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Ⅰー38.ポスター画になった人民武装勢力英雄:ハノイ市(後編)

ベトナム戦争のオーラル・ヒストリー(38)
★2024年10月21日~10月30日:ハノイ市、ライチャウ省、ホアビン省
見出し画像:ベトナム戦争中のポスター画「レ・マー・ルオン 最も美しい
      人生は敵軍を討つ戦線にいること」(1971年頃)

C 教授が総編集長をつとめた『ベトナム歴史』全15巻のうち
写真はC 教授が責任編集した第12巻『1954年から1965年』(2017年刊行)

Ⅱ.ベトナム戦争史研究の第一人者者C 教授の話

(筆者注:C 教授と次の L 少将については、インタビュー時のメモと記憶に基づき記事を再構成している。同教授はインタビュー時に77歳。元史学院院長、ベトナム社会科学アカデミー副主席)

◆米国の介入
 ベトナムの救国抗米戦争はきわめて重要な歴史的段階の一つで、1954年から始まり、1975年に終結した。アメリカは早くからベトナムに関与していた。1949ー1950年、アメリカは当時第一次インドシナ戦争を戦っていたフランスの戦費の約80%を負担していた。ニクソン米副大統領(当時)は1951ー1952年頃、北部ニンビン省に来たことがある。1954年、フランスが敗北すると、アメリカが取って代わった。ドミノ理論により、南部に親米のゴ・ディン・ジェム政権を樹立し、冷戦下、共産主義の拡大を阻止しようとした。アメリカは1964年から直接介入し、1965年には海兵隊をダナンに上陸させ、参戦した。
 一方、抗米戦争中、社会主義諸国からは、ソ連人顧問、中国軍兵士、北朝鮮パイロットなどが北ベトナムに派遣されていたが、南部にまで入った者はいない。

◆ベトナム民族の自主独立性と強烈な愛国主義
 ベトナム民族は、歴代中国王朝を打ち負かし、独立性を保ってきた。ジェム政権の弾圧、また1967ー68年頃には世界第4位の軍事力を擁したサイゴン政府軍の弾圧に対して、南部の人々は抵抗し、1960年には一斉蜂起し、1960年12月20日には南ベトナム民族解放戦線が結成された。「ベトナム国は一つ、ベトナム民族は一つ」との考えにより、北部は南部の革命勢力を支援した。それは教育・宣伝だけによるものではなく、ベトナム人一人ひとりが愛国心という主体性をもっていたからである。
 抗米戦争は「バッタが象と戦う」ようなものであった。その頃の北部のGDPは10~20億ドルだけなのに対し、相手は数千億ドルから1兆ドルであった。アメリカが我が国に投下した爆弾量は、第二次世界大戦でヨーロッパに投下された量よりも多かった。アメリカは南部に55万人の兵士を送り込んだ。あと韓国、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピンなどの同盟国軍が合計60万人。そしてサイゴン政府軍。ソ連と中国は最初、ベトナムがアメリカと戦うのを止めようとした。しかしベトナムは独立・自主性をもち、抗米戦争に立ち向かった。

◆犠牲と後遺症
 抗米戦争で、南北の民間人も合わせて300万人が死亡しているが、正確な統計数字がない。その頃のベトナムの総人口は3000万人余りなので、これは大きな犠牲といえる。戦後の後遺症も大きい。ベトナム人の感情に今も傷跡が残っている。特に南部では兄弟で敵対した場合もある。それを癒すには時間がかかる。枯葉剤の被害者も第三世代にまで及んでいる。
 韓国の歴史学者たちは私に、韓国が日本を恨んでいるように、ベトナムもフランス、アメリカ、日本を恨むべきではないかと述べたが、それはフランス、アメリカ、日本さらには中国の政府の過ちであって、それらの国の人民の過ちではないと私は考えている。現在、ベトナムはこれらの国々と友好関係を築き、「過去を棚上げ」しようとしており、私たちもそれに同意している。元の敵対関係に戻ることはない。

◆抗米戦争の勝因
 第一に、南北双方の人々の独立・統一の意志と愛国心である。「平和競争」を主張した同志たちもいたが、それは幻想だった。民族独立、祖国統一の意志はとても重要である。その意志は南部の敵占領区の人々も共有していた。韓国のジャーナリストに南北統一に必要な条件は何かと尋ねられたことがあるが、統一に最も必要なことは、南北両人民の国土統一の意志だと思う。
 第二に、侵略に対する正しい路線、資源の集中である。
 第三に、南北の軍民の多大の犠牲である。南部の戦闘に派遣された北部の青年は200万人以上。当時、北部の総人口は2000万人足らずであったので、それは簡単なことではなかった。その頃、北部の農村には老人、女性、子どもしか残っていなかった。

◆ベトナム戦争に関する研究
 ベトナム戦争に関する研究は膨大な量に及んでいる。ベトナム国内では、国防省軍事歴史研究所の全9巻がある。また、史学院では私が総編集長をつとめた『ベトナム歴史』全15巻のうち、抗米戦争については第12巻(1954~1965年)と第13巻(1965~1975年)が扱っている。私は第12巻の編集責任者だった(筆者注:この通史については、拙稿「ベトナム社会科学アカデミー・史学院編『ベトナム歴史』全15巻、社会科学出版社、ハノイ、2017」『東京外大 東南アジア学』No.23、2018、163ー171頁。を参照)。そのほか、ハノイ人文社会科学大学、党史研究所、フエ大学、ホーチミン国家大学によるものなどがある。
 戦史については特にベトナムの軍事歴史研究所が詳細に研究している。日本や世界の人々の関心事項として、アメリカがどのようにベトナムに干渉し、それに失敗したのかがあるが、これは重要な問題である。抗戦における女性の役割については、国内外の多くの研究者によって関心をもたれている。私は2019年にアメリカのテキサス大学でベトナム戦争についてのセミナーをおこなったが、同大学のベトナムセンターにはベトナム戦争関連の非常に多くの資料がある。また同年、ニクソン・ライブラリーでもかなり多くの資料を収集することができた。ニューヨークにあるコロンビア大学のベトナム系グエン・ティ・リエン・ハン(Nguyễn Thị Liên Hằng)教授(筆者注:『ハノイの戦争(HANOI'S WAR)』(2012年)の作者)の研究など、アメリカではかなり綿密な研究が進んでいる。
 オーラル・ヒストリーの口述資料も重要である。公文書資料、統計資料が沢山あるが、口述資料も研究に貢献しうる。ただし、ベトナム人研究者の方が外国人研究者より有利であろう。自分自身が「生きている証人」であり資料源だからである。公文書に頼るだけでは既に多くの人が研究している。自分の強みを活かして研究すべきだ。

C 教授(左)と(国家歴史博物館にて)

Ⅲ.L 少将:ポスター画になった人民武装勢力英雄

 1950年生まれ。父親は私が4歳の時、ディエンビエンフーの戦いで戦死した。1967年に入隊。今年(2024年)で党歴56年。1971年9月20日、輝かしい戦功をあげ21歳で人民武装勢力英雄に宣揚され(最年少)、一躍有名人となった。同年、ポスター画に描かれ、5万部が発行された。映画「出陣の歌(Bài ca ra trận)」、演劇「両目(Đôi mắt)」も制作された(筆者注:戦闘でL 少将は片目を失った)。さらに軍隊作家のホー・フオン(Hồ Phương)中将により、私についての著作『太陽のぼる時(Khi có một mặt trời)』も出版された。私たちの世代は非常に高く評価されており、現在、戦争経験のない将兵たちは私たちを「黄金の世代」とみなしている。
 ベトナム戦争終結後、私はハノイ総合大学史学科で4年間学び、戦争史を研究した。私の学位論文は「北部デルタの抗戦村」で、新奇なテーマだと評価された。これまでの著作は30冊余り(すべて軍隊出版社発行)にのぼるが、その中に「チャン・フン・ダオ戦区(chiến khu Trần Hưng Đạo)」についての著作もある。この著作は第3軍区の歴史室長の時に執筆した。同戦区はクアンニン省にあり、1944年末・45年初に誕生し、日本軍との激しい戦闘でベトミン側が勝利を収めた戦区である。
 31冊目が『不死の輪の中のガックマー(Gạc Ma vòng tròn bất tử)』で、初版が3万部も出た。この本では南シナ海問題を扱っているが、われわれはソフトな解決に努力するため譲歩しすぎていると指摘した(筆者注:2019年10月、南シナ海の万安灘<ベトナム語名はbãi Tư Chính、英語名はVanguard Bank>に関するシンポジウムで、L 少将は中国への対応についてベトナム外務省、共産党中央対外委員会を批判する発言をし、物議をかもし、「功臣病」[ 革命や革命や戦争に功績をもっていることを鼻にかけ傲慢になること ] にかかっていると揶揄された)。中国に対しては、我々がちょっとひるむと、中国はかさにかかってくる。ベトナム外交は「バンブー外交(ngoại giao cây tre)」といわれるが、これはグエン・フー・チョン元書記長が言いだしたものだが、本来はタイの外交を指すものであり、ベトナムのものではない。

L 少将(左)と(ハノイ市内の自宅にて)

 戦闘に参加し、人生で盛りの時に歴史学を学び、定年まで歴史研究と関わってきた。その間、2006ー2011年には軍事歴史博物館の館長をつとめた。歴史について深く研究してきたが、ベトナムの学校の歴史教育について懸念している。生徒、若者は歴史を嫌っている。それはまず歴史教科書に問題がある。兵士たちが何を食べて戦ったか、負傷したり病気になったらどう治療したか、などが具体的に書かれていない。戦闘段階を書いているだけで、生き生きした描写がされていない。それではオウム返しの学習にすぎず、嫌になってしまう。第二に、教科書は間違いがあっても修正しない。執筆者の威信を守るためだ。第三に、抗戦期の代表的な人物、たとえばファン・ディン・ゾット(Phan Đình Giót)、ベー・ヴァン・ダン(Bế Văn Đàn)、ラ・ヴァン・カウ(La Văn Cầu)、フン・ヴァン・カウ(Phùng Văn Khẩu)などについて書いていない。第四に、カンボジア戦争、中越戦争、南シナ海の衝突についてごく簡単な記述しかしていない。中越戦争は1か月だけの戦争ではなく、1979~1989年の10年間続いた。私はヴィスエン(Vị Xuyên)で1985~1987年に指揮を取った。

 国防省の軍事歴史研究所は人民軍隊が管理し、所長は中将クラス。政治学院、陸軍学院、国防学院、軍事戦略学院などの学校でも史学科があるが、軍事歴史研究所の指導の下にある。そのほかに、共産党の党史研究所、各地方の歴史研究委員会などもある。
 ベトナムでは史料へのアプローチは簡単ではない。現代史に関する文書館は、外国人にはアプローチは難しい。軍事歴史研究所も巨大な文書庫をもっているが、アプローチは困難である。ベトナムでは各機関が自分の史料を抱え込む傾向がある。
 人民軍隊成立80周年記念として、新しい軍事博物館がオープンになる(2024年11月オープン)。40ヘクタール余りの広大な敷地があり、野外展示を充実させた。B52の展示をする計画をたて、アメリカ側も同意していたのに、実現できなかったのは残念である。

2012年に竣工したフークオック島にある護国竹林禅院。
ファム・ヴァン・チャー元国防相らのプロジェクトで最初につくられた竹林禅院


同寺院の境内には党や政府の要人の記念植樹が幾つもある。
上の写真はグエン・タン・ズン元首相の2012年12月14日付のもの。

 この3週間、クアンチ省に行って3つのことの協議を地元の人たちとしてきた。一つは陳仁宗の像の建設、二つは慰霊区建設、三つは烈士・英雄センターの建設である。近年はこれらの事業に注力している。これらはファム・ヴァン・チャー(Phạm Văn Trà)元国防相(在任:1997ー2006年)・大将が中心になり、軍隊企業などを動員しておこなっている。ファム・ヴァン・チャー大将はまた「竹林禅院」という名前の53の寺院を建設した責任者で、現在、クアンチ省に54番目を建設中である。
 首都ハノイにも烈士英雄記念区の建設を計画している。首都の青年は、抗米戦争に28万人が参加。そのうち8万人が戦死した。多数が亡くなった戦場は中部高原とクアンチ省であった。ハノイ出身の英雄には、女性医師ダン・トゥイ・チャム(Đặng Thùy Trâm)、12日間の爆撃作戦でB52に体当たりしたパイロット・上尉ヴー・スアン・ティエウ(Vũ Xuân Thiều)、36の「勇士」の称号をもつチン・トー・タム(Trịnh Tố Tâm)などがいる。
 
<筆者注>
 「竹林禅院」は13世紀末に陳仁宗(在位1278ー1293年)が創始した禅宗の一派。陳仁宗は陳朝の第3代皇帝で元の侵略を退けた。2013年にベトナムの文化・スポーツ・観光省が選定した14人の国民的英雄の一人。「竹林禅院」は1993年にティック・タイン・トゥー(Thích Thanh Từ:1924ー)(現在、ベトナム仏教教会副法主)によって再興された。ベトナム国内外に多くの同禅院が存在している。ファム・ヴァン・チャー大将は、ヴォー・ヴァン・キエット元首相(2008年死去)との協議の上、「竹林禅院」のプロジェクトに着手した。同プロジェクトによる最初の禅院がフークオック島の護国竹林禅院で2012年12月14日に完成した(電子版 Cựu Chiến binh Việt Nam 11-06-2023 の記事による)。

ソン博士(左)(ホアビン省の農園にて)

Ⅳ.高級幹部の子弟ソン博士:ベトナム戦争中、軍隊に入らなかった人(元農業・農村発展省戦略・政策研究所所長)

 1954年生まれ。父親はダン・キム・ザン(Đặng Kim Giang)少将(筆者注:1910ー1983年。元ベトナム人民軍隊後勤総局副主任、農場省次官。ディエンビエンーの戦いの時の兵站責任者をつとめた。1967年に反党修正主義事件で捕らえられ、1980年に釈放される。本ブログのⅠー32.のヴィエットの話にもその名前がでてくる)。父の故郷はタイビン省キエンスオン(Kiến Xương)県。タイビン省は貧しい農業地帯で、1945年の餓死者が最も多かった。その原因は複合的だ。その前年、タイビン省は洪水で稲がだめになった。日本軍の米の集中的買い付けがされた一方、南部からの米の輸送は、フランスの禁輸、アメリカの爆撃、革命勢力による輸送路分断などによりできなくなった。日本軍によるジュート栽培の強制は主要な原因ではない。

<タイビン出身の研究協力者D氏の話>
 ヴァン・タオ(Văn Tạo)氏らによる1945年餓死の研究は、主要原因は日本軍が稲を抜いてジュートを強制的に農民に栽培させたこととしている。しかし日本軍がそうしているのを目撃した人がいないし、実際に農民にそうさせるのは困難である。その頃の北部の人口は約1500万人でそのうち200万人が餓死したとすると驚愕すべき数字だ。当時の党書記長のチュオン・チン(Trường Chinh)は20万人だと見積もっている。(終わり)

 父は1910年にタイビン省の里長(村長)の家系に生まれた。1928年からの共産党員で2度捕まっている。1945年にハノイでの総蜂起令を決定した人の一人である。抗仏戦争の時、1951年に供給総局副主任となり、ディエンビエンフーの戦いでは同主任となり兵站の責任者となった。ディエンビエンフーの戦いの時、衣服、食糧は比較的十分にあったが、銃弾の供給は難儀であった。この頃、人民軍隊の兵器は日本軍、フランス軍などから奪ったものやソ連、中国からの援助品などが混在し、1個小団のみでも膨大な数の種類の弾薬が必要だった。そのため兵士は努めて弾丸を節約した。
 抗仏戦争終結後、父は農業合作化と商工業改造に従事した。ハノイ市内の北門近くの美しいヴィラを住宅として支給された。その頃、5個師団、約5万人が軍隊から除隊となった。主に1954年以降に北部に集結した南部出身の兵士たちだった。彼らの多くは農林場設立に参加した。父は1960年から農場省次官をつとめ、1963年に初めて「請負(khoán)」を提唱した。有名なキム・ゴック(Kim Ngọc)氏が「請負」を方針に打ち出したのは1967年のことだ。父は農林場の労働者に「請負」をさせ、集団食堂を廃止した。父が「請負」を考えついたのは、ソ連、中国、特にブルガリアでの視察の成果であった。

 私の父を最初に陥れたのはレ・ドゥック・ト(Lê Đức Thọ)党政治局員・組織委員長である。二人はソンラ監獄以来の友人だったのだが。トの一味は1964年から秘密の特別捜査事件をでっちあげ始めた。すなわち中国に従いソ連に反対する決定をした第3期第9回中央委員会会議の時から。1967年に父は逮捕され、規律を受けた(筆者注:反党修正主義事件によるもの)。父はバックザン省に軟禁され、ハノイに帰れず、職務などすべてを失った。私はそれ以前は革命家族の履歴だったが、「悪い履歴」になってしまった。私は軍隊への入隊を3度申請したが、そのような履歴では駄目だと拒否された。また体も弱く、体重は45キロしかなかった。地主、旧政権、カトリックの子弟などは「悪い履歴」だと見なされ、入隊できないことがあった。抗米戦争中、北部の青年たちは進んで出征し、軍隊に行かない場合は青年突撃隊、最前線民工などに参加し、何もしないと引けめを感じた。

ソンの父親(左)とチャン・ダン・ニン供給総局主任
(抗仏戦争期)

 戦争中のバオカップ(国家丸抱え)時代、高級幹部の生活はとてもよかった。配給制度には序列があり(筆者注:AからEまで5段階)、高級幹部向けの特別な制度もあった。Aクラスは党中央委員以上で、このクラスだけを対象にした2店舗(食料店と消費品店)があった。多くの農林場合作社はAクラスのために特別に栽培した。私の家はBクラス(次官や地方省の正副主席クラス)だった。Bクラスにもトンダン(Tông Đản)通りに特別店舗があった。私の家では毎月、3キロの肉、十分な米、ミルク、卵があった。AとBクラス向けの店舗には、外国製品、バター、ミルク、チーズ、玩具などがあった。
 さらに高級幹部には立派な住宅が支給された。私の家は広く、4つの寝室があった。階下は5人の使用人(料理人、運転手兼守衛、家事、秘書、医師)用の部屋があった。Aクラスはもっといい住宅だった。Bクラス以上は、特別に映画、サッカー、歌・演劇が見られ、仕立て屋や床屋も別だった。子弟は特別の病院で診察を受け、戦争が激しい時には、中国に疎開し、特別なグエン・ヴァン・チョイ学校(trường Nguyễn Văn Trỗi)に通った。
 軍隊では佐官より下の子弟は戦場に行かなければならないが、将官以上はそうではなかった。軍隊に入ったとしても、国内の軍隊技術学校に入るか、外国に留学した。党政治局員の人は誰も子どもを戦場に送っていない。そこはスターリンや毛沢東と違うところである。党政治局員はいわゆる特権層であった。しかしその頃、あまり腐敗はなかった。蓄財に励むということもなかった。意見の違いはあっても、解放と統一という目標は一致しており、民や国のために尽力した。

ソン氏の農園(ホアビン省)

 私は1972年にハノイ農業大学に入学した。その年、総動員令が出され、学徒動員された。1956年生まれの弟が学徒出陣したので、私は入隊しなくてもよかった。戦後の1976年に大学を卒業した。私は成績がよかったので大学に残って講師をしていたが、南部のハティエン(Hà Tiên)省に派遣された。戦後直後、外国からの食糧援助がなくなり、また南部は戦争による破壊で農業生産が低迷していたので、ベトナムは食糧不足に陥っていた。旧南ベトナムでは大学卒業者はダラット武備学校に入学していたので、農業技師が不足していた。それで北部から農業技師を派遣することになったのだった。
 ハティエン省では、地質地図、生産地図を作成し、水路を設計した。その後、カントー市に移り、メコンデルタ13省の農業すべてを担当した。その間、1978年にはクメール・ルージュによるベトナムの民間人虐殺事件が起きた(筆者注:1978年4月18~30日、カンボジア国境のアンザン省チトン(Tri Tôn)県バーチュック(Ba Chúc)社において3157人の民間人が虐殺された)。カントーに約1年いて、1979年にハノイに戻り、農業省の研究所に勤務した。ハノイでの生活が合わず再び南部に行き、新経済区開墾総局に異動した。私は新経済区に人々を送り込み、その土地の区画をした。国営農林場と新経済区はうまくいかず、多くの問題を抱えていた。
 農業省は数十の国営大規模農場を設立し、農民だけでなく労働者も送り込んだ。私も27歳の時、ハティエン省の共産青年農場に赴任し、副農場長になった。農場の青年はハノイ市、タイビン省の出身者だった。農場の敷地は4000ヘクタール余りで、農業の機械化をはかった。この農場は、防虫剤散布と施肥のために、航空機を使用した最初の組織だった。すべての機械はソ連製だった。2年後、酸性土壌のところを機械化したのは誤りだと気づいた。農場の労働者による備品の不正売却などの腐敗や怠慢もあり、私は規律を受け、メコンデルタ稲研究所に配置換えになった。
 同研究所は有名なルオン・ディン・クア(Lương Định Của)教授が設立した研究所でカントー市郊外にあった。研究所の同僚たちはみな外国留学帰りで私を見下していた。それで必死に英語を学び、4・5年後には部門長に昇進し、英語も上達した。私はメコンデルタの農業生態を研究し、1987年にそれについての本を書いた。オランダは旧政権時代からメコンデルタの農業を援助していたが、私の本を読んで、専門家チームに3年間招聘してくれた。
 1995年のアメリカとの国交樹立をひかえ、ハーバード大学への奨学金をえられることになった。しかしその奨学金プログラムは政治経済だけを対象としており、私は農業を学びたかったのでスタンフォード大学に転学することにした。2年間そこで学んだ。留学中、かつての上司で農業相のグエン・コン・タン(Nguyễn Công Tạn)が視察に来た時に、私は、メコンデルタでの稲作を農場でおこなうのは間違いだと具申した。アメリカでの留学(1994~1997年)を終え、農業省の政策局副局長となった。
  政策局副局長としてWTO加入、ASEAN、APECなどの農業交渉を担当した。レ・フイ・ゴ(Lê Huy Ngọ)農相により情報センター長に起用された。レ・フイ・ゴ農相の時、農業省は汚職事件がおき、多くの高級幹部が処分された。農相がカオ・ドゥック・ファット(Cao Đức Phát)(筆者注:米国ハーバード大学留学。在任は2004~2016年)に替わり、私は経済研究所に移った。その後、同研究所は戦略政策研究所と改名された。ここの幹部はソ連・中国で計画経済を学び、市場経済を知らなかったので、若い所員を欧米や日本にどんどん留学させた。
 ベトナム政府が工業化・都市化に注力し、農民の土地の収用に熱心だったことがあった。そのためタイビン省、ハイフォン市、ハノイ市のような土地収用事件が発生した(筆者注:1997年のタイビン省の農民騒擾事件、2012年のハイフォン市の土地強制収用事件、2020年のハノイ市ミードゥック県ドンタム社の土地紛争事件)。南部でも同様の事件が多数発生した。わが国の為政者の思考パターンは「乞う ー 与える、配給する、そして汚職する」である。本当の市場システムにして国家の干渉を減らし、政策は法律化すべきである。
 ベトナムの農業政策は最も市場的な政策で「ベトナム農業の奇跡」をもたらした。ベトナムは米、コーヒー、カシューナッツ、胡椒、木材など農林水産輸出の強国となった。ベトナムは政府が農業に助成していない唯一の国である。ベトナム農民は市場メカニズムにおける競争力を有している。
 私は世銀の招聘でアフリカの国の顧問をした。またキューバ、北朝鮮、ラオス、カンボジア、ミャンマーなどの農業支援にも出向いた。一時、グエン・タン・ズン首相(在任:2006~2016年)の補佐官も務めた。グエン・コン・タンが亡くなり、カオ・ドゥック・ファットが退任すると、私も公職を退いた。

メコン・デルタの水田

 ベトナム戦争時の1960年代、概して、南部の農民は共産側を支持し、都市の人々はゴ・ディン・ジェムを支持した。ジェムは土地に関して間違った政策を採り、多くの人は共産側を支持した。北部からの援助のほとんどは銃弾と軍事施設で、ソ連と中国から援助された食料は主にチュオンソン山脈沿いの部隊に供給された。南部の部隊は薬品、衣服などは自ら現地調達した。
 テト攻勢(1968年)後、特に1970年代に入ると、南部の人は戦争を恐れ、嫌になり、反対し始めた。サイゴン政府軍からの徴兵逃れが増え、南部解放軍への参加も減った。「戦争のベトナム化」の時期(1973~1975年)、サイゴン政府軍兵士の給料は非常に高くなったが、サイゴン政府は大学入試に失敗した人を強制的に徴兵せざるをえなかった。
 1973年、グエン・ヴァン・ティエウ(Nguyễn Văn Thiệu)南ベトナム大統領は台湾モデルにならい土地改革を実施した。土地を接収せず買い取った。地主はそれによって資本をえて、都市で起業した。1960年代のゴ・ディン・ジェムの土地改革は、移住者の支持は得たが、前からいた地元民の支持を得られず、腐敗を生じさせたのと比べると、ティエウの政策はよりきちんとしていた。1975年時点で南部の70%以上の農民は中農だった。もしティエウが農業協同組合の設立までたどり着いていたら、南部の農民は彼を支持していたかもしれない。

 1972年、北部では学徒出陣が始まった。原因は、南部解放軍は北部の人だけになってきたからである。戦死者が多く、南部の人の補充がままならなかった。南部解放軍に従う南部の青年は少なくなり、南部ゲリラ勢力も弱体化していた。ティエウの土地改革で、サイゴン政府が台湾や韓国の農村発展をモデルとした「農村平定」政策を実施し、われわれは農村を「失い」、解放区が縮小するところだった。しかしサイゴン政府は腐敗していて、戦争に固執していた。パリ協定後、敵味方による陣取り合戦が展開されたが、南部の農民には厭戦気分が高まっていた。同時期、ハノイの共産党政治局内にも厭戦思想があり、ファム・ヴァン・ドン(Phạm Văn Đồng)首相(当時)が私に語ったところによると、レ・ズアン(Lê Duẩn)書記長の総攻撃の方針を熱心に支持したのは自分だけで、他の人たちは躊躇していたという。

 1972年、優秀な多くの学徒兵が犠牲になったのはとても残念だ。知識人の大きな損失で、1980・90年代にはエリート層が薄くなってしまった。その後のAPEC、WTOなどの交渉の場で、それを痛感させられた。
 ベトナム人の悪弊は、各王朝が前の王朝の成果を抹殺しようとすることだ。また、戦争が終わった後、侵略者とよい関係を結ぶが大国とだけで、ラオス、カンボジアとはそうではない。かつてのチャンパ、水真臘に対してと同じように。

国家歴史博物館(以前の革命博物館、ハノイ市)

おわりに

◆前編のザンは、軍隊に入隊したものの、家庭の事情により南部への出征を拒否し、北部残留者から成る工兵部隊に編制された稀なケースであった。研究協力者D氏の話にあったメコン・デルタでの部隊離脱者たちの「むら」については裏がとれていない情報なので俄には信じがたいが、後編のソンの話にもあったベトナム戦争末期の南部の厭戦気分の高まりにも符合する話だと感じた。それにしても、どこの国の部隊でも「戦闘にびびる」兵士はいるもので、それにどう対応してきたのか(督戦隊の有無など)は、その軍隊の性格を問うものとなるのであろう。

◆ベトナム戦争研究の一人者であるC教授はその編著書である『ベトナム歴史』第12巻において、従来の「傀儡軍(ngụy quân)」「傀儡政権(ngụy quyền)」という言い方ではなく「サイゴン軍(quân đội Sài Gòn)」「サイゴン政権(chính quyền Sài Gòn)」を使用し、北方国境戦争では名指しで「中国軍」がベトナムを侵略したと記述するなど、民族の和解・和合・大団結に向けて画期的な歴史叙述をおこなった。
 その教授からベトナム戦争による犠牲者数など、正確な数字がないと言われたのは印象的であった。同教授は、ベトナム戦争の勝因の第一に「自主独立性と強烈な愛国心」を挙げているが、自主独立性を強調されていることは、ベトナム戦争が単なる「代理戦争」ではなかったことを物語っている。「強烈な愛国心」については、このように愛国心を無条件に前提してしまっていいのか疑問にも思った。むしろベトナム戦争の過程でそれが生成・発展していく構築主義的な捉え方をすべきではないだろうか。またかつての対戦国との関係において「過去を棚上げ」にする点でベトナムは韓国と違うとしているが、どうしてこの違いが出てきたのか、思考を刺激される。

◆L 少将はベトナム戦争中にポスター画にも描かれた英雄、スターである。また歴史研究者でもある。彼は、南シナ海問題では強硬な立場をとり、現在のベトナムの歴史教育にも懸念を抱いている。今は、戦没者の慰霊・顕彰事業に注力している。彼の話から、党・政府と人民軍隊は民族色の強いベトナム仏教教会「竹林禅院」と組み、全国の護国寺ネットワークづくりに取り組んでいることを知った。

◆ソンは、戦後直後、南部に派遣された文民行政官で、1990年代後半以降の農業政策立案のブレーンの一人でベトナム農業の市場経済化を推進した。父親が高級幹部で「バオカップ時代」は恵まれた生活をしていたが、1967年の反党修正主義事件で父親が捕らえられ、「悪い履歴」をもつようになり、軍隊に入れなかった。
 ソンは、グエン・ヴァン・ティエウ南ベトナム大統領の土地改革が成果を収めつつあったと評価している。また戦争末期の南部の人々の厭戦気分の高まりと、サイゴン政府軍と南部解放軍が共に兵士不足に陥っていたことを指摘している点が注目される。
 なお、ベトナム戦争中に北部から南部に派遣された文民幹部は少なくても約5万7千人おり、その3分の2は南部出身者である(拙稿「ベトナム戦争中における南部赴任幹部についての考察 ーベトナム第3国家文書館「B赴任幹部書類」検索リストを用いてー」『東京外国語大学論集第82号(2011)』383ー396頁)。
                            (了)

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