパガンダ・チーフ、作家。1945年から25
年間の革命キャリアをもつ。1969年に革命から離れる。
戦後、渡米。
・グエン・コン・ホアン:南ベトナムの学生活動家。1971年、フーイエン
省選出の国会議員になる。野党の一員としてサ
イゴン政権と闘う。戦後、祖国戦線に選ばれ、
統一国会の議員になる。1976年7月、出国。サ
イゴンとハノイの両方の国会議員となった唯一
の人。
・チン・ドゥック:海南島生まれの中国系。第2次大戦中に共産主義運動
に参加。1948年にサンゴンに移住し、ベトミンの都市
組織者に。1954年、党の地下組織として南部に残る。
その後、10年間投獄される。釈放後、南部中央局、ロ
ンカイン省の村書記として戦時をすごす。
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第1部:選択
◆スアン・ヴーの話:抗仏戦争
南部のミト出身。ジュネーブ協定後、北部に集結。
◆グエン・コン・ホアンの話:南部で成人になる
フーイエン省出身。仏教徒の反政府活動に加わったとしてジェム政権に
よって2か月投獄される。
◆グエン・ティ・ティ(グエン・コン・ホアンの妻):獄中のホアン
◆チン・ドゥックの話:地下にて
中国の海南島出身。1940年代後半、南ベトナムに逃れる。1952年、ベト
ナム労働党(現共産党)に入党。
●レ・ヴァン・チャー(ベトミンの伝令):いとまごい
1954年の後、北部に集結せず南部に残り、サイゴン政府の地方役人にな
る。テト攻勢の直前、北部に集結していた兄とクチで密かに会う。テト
攻勢で兄は死亡。
●フオン・ヴァン・バー(北ベトナムの人民軍大佐):北に行く
ジュネーブ協定後、北部に集結。1964年に南部に出征。
●チュオン・ニュー・タン(臨時革命政府司法相):ホーおじさんと会
う
南ベトナム民族解放戦線の設立者の一人。戦後、フランスに亡命し、
『ベトコン・メモワール』を出版。
●チャン・ヴァン・チャー(南部解放軍上将):ホーおじさんの別れの言
葉
1982年に出版した本があまりに南部志向的だとして差し止められる。
●ホアン・ヒュウ・クイン(技師):木を育てる10年
クアンチ省生まれ。ジュネーブ協定後、10歳で北部に送られる。
●ティック・ザック・ドゥック(反政府運動指導者):仏教とカトリッ
ク、始まり
北部ハドン省で出家。父はベトミンに殺された。ジュネーブ協定後に南
部へ。約30万人の仏教徒も南部へ。彼らは再定住地についてカトリック
ほどの待遇を受けられなかった。1958年、ティック・チー・クアン
(Thich Tri Quang)、ティック・ドン・ハウ(Thich Don Hau)らと反
ジェム運動を始める。
●青年突撃隊と徴募兵(ここの部分は捕虜の尋問調書の記録から)
・グエン・タン・タイン(南部解放軍上尉)
南部ロンアン省出身。小作農。1961年、解放戦線の勧誘により35歳で
解放軍に参加。
・ファン・タイン・ロン(人民軍隊軍曹)
米軍介入の脅威の下、徴兵される。党幹部の子弟は徴兵されず、外国
留学へ。死傷者数は公にはされず。
・グエン・ヴァン・ホアン(人民軍隊少尉)
ハノイ出身。父は文化相。教師をしていたが、1967年に婚約者を米軍
の空爆により亡くし、人民軍隊に志願。「膨大な犠牲」が出ていた時
なので、高級幹部だった伯父たちは反対した。
・ブイ・ヴァン・ビン(人民軍隊軍曹)
ハノイ出身。1歳年をごまかして15歳で青年突撃隊入隊。同隊は約9
割が地主・ブルジョアの子弟。3年勤務で悪い履歴が修復された。各
都市に1個大隊約500人。主な任務は空爆を受けた後の都市の後始
末。ハノイ市には2個大隊。第51大隊と第49大隊。前者は女性部隊
で浮き橋建設に従事。後者は男性部隊で道路修復。北爆の一時停止後
(1968年3月)、南部出征の軍隊に加わる。
・グエン・ヴァン・フン(人民軍隊兵士)
ハイズオン省出身。一人っ子で兵役が免除されていたが、1967年、南
部の緊迫した情勢により、18歳から35歳がみな徴兵されることにな
り、1968年に28歳で入隊。妻子がいた。フンの村では1962年から約
100人の青年が出征したが戻ってきた人はいなかった。1968年4月か
ら8月にかけて訓練を受けたが、訓練の3分の2は政治学習。第一の
内容はアメリカとの戦い、国を救うという内容。アメリカ帝国主義の
下で惨めな状況にある南の人々を解放する任務があるとされた。第二
に階級闘争。階級差別がなくなるように、アメリカ帝国主義と封建主
義の支配から南部を解放する。このような訓練を受け、部隊は士気が
上がり、熱気につつまれた。
●グエン・ティエン・ロック(歌手):北部の華人
タイの難民キャンプでインタビュー。1978年の中国系への迫害で出
国。タイビン省出身。戦争の初期、戦争への情熱と南部を援助してい
るという自負が人々にあったが、1968年には消沈し疲弊した。特にテ
ト攻勢後。中国系は徴兵されなかったので、軍隊には入らず、歌手を
目指した。
●レ・タイン(機械技師):北部で成人になる
アメリカ移住の成功例。父親は工場労働者。ハイフォン市に住む。ピ
オニールや共青団で活動。1965年に生活環境は悪化し、薬品が病院な
どでも不足し、伝統的薬草に頼るようになる。1966年に大学を卒業。
戦争世代で「北に生まれて南で死ぬ」といわれ、高卒の友人の多くは
戦死したが、私は戦闘に行く気がなく、「a half-way element」に区分
され、ハイフォンの大工場に配属された。徴兵を拒否した人は、配給
のお米をカットされた。徴兵を忌避する場合、肉体を自傷させるか、
医師にニセの診断書を書いてもらうか、徴兵担当の役人を買収するか
した。これらはハノイ、ハイフォン、ナムディンといった大都市では
より容易だった。そのため北ベトナム軍の大部分は農村出身者となっ
た。
●グエン・ゴック・オアイン(レ・タインの妻):お針子
父はハイフォンで有名なテーラー。1956年から学校に通ったが、
1964・65年頃から政治学習が増えた。1965年から疎開。戦後、出国し
たのは夫の考え。
●チャン・スアン・ニエム(人民軍隊少尉):あなたの顔をそのままにし
ておく努力
ハノイ出身。南部に出征した時、ホーチミン・ルート沿いに多数の人民
軍隊兵士の墓があるのにびっくりした。また北に搬送される重傷者のグ
ループとよくすれちがった。
●グエン・チョン・ギ(人民軍隊小隊政治員):今後の自分
南に行く途中、北へ行く重傷者のグループによく会った。
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第2部:闘争
南部は1963年11月までジェム政権。北部では社会主義体制固めがなされる。土地改革では地主に分類された人は4万人にのぼる。1959年からホーチミン・ルート建設に着手。最初の数年、ルートを踏破しようとした人の50%は途上で死亡。踏破には5・6か月かかった。1968年のテト攻勢では「ベトコン」の犠牲は50%にのぼり、1970年以降、北部からの兵士が増えた。
◆スアン・ヴーの話:北部にて
従軍記者でプロパガンダ・チーフは北部に集結。コルホーズ(国営農
場)の多くはヴーのように「集結」した南部人。ほかにフランスの監獄
の囚人だった人。三番目に地元農民だった。
◆グエン・コン・ホアンの話:野党のなかで
ニャチャンの監獄から釈放され、サイゴンの大学に戻り、より戦闘的に
なった。1969年に物理・化学の修士号取得。1971年、仏教青年運動の支
援を受け、フーイエン省から国会議員選挙に立候補し当選。野党は変革
をもたらすことはできず、ジュネーブ協定遵守の立場で、「第三勢力」
に参加し、平和的・民主的な選挙によって南部の未来を決定すると考え
る。1974年なかばまでには希望を失う。
◆グエン・ティ・ティ(グエン・コン・ホアンの妻):国会議員の妻
◆チン・ドゥックの話:村長
ベトミンの武装勢力の多くは北部に「集結」したが、党の地下組織網は
残された。チン・ドゥックは北ベトナムで暮らせると喜んだが、サイゴ
ンに留まることになり最初はがっかりした。23歳から獄中。1964年に釈
放され、南部中央委員会に行き、中国語委員会に勤務。1967年、多くの
農民が中国系だったロンカイン省で工作。テト攻勢後、戦況は悪化。
1970年末になり持ち直した。
●レ・ティ・ザウ(チン・ドゥックの妻):ベトコンの看護婦
1965年末・66年初に南部中央局で訓練を受け、その後、看護婦に。
●ナム・ドゥック・マオ:死亡通知
夫は漁民。中国系のため徴兵されず。1968年から、村の青年たちは南部
に送られた。出征しなければ配給が打ち切られた。姉の夫は出征した。
母は裁判所の役人をしていたので当局の知り合いから姉の夫の戦死を知
った。母は私には話したが、これは戦死公報が届くまで、誰にも言って
はならなかった。人々の士気を下げ、反国家的だとされるからだ。時
折、夫の戦死を妻が知ってしまうことがあったが、おおっぴらに声を上
げて嘆き悲しむことはできなかった。
●ハン・ヴィー(音楽学研究者、文化幹部。中国系):単一の意志
抗仏戦争中、宣伝・文化幹部として南ベトナムの至る所に行く。その
後、北部へ集結。土地改革の頃。1960年、上海の音楽学院へ。1966年に
帰国し、ベトナム音楽学院の政治委員に。中国系と政府との間の緊張は
1972年に始まった。パリ協定後、54歳以上の中国系の幹部は退職を迫ら
れた。1975年までに党中央委員から親中派を排除。音楽学院での職務も
制限され、中越戦争が勃発すると公安から「出国の時がきた」といわれ
た。
●ホアン・ヒュウ・クイン(技師、学校経営者):血の負債
10歳の時に北ベトナムでの土地改革における地主処刑を目撃。
●フイン・リエム(アーチスト):北部の生活
1954年、17歳で美術学校入学。1962年に卒業し、デザイナーなどの仕事
に従事。中国系なので徴兵されず。1972年にハノイで小さな写真店を営
む。1972年以降、配給は減らされ、ひと月一人当たり、お米5キロ、小
麦粉7キロに。妻はベトナム人で夫婦間・両家間で問題はなかったが、
1970年に最初の反中キャンペーンが始まった。生活は苦しく、希望がな
くなった。
●爆撃
北爆は1964年8月4日から始まり、1968年3月に一時停止された。アメ
リカは、1972年春の北ベトナムの攻勢に対抗して北爆を再開し、パリ和
平交渉で北ベトナムに圧力をかけるため、同年12月にハノイとハイフォ
ンに12日間にわたる空爆をおこなった。兵士の間の恐怖と一般人の間の
恐怖と憎悪という心理的インパクトを与えた。
・グエン・ヴァン・モ(人民軍隊曹長):攻撃下のハノイ
初期は限定的に軍事目標を空爆していたが、後に米軍機は到る所を空
爆するようになった。
・チャン・ヴァン・チュオン:ハイフォンでの爆撃
1967年夏、15歳の時に経験したハイフォン市での爆撃。
・リチャード・ストラトン司令官の生け捕り
空爆中に撃墜され、パラシュートで脱出し、生け捕りにされた米空軍
パイロット。
・グエン・ヴァン・タイン(人民軍隊中尉):防空砲兵中隊
1968年8月19日はわが部隊にとって最悪の日。F-4HとF-105の攻撃を
受けて、任務についていた52人中40人以上が戦死した。
・ヴァン・アイン(人民軍隊兵士):アメリカ人パイロットの生け捕り
1964年6月、ラオスで米軍パイロットを生け捕りした人民軍隊の歩
兵。『ニャンザン』の記事から。
●ティイク・ザック・ドゥック:仏教とカトリック、対決
1960年代初頭、南ベトナムではジェム政権と仏教勢力が対立していた。
この時期、ティック・ザック・ドゥックは仏教運動の政治戦略家の一人
として活動。1960年に「弘法評議会」を設立。ティック・チー・トゥー
(Thich Tri Thu)が議長、ティイク・ドン・ハウ(Thicu Don Hau)が副
議長。反共、反政府(ジェム政権は政治的動員のためカトリックを利
用)の運動を展開。
1963年にフエで仏教旗事件。ティック・チー・クアン(Thich Tri
Quang)を指導者とする反政府運動がフエでおきる。サイゴンではティ
イク・タム・チャウ(Thich Tam Chau)、ティック・ドゥック・ギエッ
プ(Thich Duc Nghiep)と私がリーダーとなって展開。北ベトナムのヴ
ォー・グエン・ザップ国防相から支援の電報が送られてきたが、「あな
たがたには無関係」と返答。6月にはティック・クアン・ドゥック
(Thich Quang Duc)が焼身自殺。これにより南ベトナム政府はフエの
トゥーダム寺の包囲を解き、仏教側の要求をある程度のんだ。しかし8
月には第二の運動が始まり、そのなかで私は逮捕された。
●ホーチミン・ルートにて
南部への浸透ルートとして1959年8月20日に開通。人民軍隊の第301師
団が建設に従事。以下の内容はすべて『ニャンザン』の記事から。
・ホーチミン・ルート
『ニャンザン』の1984年11月22日付けの記事から。
・グエン・ザイン:ホーチミン・ルート開通
1959年5月、第301師団はヴィンフー省に駐屯。同師団はジュネーブ
協定後に北部に「集結」した南部の人から成っていた。5月末、特別
部隊が軍事境界線地方へ。6月10日、ベンハイ川を渡る。8月20日、
第5軍区の党支部に最初の武器・弾薬を運ぶ。次の3年間、我々はジ
ャングルに住み、道路を準備。
・サウ・トゥオン(人民軍隊政治員):母国への道
1959年、私はホアビン省に駐屯していた第B38師団に属していたが、
この師団の兵士は1954年以後に北部に来た南部人。28人が選抜されて
南部に行く最初の部隊の一つに。最初、ホアビンで訓練。ホーおじさ
んをはじめ党・政府の最高幹部たちが視察に来た。11月に出発。ナム
ディン、タインホアからチュオンソン山脈に入った。各人は30キロの
荷物を背負った。黒パジャマと薬品のほかは、ほとんど武器・弾薬だ
った。これらは北部から南部への最初の銃だった。組織作りのため黄
金も持って行った。大変な苦労をして南部に到着。1961年7月、北部
から来た28人は南部における最初の正規の歩兵大隊を形成するグルー
プとなった。
・フオン・ヴァン・バー(人民軍隊大佐):ホーチミン・ルートを南下
ジュネーブ協定後に北部に「集結」した南部人。1964年5月24日に南
部に向けて出発。45人のグループ。トラックでラオス国境まで。そこ
で北ベトナムの服装を南ベトナムの服装に変え、徒歩。多くの人がマ
ラリアで死ぬ。8月後半にタイニン着。1965年にサイゴン・ザーディ
ン地区に。敵に対する憎しみと南部の抑圧された人々を解放するとい
う高尚な目的への献身をもって、私たちは自分の国を守り、侵略者を
懲罰する。私たちは戦うための信念をもち、この信念は効果的なプロ
パガンダによって強化された。軍部の司令部と党委員会との摩擦もあ
った。テト攻勢の時がその一例で、軍部は反対だった。テト攻勢後、
兵員不足、士気低下に陥った。多くの兵士が郷里に戻り、ゲリラにな
った。北部でも徴兵拒否が増えたそうで、それらの人々は労働・輸送
部隊に送り込まれた。アメリカが撤退するかもしれないというニュー
スで解放勢力側は息を吹き返した。私は1970年5月に捕虜となった。
●ドンソアイ(Dong Xoai)の戦い
1965年春、北部からの浸透は米地上軍の介入にぶち当たった。戦争は新
しい局面に移った。人民軍隊のグエン・チー・タイン大将は、ゲリラ戦
に補完して、通常の大部隊の対決を唱えた。ドンソアイは解放軍の大き
な正規部隊が南ベトナム軍に対して投じられた最初の戦場の一つ。証言
は、あるベトコンの戦争回顧録から。
・ヴー・フン:ドンソアイの戦い
攻撃は6月10日に始まった。主力軍は第Q762連隊。あと第Q761連隊
と第Q763連隊。ドンソアイ市を制圧するも大きな被害。
●地雷工兵
グエン・チー・タイン大将の死後(1967年)、解放軍は消耗戦にシフ
トした。リスクを最小にしてできるだけ敵を殺傷する目標に転じた。そ
のための特別作戦が地雷敷設。以下の地雷工兵の証言は捕虜の尋問記録
から。
・グエン・ヴァン・モ(第40地雷工兵大隊曹長)
・ホアン・タット・ホン(軍曹)
・ヴァン・コン・ヴァン(ベンチェー省の特別作戦の中隊指揮者)
・スチュアート・ヘリングトン大尉(アメリカ側):彼の回顧録から
●ベトコンの暗殺
テロは南ベトナム政府の地方行政を不安定にし、弱者を威嚇し、強者を
除去する効果的武器だった。暗殺も、サイゴン政府側に逃亡することを
考えているかもしれない革命側兵士の規律を維持するために使われた。
以下は、ベトコンの暗殺者の尋問記録から。
・グエン・ヴァン・ティック:ベトコンの暗殺者
南ベトナムの政府役人を暗殺・拉致することは南ベトナムをより早く解
放することになると説明された。政府の基盤を破壊することは、党が
人々を戦闘に動員するのに役立つだろう。サイゴン政府に寝返った人
(Hoi Chanh)の処刑は最高の優先順位が与えられていた。
●ブイ・ヴァン・タイ:B-52の空爆
●チャン・ヴァン・チャー(人民軍隊上将):戦場についての感懐を述べ
る。仲間
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第3部:決意
◆スアン・ヴーの話:南部に戻る
1964年までに南部への正規の補給線ができ、兵士・医療関係者・ジャー
ナリスト・アーティストなどがそこを通って行った。ヴーは1965年にチ
ュオンソン山脈を越えて南部に戻る。(筆者注:彼は1968年に南ベトナ
ム側に寝返る(hồi chánh)。1975年に渡米。2004年に米テキサス州
で死去)。
◆グエン・コン・ホアンの話:共産主義者の議会
戦後、南ベトナムの野党の国会議員だったので、改造キャンプに行くの
は免れた。サイゴンでの短期の改造コースのみ。その後、郷里に戻っ
て、高校で化学・物理を教える。1976年5月、フーイエン省祖国戦線に
呼び出され統一国会の選挙に立候補することになる。サイゴン政権時代
は2議席を20人で争ったが、今回は11議席を12人で争った。11位で当選
し、ハノイでの7月の国会に出席。第2回は1977年初に開催されたが、
それまでには船で出国することを決心していた。
◆グエン・ティ・ティ(グエン・コン・ホアンの妻):欠席死
夫は先に出国した。裏切りの罪で夫は欠席裁判された。私たちも約1年
後に出国した。
◆チン・ドゥックの話:粛清
解放後もヴンタウの党支部にとどまった。1977年、カンボジアとの衝突
がおこると、中国系に対するキャンペーンが始まった。1979年には中国
に対する悪い噂話が広められた。出版物ではなく。長年、親しく付き合
ってきた人がよそよそしくなった。「中国人の裏切り者」を非難するキ
ャンペーンも始まった。1977年末に、中国語委員会の上司は出国を求め
られた。中国人幹部はスパイとして逮捕された。40年以上、革命活動を
して勲章をもらった伯父も逮捕された。反中キャンペーンはヴンタウの
党支部での粛清となった。私は出国を決意した。
デーヴィッド・チャノフによるあとがき
◆インタビュアーが乗り越えなければならない壁
●インタビュイーが率直に話さない
大半の難民は共産主義に反感をもっているので、あちら側にいた難民
の多くは、直接的報復を恐れた。またベトナムに残してきた親族に危
害が及ぶのを恐れた。そのため戦争中に重傷者を収容した孤絶したキ
ャンプの看護婦の話や、残された兵士の家族、特に妻に精神分裂症が
広まっていたという北ベトナムの医師の話は収録できなかった。
また後悔や転向をおおやけにしたくない心理も見受けられた。
●インタビュアーとインタビュイーの文化的違い
アメリカでのインタビューはデーヴィッド・チャノフによっておこな
われたが、アメリカ(人)とベトナム(人)の文化的な違い。
アメリカ人はフランクでオープンであるが、ベトナム人は秘密的。
また、アメリカ人のようにファクトとディテールを好まない。
さらに、チャノフが男ということで、ベトナム女性とはすぐにはイン
タビューができなかった。
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おわりに
◆本書は、「ベトコン」や北ベトナムといった「向こう側」を理解しようとしたものである。その点はおおいに評価できる。また「向こう側」の実態は英雄的で単一の意志社会といった一枚岩ではなく複雑で、負の面も多々あったことを掘り起こしてい点もである。ただ、これは著者が「向こう側」に対し批判的な眼差しをもっていたからである。しかし1986年の初版ではタイトルで「敵」としていたのに、1996年版では「敵」は削除するにいたったのは、時間の経過と1995年に米越国交樹立されたことの影響があるのではないかと思われる。
◆本書で主軸となった3人およびティック・ザック・ドゥックなどの旧南ベトナム出身者はとても興味深い。旧南ベトナムの歴史をしる上でも貴重である。
◆本書でインタビューした「ベトコン」や北ベトナムの人々は、インタビュー時、アメリカやフランスなどに難民として出国した人々である。そのため彼らのインタビューの基調は、革命へのほろ苦い幻滅である。北ベトナム側の将軍や兵士の記事は、ベトナム国内でのインタビューからではなく、ベトナム国内の公刊物とベトナム戦争中の捕虜尋問調書から取られている。
戦争についてのオーラル・ヒストリーで捕虜尋問調書が利用されるのは珍しくないのかも知れない。しかしオーラル・ヒストリーはインタビュアーとインタビュイーの「対話」「共同作業」であり、客観性は別として、「ナラティブ」性が重要視される。捕虜尋問はそういった性格とは異なるものだと考えられる。
◆本書の証言者には華人が複数含まれているのが貴重である。チャン・ドゥックのような共産党員活動家であった人もいれば、北ベトナムでは華人は徴兵されなかった。1970年代後半の華人迫害では、ベトナム当局は文書にその証拠を残さないような努力をしていたふしがあるので、オーラル・ヒストリーの重要さがあらためて確認される。
◆本書の導入とあとがきで、オーラル・ヒストリーの方法論的考察がされているので参考になる。
(了)