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Ⅰー28. サイゴン知識人の語る解放映画製作所の歴史:ホーチミン市(2)前編

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(28)
★2014年7月5日~7月27日:ハノイ市、ホーチミン市

見出し画像:レ・ヴァン・ズイ氏(左)と(氏の自宅にて)

はじめに

前回に引き続いて、今回もホーチミン市での聞き取り調査の結果を報告する。今回のホーチミン市での調査の前に、2014年2月28日~3月10日までゲアン省を訪れた。目的は『ファン・ボイ・チャウ』(山川出版社、2019年)執筆をめざしての取材で、ファン・ボイ・チャウやホー・チ・ミンの生家などを訪問した。ハノイ市からゲアン省までの行き帰りともに寝台バスを利用した。片道6時間半~7時間。

さて今回の調査日程は以下の通り。
7月5日:日本を発ち、ハノイ市着。
7月6日~12日:語学研修
7月13日:相棒のダイ氏と共に空路でホーチミン市へ。
7月14日:午後、ホーチミン市青年突撃隊元隊員会の事務所にうかがい、打
     合せ。
7月15日:午前、市内の一人のインタビュイーの自宅にてインタビュー。
7月16日:午前、市内のレ・ヴァン・ズイ氏の自宅にうかがいインタビュ
     ー。その後、一人と午後にもう一人。いずれも市内の自宅。
7月17日:郊外のクチ県に行き、4人にインタビュー(自宅)。
7月18日:市内にて午前中に一人にインタビュー(自宅)。
7月19日:市内にて午前中に一人にインタビュー(自宅)。
7月20日:午前、レ・ヴァン・ズイの家を再訪。午後、空路にてハノイ市に
     戻る。
7月21日~24日:語学研修
7月26日:深夜便にて帰国。

Ⅰー27. の後編で扱った元女性捕虜の⑥タムさんは、1973年2月に捕虜交換で釈放され、同年12月にタイニン省で結婚した。お相手は当時、解放映画製作所のカメラマンだったレ・ヴァン・ズイ(Lê Văn Duy)氏である。ズイ氏は、今や文学者、劇作家、映画監督として有名な人物である。私たちはタムさんとの縁で、ズイ氏にお話をうかがうことにした。主なる話題はベトナム戦争中の解放映画製作所での活動であった。解放映画製作所は、ベトナム戦争中の南部で1962年に設立された解放勢力側の宣伝機関である。同製作所の後身であるベトナム解放映画社が製作した映画「無人の野(Cánh đồng hoang)」(1980年)は1982年に日本でも上映された。筆者もその時、この映画を見て感動した覚えがある。ちなみに北部で国家映画写真製作所が設立されたのは1953年である。

1.生い立ち

レ・ヴァン・ズイの本名はズオン・ゴック・チュック(Dương Ngọc Chúc)。1942年、サイゴンの生まれ。7人兄弟の4番目で、文学者のレ・ヴァン・タオ(Lê Văn Thảo)は兄。南ベトナムの最後の大統領だったズオン・ヴァン・ミン将軍は親戚。父親のズオン・ヴァン・ジウ(Dương Văn Diêu)が1945年に革命に参加し抗戦に赴いたので、母子はサイゴンを離れてドンタップムオイの戦区、さらに母方の故郷ロンスエン、アンザンに移住する。1954年のジュネーブ協定後、父と長兄は北部に「集結」。父は1962年に南部に戻り、教育小委員長となり、カマウに「八月教育学校」を開設した。

その間、ズイは南部で学校教育を受け、大学はサイゴンの国家行政学院に進学した。ここはサイゴン政府の副郡長以上を養成するところで、ズイはゴ・ディン・ジェムの弟ゴ・ディン・ニューから戦略村についての講義を受けたこともある。大学への書類には、父は死去、と書いていた(筆者注:vanvn.vn 29-01-2024 の記事によれば、ズイは国家行政学院の前に1962年に医薬大学に入学している。サイゴン軍の兵役を逃れ革命に参加する方途をさぐるため国家行政学院に転学した。転学して1年後に革命組織と連絡がつき、タイニン省のジャングルに入り、党南部中央局宣訓委員会の工作の一環として映画づくりに携わるようになったという)。

1966年、米軍のB52がタイニン省でベトナム初の爆撃した時、演劇カイルオンの有名な劇作家チャン・ヒュウ・チャン(Trần Hữu Trang:1906ー1966)がその爆撃で亡くなったが、その時、ズイも現場にいた。

抗戦に参加しジャングルに入ったばかりの時、ズイは「労働改造」を受けなければならなかった。サイゴン知識人がサイゴンで学んだものを捨て去り、「労働は栄光」だと認識するようになるためであった。ズイは北部の文学グループ「人文佳品」の作品を全部読んでいたのでそれには驚かなかった。労働改造の後、1968年、幹部教育クラスで研修を受けた。このクラスは県党委員以上を対象とした南部で最初のクラスであった。研修終了後、クチ県に行った時に掃討中の敵に捕らえられた。18か月収監された。最後にはサイゴン兵士として駆り出されそうになったので、脱走した。

2.解放映画製作所の歴史

抗仏期の南部において、映画製作をしていたのはマイ・ロック(Mai Lộc:1923ー2011年)、クオン・メー(Khương Mễ:1916ー2004年)などである。この二人は革命映画の最初の資料映画「モックホアの戦い(Trận Mộc Hóa)」(1948年)を製作した。ただマイ・ロックとクオン・メーはジュネーブ協定後に北部に「集結」してしまった。クオン・メーは抗米戦争中も南部に戻らなかった。南部では1955~1960年の段階では、弾圧が厳しく、必要な機材を買うのが困難であった。西南地方では、小型カメラは入手できたが、現像は写真のように手作業でした。現像所はなかった。

1961年(筆者注:1962年の間違いか?)に解放映画製作所がタイニンのジャングルの基地の中で設立された。南ベトナム民族解放戦線成立後、党南部中央局宣訓委員会が設立され、解放映画製作所もその直属とされた。文学者、ジャーナリスト、放送局、通信社も同様であった。

1960年頃から、北部への集結者が映画機材を携えて南部に戻ってきた。1961年(筆者注:1962年か?)から映画製作所は、グエン・ヒエン(Nguyễn Hiền)、チャン・ニュー(Trần Như)など、北からの人を受け入れた。これらの人は抗仏期に革命に参加した人で、マイ・ロック、クオン・メーと共に北部に「集結」していた。マイ・ロックは1965年頃、南部に戻った。マイ・ロックはクオン・メーの上司だった人で、解放映画の指導者であった。ソ連の映画監督と映画を製作したこともあった。グエン・ヒエンは北部集結後、東ドイツに留学し、南部に戻る時に、16ミリのカメラと現像設備を持ってきた。マイ・ロック、グエン・ヒエンなどによって、撮影クラスが開講され、南部の革命映画人材養成に大きな役割を果たした。

映画製作所は、必要に応じて、サイゴンから秘密裡に機材を買い付けた。ズイたちも運搬のため、ロンアンやクチまで出迎えに行った。現像はすべて手作業で、無声映画だった。ジャングルの中は湿気が高かったので、すべては米軍のステンレス製の銃弾箱(「重機関銃箱」と呼ばれた)に収納した。湿気を吸う煎り米も一緒に入れた。しっかりと密閉されているので、箱が水の中に落ちても大丈夫だった。

1970年、ハノイから音声技術の専門家たちが来て、音声チームが設立された。1972年には音声入りの映画が誕生した。

映画製作所には常時約100人のスタッフがいた。戦後の集計で、映画製作所にはのべ約100人の戦争犠牲者がいた。カメラマンは死亡しているか、負傷しているか、どちらかだった。戦場カメラマンは才能はいうにおよばず、勇敢な戦士で犠牲となる覚悟がなければならなかった。戦場に行く前はたいてい集合写真を撮った。戦闘が終わると、所在を確認した。撮影は2人1組でおこなった。戦場に行く時は、少なくても10本のフィルムを持って行った。機材が4キロ、あと食糧と身の回り品。時には武器を携帯した。戦闘は夜間が多かったので照明が使えず苦労した。また、カメラマンは戦場では開戦前
に兵士に同行しなければならず「銃を持たない戦士」だった。

映画製作所には移動上映隊がいた。最初はジャングルの基地近くの機関や部隊で上映し、その後各地で上映した。各上映隊は4・5人で機材や発電機を携行した。映画はたいてい無声映画で弁士がいた。

★マイ・ロック監督、レ・ヴァン・ズイ脚本の映画「クチの土地の情(Tình đất Củ Chi)」(1978年)https://www.youtube.com/watch?v=X4KVXfmrVSY

ベトナム戦争終結後、解放映画製作所は解放映画社、グエン・ディン・チエウ映画会社、解放映画株式会社と名前を変えるが、ズイは1990年からグエン・ディン・チエウ映画会社に勤め、社長を務めた。

レ・ヴァン・ズイ氏

3.映画製作所時代のエピソード

(1)ホー・チ・ミンの死
ホーおじさんが亡くなった時(1969年9月)、ズイたちはそのことを知らなかった。その頃、ズイはアンザン省山間部の深い洞穴にとある小団とともにいた。小団は400人以上いるはずだが、その小団は実際には100人ほどしかいなかった。兵士はすべて北部人だったが、小団長だけは南部人だった。敵のヘリコプターが洞穴まで飛んできて、空中から「ホー氏が死んだ」と告げた。それでラジオの解放放送をつけ、確認した。それまで電池が十分になかったので、ラジオはめったに聞いたことがなかった(ラジオと電池は日本製)。ホーおじさんの死を知って、みんな泣いた。ズイは、「四恩孝義教」信徒によるホー・チ・ミン追悼式を撮影した。これは、「四恩孝義教」信徒が革命映画に登場した最初だった。

現在では、ホーおじさんの「神格化」に言及する人がいるが、実際、長い間、ホーおじさんは聖人とみなされてきた。単に地位上のことだけではなく、精神的にもホーおじさんは支持されていた。抗戦に参加している時は、地位は問題ではなかった。同志・同隊の情は、戦争の中で平等を醸成した。人間関係の対処は友人ベースであり、上下関係ではなかった。

(2)チュオンソン山脈での青年突撃隊の活動
ズイはチュオンソン山脈に関する映画も撮っており、その経験をもとに文学作品『竹の中敷きを張った道(Con đường có lát vỉ tre)』を執筆した。ふつう文学者たちは戦場の現場まで行っていないが、ズイは現場に行っているのでよりリアルに描けているという。

チュオンソン山脈の急峻な山道を青年突撃隊は各自自転車で300キロの荷物を運んだ。雨季には、竹製の中敷きを道路に敷き詰めて運搬した。余りの重労働で女性隊員の中には背骨を傷める人もいた。「背骨がこんなでは結婚できなくなる」と泣いて訴える人もいた。子どもを産めなくなる危険を犯してまで革命事業に奉仕する姿を描くため、ズイは『竹の中敷きを張った道』を書いたという。

(3)無名の映画人について
戦争中はそれこそ集団で映画をつくったので、『ベトナム映画史』を編纂する時、有名人だけが名前を残すのは、無名のまま戦争中に死んだ人に対して不公平だとズイは感じた。

1968年に南部入りした北部出身のカメラマンがいた。マラリヤで頭髪が抜け、弱弱しく風采のあがらぬ人だった。彼が撮った国道13号線の戦闘フィルムを見て、ズイは感服した。米軍の戦車と味方の部隊の兵士が同一画面で撮られていた。米軍戦車に数十メートルの距離に接近して撮ったものだ。彼のように一見してごく普通の人が英雄の性質を秘めていた。ベトナムが勝利したのは、このような普通だが英雄の人たちがいたからである。敵に比べて武器も劣っている中、このような人がいなければどうして勝利できただろうか。

元ホーチミン市スポーツ文化局副局長の奥さん

4.自作の文学作品のうちのお薦め2作品

ズイは映画と文学の二つの領域で活動した。お薦めの自作の文学作品2つを挙げていただいた。

(1)『日差しを避ける時(Thời trốn nắng)』
ベトナム戦争中、革命側にもサイゴン政府側にも立たないで、戦争に反対するサイゴン知識人たちがいた。音楽家のチン・コン・ソン(Trịnh Công Sơn:1939ー2001年)もそうである。それらの人も兵役年齢になれば、出征せざるをえなかった。徴兵を逃れる唯一の方法が「日差しを避ける(trốn nắng)(屋根裏に隠れる)」ことであった。「日差しを避ける時」はズイたちの青春時代であった。そうした人たちは愛国者であり、サイゴン市内で夜間に革命活動をした。

★ズイは、チン・コン・ソンに関する短い資料映像を3本つくっている。
tcs-home.org/News/phim-tai-lieu-ve-trinh-cong-son
この資料映画では、チン・コン・ソンは多才な愛国者だとされている。映画の中では、サイゴン時代のミュージシャン、詩人の映像が出てくる。

(2)『降真香の丘(Đồi Giáng hương)』
その丘の降真香の木は枯葉剤でも死なないので、神聖だと思われている。そんな木の存在に触発されて書いた小説。サイゴン知識人で都市生活を捨てて抗戦するのは大変な苦労であったが、南部に抗戦に来ている北部の若者はもっと大変であった。これは戦場に来た北部の女性知識人と南部の画家との恋愛話。南北の団結の情を宣伝ではなく、具体的な人間と恋愛を通して描いたもの。

バオ・ニンの『戦争の悲しみ』はサイゴン軍兵士を無知な人間だけだと描いているが、サイゴン軍にも知識人はいた。北部の人の描く戦争像は偏りがある。彼らは、革命側の南部農民と暮らしたことがあるだけで、サイゴン知識人や都会の暮らしを知らない。グエン・クアン・サン(Nguyễn Quang Sáng:1932ー2014年:映画「無人の野」の脚本家)やアイン・ドゥック(Anh Đức:1935ー2014年:小説『ホンダット洞窟の夜明け』の作者)もジャングルの生活しか知らない。南部の都市知識人の存在を見落とすべきではない。

5.友人のグエン・ティ・ゴック・フオンについて

トゥーズー病院(bệnh viện Từ Dũ)の医師グエン・ティ・ゴック・フオン(Nguyễn Thị Ngọc Phượng)は学生時代からのズイの友人。1975年9月、ホー・チ・ミン廟の落成式のため、臨時革命政府の代表団でハノイに行った時、久しぶりに再会した。その後、フオンが日本に行った時に撮影機材を購入してきてもらった。その機材で枯葉剤の映画を撮った。ズイは枯葉剤の映画を撮った最初の人だという。フオンは、胎児の枯葉剤の影響について最初に研究した人である。結合双生児ベトとドクの二人が生まれた時(1981年)からズイは二人を撮っている。

おわりに

レ・ヴァン・ズイのインタビューからは、単に南部の革命知識人というだけではないサイゴン知識人の矜持が感じられる。南北統一後に不遇の時期もあったチン・コン・ソンに対するスタンスには、同じ世代のサイゴン知識人に対する熱い想いや哀惜がうかがえる。北部人によるベトナム戦争像の偏りの指摘もサイゴン知識人の矜持から出て来たものであろう。

ベトナムからの報道によれば、レ・ヴァン・ズイ氏は2024年1月27日に自宅で亡くなられた。享年81歳。筆者がちょうど本稿執筆の準備を始めたところであった。ご冥福をお祈りいたします。
                            (前編 了)












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