古賀コン7 応募作品 『私のダンスをご覧ください。』

メガネを盗まれた。商店街の小さなメガネ屋の入口に置かれた電気超音波で汚れ落とすアレ。水に浸すやつ。なまえはしらない。に、浸してじっとメガネを眺めていた。何を考えるでもなく眺めていたから、背後から伸びる手に気が付かなかった。ひょいと何気ない動作で盗まれるメガネ。水が跳ねて顔にかかった。一瞬冷たいと思ったが、冷たいわけではなかった。訂正と同時に不快という言葉が頭を過り、瞬時にかき消しメガネ!と口に出していた。全力疾走する猫背の男性の後ろ姿が見えた。後ろ姿から年齢はわからなかったが、若くはないはずだった。遠ざかる後ろ姿。裸眼ではすぐに認識出来なる。思い出したように商店街のざわめきが聞こえ始める。

生まれつき視力が低かった。遠くを見る練習をすれば、視力が良くなると思って、空ばかり見ていた。空。私の名前。天から授かった女の子。だから、空。らしい。私が産まれた日の空は快晴だったと母は言う。目が悪いことにもきっと意味があると母は言う。母は物事にはすべて理由があるのだと考えていた。私はそんなこと後付けで何とでも言えると考えていた。私に父がいないことだって、ちゃんと意味があるんだって母は言うけれど、どんな意味があるのか母は教えてくれなかった。
私が産まれてすぐ母は離婚した。理由は知らない。離婚後、父は失踪。養育費だけはしっかり振り込まれているらしい。だから、その気になれば探し出せる気がしたが、母は父を探す気がないようだった。その代わり、母ひとりで私を育てることを運命だと考えるようになったらしい。
運命なんて馬鹿らしいと思ったけれど、母なりの孤独への対処だったのだと思うと、その考えを否定したくはなかった。
私はもっと現実を見たい。ぼやけた視界じゃなくて、正しく世界を見たい。本当のことだけを知りたい。高校生になってから学校に通えなくなった。理由はわからなかった。行こうと決意しても体は思うように動いてくれない。のか、思うように動いてくれないと思うから、学校に行けないと自分に言い聞かせているのか。どちらもきっと真だ。ただ、意味もなく近所をふらつき、帰りに商店街のメガネ屋でメガネを洗浄する日々を送っていた。

メガネを盗まれて立ち尽くす私にメガネ屋の店主が声をかける。私はろくに聞きもせず大丈夫ですと言って立ち去ろうとする。
店のPOP看板にぶつかってコケた私に店主と通りすがりのおばあさんが優しく手を差し伸べてくれた。私は二人の手につかまって立ち上がる時、目付きが悪くならないように笑顔を作ることに注力していた。
「すみません、見えてなくて」と私は二人に向かって頭を下げた。二人の表情はわからなかった。
店主のすすめで近くの交番に行った。事情を話すとお巡りさんは最近、メガネを盗られる事件がこの付近で多発していると教えてくれた。
母が迎えに来た。すぐに新しいメガネを買ってくれた。店主がサービスで格安にしてくれたらしい。次は盗られないようにしようと私は誓う。

裸眼になると思考が停止する。気がする。何も見えないと何も考えられない。視覚から得る情報で様々な連想をしていると気づく。でも、そんな思考停止中が好きだったりもする。思考を停止させるためにメガネを洗浄する。じっと、水に浸されたメガネを見る。店主が何気ない風を装って店から出てきて、周囲を窺っている。
私の目の前にはメガネがあって、こいつがないと私はほとんど目が見えなくて、だから、体の一部みたいなもので、それでいてメガネを通して見る世界は、所詮ろ過された景色だと思うこともあって、メガネを盗んだおじさんにだって見たい景色があったのかもしれないと思う。

メガネをかけると一気に世界が押し寄せてくる気がする。ずっと聞こえていたはずの商店街のざわめきもよりクリアに聞こえる。
「気をつけて帰りなさいね」とメガネ屋の店主が声をかけてくれた。私はありがとうございますと言ってお辞儀をする。また来ますの意を込めて手を振る。また来るということはまた学校を休むということだった。
このまま私はどうなるのだろうか?こんな調子じゃ社会に出たらやっていけない。と、誰に言われた訳でもないのに思う。商店街を抜けると広い国道に出る。信号が変わるまで待つ。空を見上げる。今日は快晴で、白い雲が風に流されている。踊ってみてはどうだろうか。信号が青になったらこの長い横断歩道を踊りながら進もう。くるくる回ったりスキップしたり飛んだり跳ねたりもうめちゃくちゃに踊りたい。本当は本当の世界なんて知りたくないのかもしれない。メガネ泥棒のおじさんには捕まらずに色んなメガネで景色を見てほしいと思う。母が物事に意味をつけたがるように、失踪した父も今空を見上げている気がする。信号が青に変わる。人々が歩き出す。それでは私のダンスをご覧ください。

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