タイミングがいちばん重要という話
今日、今までずっとモヤモヤとしてうまく回答が出せていなかったことに
ひとつ終止符を打つことができた。
ある問題に、心から納得して思わず膝を打ったのである。
ずっとモヤモヤしていたこととは、
誰かにお土産やプレゼント、お裾分けをした時に、
お返しをいただくタイミングについて、である。
何かを差し上げたとき、ものすごい早さでお返しをくださる方がいる。
とてもありがたいのだけど、
同時に自分のした好意をそのまま押し返されたような、
ちょっと悲しい気分になるのもまた事実だ。
なぜそんな気分になってしまうのかの納得いく答えが
自分のなかでずっと長い間、うまく見つけ出せずにいたのだ。
すぐにお返しをくれる人は、借りをいち早く返してしまいたいんだろうか。
それとも、嬉しいという気持ちより、
何だか悪いなみたいな気持ちの方が勝っているんだろうか。
贈り物をしたことが相手にとって迷惑になってしまったんだろうか。
そんな私もまた、相手を嫌な気持ちにさせないタイミングで
ちゃんと渡せているんだろうか……。
この問題は、長年私のなかで結構大きなものだった。
考えすぎだと笑われるかもしれないけど、
腑に落ちる答えをずっと探していた。
今日は祖母の三回忌だった。
お寺で住職にお念仏を唱えてもらい、その後お説法をいただいた。
今日のお説法の内容は「布施」についてであった。
布施とは、仏教の六波羅蜜の中の一つ目の修行である。
六波羅蜜とは大乗菩薩の六種の修行のことらしい。
「托鉢」という修行がある。
お坊さんが誰かから施しを受けることの有り難さを学ぶ修行だと思われているけど、それだけではないらしい。
見返りを求めない施しをする機会を俗世の人々に与えることが目的だということ、
むしろそちらの方が、本来の修行の目的だということを教えていただいた。
そして、「布施」という行為は、誰かを喜ばせることではない。
他でもない、自分自身がいちばん気分がよく、魂が喜ぶのである。
自分が、癒やされるのである。
確かに、電車で体の不自由な人に席を譲ったり、
街角で募金をしたり、道端で倒れている自転車を起こしたり、
そんなことをした日は、夜寝るまでずっと気分が良かったりする。
施しをしているようで、実は癒しという施しをもらっていたのである。
私は、目から鱗が落ちる思いだった。
と同時に、お返しのタイミングのモヤモヤの答えが出た。
私は、人に何かを差し上げる時に見返りなんて求めてなかった。
喜んでくれることによって自分自身が満たされ、
喜びに包まれていたのである。
間髪入れずお返しをするという行為は、時にその喜びを奪ってしまう。
それは、「布施」という修行の邪魔をすることなのかもしれない。
修行はお坊さんがするもの、私たちには関係ない、と思われるかもしれない。
けれども、本当はそうじゃないのだ。
私たちは日々、無自覚に修行をしている。
私も誰かから何かをいただいた時は、
嬉しい、有り難いという気持ちを存分に受け取って、
その気持ちをその相手はもちろん、また別の誰かにも施していこう。
その人の修行の邪魔をしない絶妙なタイミングで。
「布施」の心をじっくりと感じることができる、
そんなベストなタイミングで施しができたら、
とてもやさしい思いやりに溢れた世界が広がっていくんじゃないだろうか。