Ⅰー35. ベトナム戦争終結後に「入信」した退役軍人・元青年突撃隊隊員たち:北部タイビン省、※番外編:2人の大物スパイ
ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(36)
★2018年12月26日:タイビン省のタイビン市とヴートゥー(Vũ Thư)県ヴー
ホイ(Vũ Hội)社
見出し画像:ベトナム社会主義共和国・国家評議会がトゥーさんに授与した
抗戦勲章の証書。(筆者注:実名部分には付箋を貼りました)
はじめに
今回は、前回(Ⅰー34)で紹介した調査日程中に訪れた北部タイビン省の2か所での聞き取り調査の報告である。1か所はタイビン市内にあるⅠー33. で取り上げた「明師道」の信者の集会所で信者4人(男2人、女2人)に聞き取りした。もう1か所は同省ヴートゥー県ヴーホイ社にある普光寺(chùa Phổ Quang、通称コイケー寺 chùa Cọi Khê)にて2人の尼僧と1人の「明師道」信者に聞き取りした。7人の概要は以下の通り。記載は名前、性別、生年、入隊年、除隊年、入信年、の順となっている。このうち、ハー(①)、サン(④)、ダン(⑦)の3人は軍隊や青年突撃隊に入隊したのがベトナム戦争終結後の世代となる。
1.ハー、男、1966年、1984年(軍隊)、1988年、2011年頃(明師道)
2.ティン、男、1950年、1968年(軍隊)、1972年、2005年(明師道)
3.トゥー、女、1942年、1965年(青年突撃隊)・1977年(軍隊)、1975
年(青年突撃隊)・1980年(軍隊)、1981年(明師道)
4.サン、女、1954年、1977年(青年突撃隊)、1981年頃、1995年(明師
道)
5.フオン、女、1947年、1965年(青年突撃隊)、1972年、1982年(仏
教)
6.ニュアン、女、1947年、1966年(国防労働者)・1967年頃(青年突撃
隊)、1967年頃(国防労働者)・1968年頃(青年突撃隊)、1991年頃
(仏教)
7.ダン、女、1952年、1977年(青年突撃隊)、1980年頃、?(明師道)
タイビン省は、2019年の人口調査によれば、総人口が186万人で、宗教人口はカトリックが11万6630人、仏教が5万2671人、プロテスタントが205人とされている。同省は、Ⅰー33. 「カオダイ教の源流『明師道』とベトナム戦争」でもご紹介したように、ベトナム北部では明師道の信者が比較的多いところである。
1.明師道の集会所(タイビン市)にて
(1)ハー(男、1966年生まれ):中越戦争の兵士
私は1984年に軍隊に入った。中国との戦闘は続いていた。防空レーダー部隊の目視隊に配属された。部隊は第377師団所属で師団司令部はハノイにあった。イエンバイ省で訓練を受けた後、最前線のハザン省バッククアン(Bắc Quang)県に赴任した。主な任務は目視で敵の偵察パラシュート(小気球)を監視することだった。それは低空で飛び、金属ではないので、レーダーでは捉えられなかった。敵の目的はそれによって我々を攪乱することだった。数か月に一度は飛来してきた。我々はそれを撃ち落とした。
レーダーは1000キロ以上を捕捉でき、南中国をカバーしていた。レーダー機器の訓練をしたのは全員ベトナム人教官だったが、機器はすべてソ連製だった。山の中に小屋を建てて、そこに駐屯していた。食糧が安定的に補給されなかったので、空腹を抱えた時もあった。部隊で森を切り開いて、食糧生産にも携わった。中国軍のレンジャー部隊兵士がこちらに浸透してきた時もあった。
中越国境の戦闘では、ベトナム軍は空軍を使った。しかし物資の輸送に使用しただけで、戦闘に使用したわけではない。幾つかの地上ルートは、敵によって橋が破壊されていた。そのためヘリコプターを使って、武器・食糧・医薬品を補給せざるをえず、我々はそれらの航空機の誘導をした。
戦争中、衣服・食糧と毎月5ドンが支給された。5ドンでは歯磨きと石鹸が買えるだけだった。
3年間そこにいて、1988年に除隊した。帰郷し、ふつうに働いた。1993年に結婚し、2人の子どもができた。田舎者なので乱れた生活でよくないことが多くあり、入信した。在家で修行して7・8年になる。その間、ドンフン(Đông Hưng)県のアンバイ(An Bài)寺でも修行した。何か用事があったり1日と15日にはアンバイ寺に行く。妻は入信していない。子どもは大学生で、今は夫婦の二人暮らし。私は長いこと、精進潔斎しているが、妻と一緒に食事している。妻は自分が精進料理以外を食べたい時は一人分だけつくって食べている。私が修行していることについて身内は何もいわない。水田はもっているが、修行のため、経済活動は減らさざるをえず、家計は苦しい。妻が会社勤務を続けており、支えている。
以前、仕事から帰ると酒におぼれていた。修行前はタバコを吸い毎日酒2壜飲んでいた。家族に安寧をもたらすため、修行に入った。家計的には苦しくなったが、家族生活は安定した。
村の中では、法事や葬式には参加を控えている。出席すると無理強いされお酒を飲まざるをえなくなるからだ。どうしても出席せざるをえない時は、宴会になれば家に帰って食べた。周囲の人は私が修行していると知っているので、特に何もいわない。地方当局も何もいわない。村には私のような修行者は僅か。私は地区の退役軍人会と農民会には参加している。共産党員ではない。
(2)ティン(男、1950年生まれ):ベトナム戦争の防空兵士
テト攻勢後の1968年に軍隊のレーダー部隊に入った。ハイズオン省タインハー(Thanh Hà)県で3か月訓練を受け、ハイフォン市に着任。ロケット砲DKZの使い方を学ぶ。訓練して1週間でB52を攻撃した。その後、タインホア省、ナムディン省へと移った。1970年にはメコンデルタのミトーで戦闘した。競合地区に駐屯し、敵のヘリが来ると泥の中に身を隠した。ヒルと蚊が無数にいて、ご飯を食べる時も蚊帳の中だった。1972年に除隊した。レーダー部隊で電磁波に接しているので、健康と生殖力を守るため、長く勤めないことになっていた。レーダー機器は最初はソ連製だったが、後に中国製になった。中国製の方が妨害を遮断することができ、進歩していた。レーダー部隊は車が機械を運んでくれるから歩兵より楽だった。1968年のホーおじさんの決定で、防空兵はひと月に13ドン支給されることになった。歩兵は5ドンだった。しかし支給は現金ではなく、ミルク、砂糖、乾燥食品などの現物であった。
除隊後、帰郷した。1993年から修行するつもりだったが、父が存命中で子どもも小さかったので条件が整わず、2005年から修行できるようになった。
私たちは、「タイビン明師道」の公認を求めて、書類作成もおこなっているが、地方当局からは回答がない。独自の本部事務所(土地と建物)をもっていないのが公認化への障害となっている。
(3)トゥー(女、1942年生まれ):10年余りの青年突撃隊員
出身地はナムディン省だが、青年突撃隊隊員だった時にタイビン省出身の夫と知り合い、こちらに住むようになった。事実婚で子どもが一人いて、現在子どもはホーチミン市で私立大学教員をしている。
最初に青年突撃隊に入ったのは1965年。母は早世し、父は抗仏戦争の兵士だったが戦後トゥエンクアン省で再婚した。私は目の不自由な祖母との二人暮らしに困窮し、青年突撃隊への入隊を申し込んだ。ゲアン省、クアンビン省、クアンチ省などで道路建設に従事した。私の隊は、初期のチュオンソン道路建設に従事した隊だった。チュオンソン地域の元住民は爆撃で多くが避難しており、私たちの隊はそれらの人たちの家を借りて寄寓した。
青年突撃隊員には銃の装備はなく、岩を破壊するための爆薬とシャベルだけを携帯していた。また、毎晩、二人一組で監視哨に登り、敵機を見張り、敵機が来襲するとトラック運転手たちに知らせた。仕事はきつく、空腹と皮膚病・マラリアに苦しみ、敵の爆撃に悩まされた。私は背が低く、マラリアで髪の毛が抜け落ちていたので、戦場に来た牛飼い少年のようだと上司にいわれた。南部では、マラリアで肌と唇は黒ずみ髪が抜けて嫌になったが、生還できてとてもよかった。その後、南部解放時まで、ホーチミン・ルートの14番ステーションで北部に行く負傷兵のため、炊事の仕事に従事した。
10年余り青年突撃隊にいたが、帰郷した時、祖母と父は亡くなっていた。1977年から1980年まで、第33師団所属の部隊に入り、中部高原のダクラク省ブオンドン(Buôn Đôn)地方にいた。ここでは、戦闘はせずもっぱらゴム栽培のために森林の伐採をした。その後、チュオンソン時代の恋人の兵士がいたので、彼についてタイビン省に来た。彼の斡旋で仕事に就き、すでに適齢期は過ぎていたが結婚して子供が一人できた。結婚式は挙げなかった。(筆者注:かつては夫が戦死した寡婦は再婚すると烈士の妻の権利を失ったが、今は認められるようになった。未婚の女性の子どもも、退役軍人、青年突撃隊隊員の子どもと認められるようになった。「革命功労者優遇法令(2020年)」第16条)
1981年頃、この集会所の主人ニャンさんと出会い、修行に導いてもらった。まだ勤めに出ていた頃で、彼も理解してくれた。この2年余りはホーチミン市におり、光南仏堂で修行している。カントー市とバックリュウ省の仏堂にも行ったことがある。
(4)サン(女、1954年生まれ):西南部への青年突撃隊員
私は、精進潔斎を始めて30年近く、修行して18年、出家して12年になる。現在はタイビン市のキム寺(chùa Kìm)で暮らしている。結婚はしていない。同寺が毎月に40万ドンの手当と医療保険を支給してくれている。
1977年に青年突撃隊に入った。遠くメコンデルタのキエンザン省バーホン(Ba Hòn)地方まで行った。列車でサイゴンまで行き、そこから車で現地まで行った。カンボジアの山々を見ることができた。そこでの任務は、土を運び、青年突撃隊のための家屋をつくることであった。水は明礬に汚染されており、ジャングルの中の空心菜を食べてお腹を壊した。ベッドはなく、ヤシの葉を地べたに敷いて寝た。蚊やヒルが無数にいた。4年近くいたが、補給困難で物不足もあり、とても苦しかった。
2.普光寺(タイビン省ヴートゥー県ヴーホイ社)にて
(5)フオン(女、1947年生まれ):タイビン省最初の青年突撃隊員
法名はティック・ダム・フオン。ヴーホイ社の出身。1965年、青年突撃隊に入隊。最初はナムディン省、ニンビン省、タインホア省で道路輸送の任務に就いた。1967年末、テト攻勢の準備で、フォンニャケバンからラオスにかけてのホーチミン・ルートの14番ステーション区域に移る。青年突撃隊の第1期の任期は終わったが、代わる人がいないので第2期も継続し1972年まで勤めることになった。
1969年にホーおじさんが逝去後、国道20号線はあまり使われなくなり15A
線が使われるようになると、私たちは同線の防衛にあたった。道路が爆撃されると補修した。私たちはタイビン省、ハタイ省出身者から成る第81隊で、タインホア省、クアンビン省の人たちの隊が先にきていたので、私たちはよりラオス国境に近い区域を担当した。着任当初、私はマラリアにかかり、髪の毛が抜け落ちた。隊の誰もが田虫、疥癬に悩まされた。その土地の少数民族の人は布の衣服を着ず、木の皮を纏っていた。私たちは衣服を卵・野菜・食べ物と交換した。ジャングルに入って、野菜・果物・筍を探し求めて、爆弾にあたって死ぬ人もいた。ジャングルの中には各種の爆弾が無数に設置されていて、細心の注意が必要だった。
ヴーホイ社から私と同じ時に青年突撃隊に入ったのは7人だった。そのうち4人は戦場に、あとの3人は非戦場の北部にいて3年1期だけ勤めて他部門に移った。戦場に行った4人のうち、1人は後に軍隊に移ったが、誰も戦死することなく生還した。赴任した戦場は、トゥアティエン省アサウ(A Sầu)・アルオイ(A Lưới)以北だったので、枯葉剤の影響も受けなかった。
青年突撃隊での勤めを終えて、1972年に帰郷した。まだベトナム戦争は終わっていなかった。帰って、南部の戦場に行った人の代わりに社の水利隊に入った。地元の農業合作社、検査委員会や農業技術委員会の委員、青年団などにも参加した。
1982年、出征していた兄弟がすべて帰ってきて一段落ついたので、母にお願いして出家することにした(父は私が戦場に行っている間に亡くなっていた)。その頃、出家するのは外国に行くより難しかった。出家するには、履歴書、家族環境、結婚の有無などを記載した書類を作成し、本人の意志、親の同意、受け入れる僧侶の同意が要件とされ、地元の人民委員会に提出し、承認をえなければならなかった。申請すると、私は丸1日、省の公安に幽閉され、妨害工作を受けた。私は「革命に奉仕して力が尽きたので、出家しなければならない」とだけ言い張った。
私は水田の分配を受けていて、身内が農作業を手伝ってくれ、それで食べてこられた。私は傷病兵手当をもらっていて主に母を養うのに使っていたが、母の死後は2人の孤児のために使っている。それは現在は100万ドン余り。今、5人の弟子がいる。それらの人は私が勧誘したのではなく、学校を終えて結婚を望まず出家した人たちである。タイビン省では青年突撃隊は1965年にできたが、私はその最初の隊員である。同省の元隊員会の活動にも積極的に参加している。
(6)ニュアン(女、1947年生まれ)
法名はティック・ダム・ゴック。ここの出身だが、今はタイビン省仏教教会本部があるキーバー(Kỳ Bá)寺にいる。尼長として忙しい日々を送っている。
1966年、戦争への貢献者(兵士など)が家族にいなかったので、一番年長の私は「国防労働者」となり、クアンチ省に赴任した。1年余り、輸送業務に従事した。日々とても空腹だった。その後、弟が「国防労働者」になったので、私は帰郷した。しかし数日後にはタイビン省の青年突撃隊に参加した。当時の私はとても痩せていたので、結団式で駄目だといわれたが、体に布を巻いてごまかした。同省の青年突撃隊に1年ほどいた。主な任務は、堤防と大砲陣地の建設だった。
戦後になって、一緒に戦場に行っていた人たちと会うたびに、こう冗談を交わしている。「みなさんは何年も戦場にいて、アメリカの奴を見たことがありますか? 私も1年余りいましたが、アメリカの奴を見たことがありません。我々が我々を攻撃しているのを見ただけです」「私もそうです」と。
私の家では4人が戦死している。中部高原で亡くなって遺骨がまだ見つかっていない人、クアンチ省で戦死してチュオンソン国立墓地に埋葬されている人もいる。母は存命中、チュオンソン墓地に埋葬されている弟のお墓をこちらに移すようにと言っていたが、弟は亡くなった戦友たちと一緒に埋葬されているので、帰したら弟が悲しむと私は言った。母は「ベトナムの英雄的母」の称号を授与されているが、抗仏・抗米の2つの戦争で身内24人が戦死している。
青年突撃隊から帰ってきてすぐに仏門に入りたかったが、禁じられた。それで師範学校に通い、修了後、教員となった。17年7か月教員を勤めたが、教員をしている時に密かに入信した。サイゴンのサーロイ(Xá Lợi)寺に行き、お経を購入した。入信したことが露見すると、当時は教員の入信は認められず、毎週木曜日に公安に出頭し、問い詰められた。そんなことが1年余り続いた。私は共産党員でもあったが、党からも抜けた。勤務していた学校の副校長兼党支部長にどうして脱退するのか聞かれてこう答えた。「私は南部に行き、たくさんの人が犠牲になるのを見ました。私は、それらの人の御霊を供養し、友人たちが解脱をするために、仏に仕えたい。党は無神であると私は認識していて、仏教修行は有神なので、私は脱退します。それだけのことです」と。
校長は理解して、こう同僚たちに説明した。「彼女は青年突撃隊に行き、烈士の家庭で、身内にたくさん亡くなられた人がいて、烈士の身内の御霊を救済するために出家される」と。校長はそれまでの私の仕事ぶりも評価してくれていた。私は、教員主任、他の教員の指導、社の人民評議会議員、青年執行副委員長、女性副委員長など多くの仕事をこなしてきた。
出家して27年になる。もっと早く出家すべきだったが、学校の仕事があってなかなか踏み出せなかった。胸にしこりができた時に健康休暇をもらい、それをきっかけに出家した。
現在、私は3つの手当を受領している:傷病兵、元青年突撃隊隊員、単身の烈士家庭。私は自分の土地を売り、一部を寺に寄進し、残りで我が家の祖廟を建てた。
(7)ダン(女、1952年生まれ):独身の元青年突撃隊員
1977年10月、青年突撃隊に入隊し、中部高原のコントゥム省、ダクラク省に赴任。ゴム園地帯にいて肌が青白くなった。ダクラク省にいる時、まだFULRO(被抑圧民族闘争統一戦線)がいて、とてもこわかった。その後、メコンデルタの東南部へ。そこは鬱蒼とした森におおわれ、マラリアが多発するところだった。3年間1期勤めて、行きも帰りも全員一緒だった。
青年突撃隊から帰ってきて、いろいろな病気にかかった。今、私は明師道で在家修行している。寺に用事があれば行き、なければ家にいて働く。水田の分配を受けているが、若い頃、水利の仕事や堤防建設などの重労働をしたので、関節痛になり、今は田んぼで仕事ができない。独身なので、貧困家庭の手当を毎月40万5千ドンと医療保険の支給を受けている。
※番外編:ベトナム戦争における北ベトナムの二人の大物スパイ
普光寺のすぐ近くに、ベトナム戦争期の有名なスパイであったヴー・ゴック・ニャ(Vũ Ngọc Nhạ)(1928ー2002年)の生家があり、徒歩で訪ねた。こぎれいな家で、祭壇に彼の写真や賞状などが飾られていた。ニャは、1954年に諜報部員として南部に潜入した。カトリック教徒に偽装してだった。カトリックとのつながりを利用してゴ・ディン・ジェム政権中枢に潜り込んだ。ジェム政権崩壊後、彼はスパイ網A22をを拡充し、ティエウ大統領の特別顧問となった。その間、多くの極秘資料を北ベトナム側に流した。1969年、スパイ・グループA22が摘発されると、ニャも捕らえられ、コンダオ島に送られた。1973年3月、政治犯返還で釈放された。南北統一後、ベトナム人民軍隊の少将、人民武装勢力英雄となった。
ニャはヒュウ・マイ(Hữu Mai)作の小説『顧問(ông cố vấn)』(1987年)のモデルであり、この小説は1996年にテレビ・ドラマ化された。
もう一人の有名なスパイはファム・スアン・アン(Phạm Xuân Ẩn)(1927ー2006年)である。アンは南部ビエンホアの出身で、ロイター通信社、タイム誌、ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙の南ベトナム政府側ジャーナリストでありながら、北ベトナムの二重スパイでもあった。スパイ名にはX6などがあった。南北統一後、ヴー・ゴック・ニャ同様、ベトナム人民軍隊の少将に任じられ、人民武装勢力英雄にもなった。彼に関する本はたくさん出ているが、なかでも有名なのは以下の本である。
・Larry Berman, Perfect Spy: The Incredible Double Life of Pham Xuan An Time Magazine Reporter and Vietnamese Communist Agent, Harper Colins, 2007.
同書はベトナム語に翻訳され(Điệp viên hoàn hảo:Cuộc đời hai mặt không thể tin được của Phạm Xuân Ẩn ph́ng viên tạp chí Time và điệp viên Cộng sản Việt Nam)、それはベトナム国内で出版されている。ただし原本から削除されている部分が多いという。
おわりに
◆ハー(①)は1984年から1988年まで中越国境の戦線にいた。これからも中越戦争は1979年以降も続いていたことがわかる。中越戦争でも空軍が活躍したが、それは物資補給のためであって戦闘ではなかった。
◆ティン(②)のようなレーダーを直接扱うの防空兵は歩兵に比べ給料が高く優遇されていた。しかしレーダーの電磁波の身体への影響に配慮し、兵役期間は限定的だった。
◆ニュアン(⑥)に見られるように、タイビン省では軍隊・青年突撃隊・最前線民工(dân công hỏa tuyến)以外に戦争に貢献する形態として「国防労働者」があった。この制度が他省にも存在したのかどうかは不明である。
◆ベトナムではベトナム戦争は「抗米救国抗戦」と呼ばれ、アメリカに対する戦争だということが強調されている。それに対してニュアン(⑥)の「アメリカの奴は見たことがなく、我々が我々を攻撃しているのを見ただけ」との指摘は、ベトナム戦争の「内戦性」を浮かび上がらせるものである。
◆サン(④)やダン(⑦)に見られるように、ベトナム戦争終結後、北部の青年突撃隊もメコンデルタや中部高原に派遣されることがあった。
◆青年突撃隊員だった女性は一般的に未婚者が多いが、今回の聞き取り調査でもサンプルは少ないものの、サン(④)、フオン(⑤)、ニュアン(⑥)、ダン(⑦)は未婚で、トゥー(③)は通常の結婚をしていない。
◆今回のタイビン省の明師道の信者たちは仏教との隔たりが少なく、明師道の宗教施設もお寺(chùa)と呼んでいる。明師道の信者は、精進潔斎するために、非信者が混じるコミュニティーの宴会・酒席には出席しずらい。しかし社会活動を忌避している顕著な動きはみられない。ティン(②)の話によれば、タイビン省の明師道は独自に公認を求める動きがあるが、それはうまく進んでいない。
◆尼僧のフオン(⑤)やニュアン(⑥)に見られるように、ベトナム戦争終結直後から1980年代まで、「出家」するのは大変で公安などの妨害を受けた。このような事態が変わり、宗教に対する厳しい統制・排除から緩和されるのはドイモイ以降・1880年代末ぐらいからである。このへんのことについては、次の拙稿を参照していただきた。拙稿「社会主義ベトナムにおける宗教と国民統合」五島文雄・竹内郁雄編『社会主義ベトナムとドイモイ』(アジア経済研究所、1994年)153~190ページ。
◆入信の動機は、ハー(①)のように混乱する戦後社会の中で個人的・家庭的に拠り所を求める気持ちや、ニュアン(⑥)のように戦没者の御霊の供養をしたいとの願いがあるものと推察される。そのようなニュアン(⑥)の入信・出家を妨害しようとした当局であるが、1990年代以降、ベトナム国家は戦没者の慰霊に既成仏教(具体的には「ベトナム仏教教会」)を利用するようになり(国家による戦没者慰霊儀式への僧侶の関与)、近年は党高級幹部の名前入りの石碑などが寺院に寄進されるようになっている。共産党体制と「ベトナム仏教教会」の癒着が目立つようになっている。「ベトナム仏教教会」未公認の僧侶が徒歩でベトナムを縦断して托鉢するのに多くの衆生がそれに付いて行くという「ティック・ミン・トゥエ師現象(hiện tượng sư Thích Minh Tuệ)」が今年(2024年)に発生したが、これは既成仏教のあり方に警鐘を鳴らす現象だと筆者は考えている。
(了)